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「少し歩こうぜ」


 ラファ高等祭司は立ち上がると、講堂裏の木立のなかへと歩いていった。彼の背中と、あの子どもが眠っている講堂の扉を交互に見ながら戸惑っていると、彼はくるりと振り向いた。

「ま、少しぐらいは大丈夫だろ。陛下のお守りを付けさせてるし、俺も幻覚の魔法をかけてる」


 彼の言いたいことは少しもわからなかったけれど、とにかく、ついてこいということらしい。無力な学生たるトックは粛々と従った。


 しばらくあてもなく歩いていると、不意にラファ高等祭司がぽつりと言った。

「俺が巫子を連れ帰ってから、エンザルフォン伯が躍起になってるのは知ってる」

先生のことだ。トックはドキリとした。


 確かに、もともと先生は巫子の捕縛に意欲的で、あのインターンをはじめ、たびたび各地の巫子の捜索に、特務部隊の人員を割いていた。ただ、最近はその傾向がより顕著になった気がする。

 ラファ高等祭司の連れていたあの子どももまた、巫子なのだと噂されていた。お偉方の権力闘争なんて、トックにはよくわからないけれど、ただでさえ公爵の後ろ盾を得て強い発言力を持っていたラファ高等祭司の地位はより盤石なものになった、らしい。それが先生には気に食わないようだった。


 ローアのことをことさらに可愛がっているのも、いずれラファ高等祭司を引きずり落とすための布石だとみんな知っている。知らないのは本人だけだ。ローアは先生のことも、この神官学校の教えも、まったく疑いもせずに信じこんでいる。


「何番だ?」

「えっ?」

「お前とローアが連れてきたっていう巫子だよ。見た目は?名前は聞いたか?どこから連れてきた?」


 ラファ高等祭司は、先生がどれだけ強大な力を得たかより、捕まった巫子自身のことのほうが気になるようだ。トックは気圧されながら答えた。

「あの、名前は聞いてないんです。巫子の印が耳にあって、黄土色の髪をしてる…」

それからトックはうつむいた。

「…あの、僕の仇なんです」


 それからポツポツと、トックはあの忌まわしいインターンの夜の話をした。あの女が怖くて、引き金を引いたこと。そうしたら彼が赤い印を継承したこと。彼がまたたく間に先輩たちの首を落としたこと。

 きっと向こうは向こうで、トックのことを憎んでいるだろうこと。


「シェイルで、あいつが襲ってきたんです。あの女の仇だって。僕とローアで、魔弾銃を撃って…でも、なんだか変な感じでした。僕たちにわざと捕まったみたいな…」

 ラファ高等祭司はなにを考えているのか、じっと黙りこんだままで相槌もなかった。トックはおずおずと続けた。

「…先生なら、なにか知ってるかもしれないけど。僕たち、あいつを先生に引き渡して、僕たちが着替えを持って戻ってきたときには…その…」


 それ以上は口に出せなかった。自分がなにかとても恐ろしいことに加担してしまったような気がしてならなかった。


 言葉を切ったトックの肩を軽く叩いて、ラファ高等祭司は深いため息をついた。

「そうか。話してくれてありがとうな」

「い、いえ…いえ、そんな」

胸の奥に残ったしこりが苦しくて、トックはなんべんも首を横に振った。


「ラファ高等祭司さま…僕、わかんなくて」

「なにを?」

「あいつは先輩たちの仇で、殺してやりたいくらいなのに…ローアも先生も、あいつを痛めつけてもなにも気にしてないのに…僕は、ぜんぜん喜べないんです。あいつがボロボロになって、僕のことを見る目が忘れられなくて…ざまあみろとも、いい気味だとも、とても思えない」

 トックは嗚咽をこらえて、まぶたをこすった。

「僕がおかしいんでしょうか…」


 ラファ高等祭司は、トックの正面に立って身をかがめると、下から覗きこむようにこちらを見た。吸い込まれそうな瑠璃色の瞳がほんのりと弓なりになって、ラファ高等祭司はほほえんだ。

「おかしくなんてないよ」

「ラファ高等祭司さま…」

「お前がその巫子を恨むのも、エンザルフォン伯の仕打ちに同調できないのも、お前には人の痛みが分かるからだ」


 そんな高尚な話だったのだろうか。トックはいまいち納得がいかなかった。ラファ高等祭司はポケットのあたりをパタパタ叩いて、おどけるように肩をすくめた。

「悪い、こういうときにハンカチでも差し出せりゃいいんだけど、忘れてきた」

「い、いえ、そんなめっそうもない!」

「特務学科にマトモなやつがいるとは思ってなかった。お前はたぶん、幻覚の類いに耐性があるんだな」


 げんかく?目をしばたくが、ラファ高等祭司は「なんでもない」と話を逸らした。

「とにかく、その巫子をどうするかだな。とはいえ俺のとこにはクレッセがいるし、ほかの巫子とあまり近づけるのも…」

「助けてあげてよ、ラファさん」


 突然知らない声が割りこんできて、トックは小さな悲鳴を上げて飛び上がった。振り返ると、いつからいたのだろう。小柄な影が大きな木の足元でしゃがんでいた。

「クレッセ、いつのまに」

「僕、ルナセオにお願いしたんだ。ネルとデクレのこと。だからこんなところで脱落されたら困るよ」


 小麦色の髪の少年は、ジャラジャラとたくさんの腕輪や首飾りをつけていて、動くたびに音がした。彼はどこかぼんやりとした表情をして、すこし尖った石で地面に落書きしていた。その小さな手には、生成り色の手袋がはまっている。

 先ほどまで講堂で寝ていた、ラファ高等祭司の連れてきた巫子だ。


「お前、そういえばラトメであいつと話してたんだっけ。仲良くなったのか?」

「そんな時間はなかったでしょ。ちょっと話しただけ」


 クレッセと呼ばれた少年はこちらを見上げた。琥珀色の瞳は、トックより年下とは思えないほど深い色をしていて、トックは思わず一歩後ずさった。

「でも、きっと僕とはそこまで仲良くなれないだろうな。親切で気遣い屋なタイプだったもの。デクレとは気が合いそうだった」

「そりゃお前とは合わねえな」

そしてラファ高等祭司は、少年を親指で指しながらシニカルに笑った。


「コイツはウチの甥っ子で、クレッセっていうんだ。巫子だけど、訳あって俺が保護してる。ま、あんまり知り合いもいないし、仲良くしてやってくれ」

「お…!?」

 トックは頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。高等祭司の身内に巫子がいるなんて、考えてみたこともなかった。ローアだって知らないのではないだろうか。

 目を白黒させながらクレッセとラファ高等祭司を見比べていると、彼らは揃って苦笑した。

「ローアには内緒な」

ラファ高等祭司がそう言って片目をつぶった。トックは何度も頷く。こんなこと、ローアが知ったら、どんな行動に出るか予測もつかない。彼女にとって、巫子というのは生まれながらにして悪をなす怪物のようなもので、人の親がいるなど考えてもいないに違いないのだから。


 クレッセは立ち上がると、少し丈の余った神官服の尻のあたりををハタハタと払って、こちらに歩み寄ってきた。

「とにかく、ラファさんができないなら僕がやる。ルナセオを伯爵さまから助け出すよ」

「そうは言ってもお前、日中は動けないだろ」


 ラファ高等祭司の言葉に、クレッセはチラリと空を見上げた。日が傾いて赤く染まり出した夕暮れの空にひとつため息をつくと、クレッセはまっすぐトックを見た。

「きみにも協力してほしい」

「ぼ、僕?」

「きみ、その伯爵さまとはよく関わるんだよね?ルナセオの居場所はわかる?」


 当たり前のように協力を求められて、トックは戸惑った。あの少年はトックの仇だというところを、クレッセは聞かなかったのだろうか。

 しかし、彼はちゃんと状況を理解していたらしい。答えに窮したトックに、彼は小首をかしげた。

「きみは、自分の敵が簡単に退場しちゃうのが嫌じゃないの?」

「……え?」

「本当はいつかきみ自身がルナセオに手を下したかったのに、その前に伯爵さまがあっさりルナセオをやっつけちゃったから。いずれきみが力をつけて立ち向かうはずだった強い巫子が負けるのが気に食わないとは思わない?」


 目から鱗がでた気分で、トックはクレッセをまじまじと見た。ラファ高等祭司の慰めよりもずっと、なんとなく自分のなかで定まらなかったすわりの悪い気持ちに、パチリと説明がついたような気がした。


 トックはこの学校じゃ成績だって優秀とはいえないし、どんくさくてよくドジを踏んだ。現実的な話として、今のトックが、不老不死の強い力を持つ悪しき巫子をどうこうできるとは思っていなかった。巫子というのはそれだけの存在なのだと教わっていたから。

 それなのに、トックとローアの手であっさり捕まった上に、先生の手によって簡単に心を折られた。あまつさえ、憎んでいるであろうトックにまで縋ってきた。


 先輩たちを殺した恐ろしい巫子は強大な怪物なんかじゃなくて、トックと同じ、ただの無力な少年であった事実が、トックには受け入れがたかった、のかもしれない。トックがいつか特務部隊に入って、彼に敵うだけの力をつけて復讐を果たすまで、誰にも手出しされない存在だと信じていたのかも。


 トックの目の色に光が宿ったのを見てとってか、ラファ高等祭司は盛大にため息をついた。

「クレッセ、お前、あいつを助けたいんじゃないのかよ」

「もちろん。でも、ルナセオたちの個人的な確執まで止める気はないよ。僕はただ、いつかみんなが僕を倒すまで、ルナセオにネルたちを守っていてほしいだけ」


 倒すまで?トックが瞬きすると、クレッセはほほえんだ。少し困ったような下がった眉は、彼の温和な人柄があふれているようだった。クレッセは握手でもしようとしたのか、右手を差し出しかけて、それからすぐに引っこめた。

「自己紹介してなかったね。僕はクレッセ。いつか世界を滅ぼす、9番目の巫子だよ」



 遠い昔、戦争を終わらせて、神都ファナティライストを打ち立てた聖女クレイリスは、罪を犯した。聖女の仲間を殺し、その魔力を吸い上げて、強大な力を得ようとした。

 それに対抗したのが、ファナティライスト神殿にある円卓の9番目。亡国の王子だとか、戦争では一騎当千の騎士だったとか、眉唾ものの逸話は多くあれど、その人物が結局何者なのか、はっきりしたことは分かっていない。


 彼は聖女クレイリスに対抗するために、聖女と同じ赤い印をつくり出し、彼女を討ちたおさんと立ち上がった。聖女はめでたく封印され、いまの世界王に王座を譲り、9番もまた、世界から姿を消した。


 聖女はいなくなり、世界は平和になったけれど、その後も聖女の作った赤い印を宿した人間が生まれて、世界を混沌に陥れる。我々は、世界を統べるファナティライストに仕える者として、巫子はすべて捕らえて管理しなければならない。


 それが授業で習った、「ほんとうの赤の巫子の歴史」だ。しかし、クレッセの語る巫子の物語は、トックの知るものとはまったく逆だった。


 いわく、世界を混沌に陥れる者こそが9番目の巫子だとか。


 いわく、ほかの巫子は、9番を殺して、世界を救う存在だとか。


 いわく、まず世界を滅ぼしたいと願う者が9番に選ばれて、ほかの巫子は9番を止められるに足る、9番にゆかりのある者が選ばれやすいのだとか。


 神殿への道を歩きながら、クレッセは歌うように語って、それからくすりと笑った。

「ファナティライストで語られる歴史と、どちらが正しいかはわからない。でも、僕がもう何もかも嫌になって、9番の手を取ったのは間違いないんだ」

「だ、だけど…君は、世界を滅ぼしたいなんて思うの?ぜんぶ、なにもかも、なくなっちゃっていいの?」


 世界なんて広い範囲のことなど、クレッセにはよく分からなかった。こんな小さな子どもに何があったら、そんな絶望的な道を歩みたいと思うのだろう。


 クレッセは、目の前に建つうつくしい白亜の神殿を眺めながら、ささやくように言った。

「世界を滅ぼしたいって言っても、僕は別に、天変地異を起こしたいわけでも、人類を滅亡させたいわけでもないよ。

 僕はこの世界を支配している、聖女の物語を消し去りたい。巫子なんてもう二度と、この世界に現れないように。誰も生贄になんてならない世の中になるように」

「いけにえ?」

「巫子は世界の生贄だ。平和を保つために、悪役と英雄を選んで争わせて、世界の団結を示すための舞台装置みたいなもの。神罰とか天災とか、そういう不可抗力を人工で作り上げたようなものなんだって」


 クレッセが不意に目の前に落ちてきた葉に右手をかざすと、それはパラパラと灰のように崩れて落ちていった。ほらね、と言いながらにこりとして、クレッセは手袋のはまった右手を開いたり握ったりした。

「9番が持つのは破壊の力だ。いずれは僕自身もこの力に取りこまれてしまうけど、今はラファさんや世界王陛下に抑えてもらってるから、ある程度自分の意思で制御できる。ルナセオの居所さえわかれば、逃げ道を作ることくらいはできる」

「俺はその力を使わせるために抑えてるわけじゃないんだけどな」

今まで黙ってあとをついてきていたラファ高等祭司はそうは言ったものの、強硬にクレッセを止めようという気はなさそうだった。ポケットに両手を突っこんで、すっかり第三者気取りだ。


 トックはうつむいた。

「あの巫子は…昨日は、神殿の地下牢に連れていったけど…でも、今もそこにいるかはわからないよ。あいつ、隷属の首輪をつけてるから。たぶん拘束しなくても、先生には逆らえないと思う」

ゆうべ彼に付けられた首輪は、所有者の意に沿わない行動をすれば強烈な痛みが走る代物だ。よほど危険な凶悪犯でもない限り、今どき滅多に使われない古い魔術道具だが、捕虜の気力を削ぐのに、あれ以上のものはない。


 ラファ高等祭司は、あの首輪の効果を知っているのか、顔をしかめて舌打ちした。

「チッ、胸糞悪いな」

「首輪は僕がなんとかできる。ひとまず、今夜はルナセオの居所を探さないと」

クレッセは足元の地面を見下ろした。

「まずはその地下牢に行ってみよう」

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