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 トックは十歳のころまで、この神都ファナティライストの貧民街で育った。


 よそではどうか知らないが、神都には明確な身分差がある。都は貧民街、平民街、貴族街のみっつに区切られていて、住まいがファナティライスト神殿の近くであればあるほど身分が高かった。貧民街の端なんてもう無法地帯だ。どんな犯罪が起きようと目こぼしされる。


 幸いにして、トックは貧民街のなかでも平民街にほど近い、まだ平穏な場所で育った。親はそれなりに優しかったし、冬にはひもじい思いをすることはあれど、周りにはもっと飢えるような生活をしているやつもたくさんいた。


 よほどのことがなければ、神都の民は自分が生まれた街から出ることもなく一生を終える。貧民街と平民街をつなぐ長い階段はあるが、それをのぼった貧民は生きて帰ってはこられない。

 だから、本来であれば、トックの身分で神殿に仕えることなどあるはずはなかった。


 ところで、トックはほんの幼い頃から、下水道近くに居を構える物知り爺さんに字を教わっていたので、貧民にしては多少の学があった。

 爺さんは元は貴人だったのか、家には政治やら地理やらの本がたくさんあった。残念ながら、当時のトックに難しい本は理解できなかったけれど、自分の名前も書けない貧民たちの中では、貴族の幼児向けの絵本が読み解けるだけでヒーロー扱いされる。


 だから、トックは貧民街の中では、すこしばかり目立っていたのだと思う。あるときフラリとやってきた神官学校の教師と名乗る男に、若く才ある者には貴賎なく学んでもらいたいという高尚な話をされて、両親は喜んでトックを差し出した。貧民にとってはまたとないチャンスだ。優しい両親は、その教師に金を無心したり、何か親である自分たちに恩恵を求めたりすることもなかった。…たぶん、息子とはもう二度と会えないということも、理解してはいなかったのだと思う。


 その教師が「先生」だった。一生上るつもりもなかった階段を進んで、トックは貧民街を出た。


 トックだって、当初はまだ、自分の将来は拓かれたものだと思いこんでいた。物知り爺さんの元で勉強してきた自分の才能が認められたのだと鼻高々だった。


 だが、あくまでここは神都ファナティライスト。やはり本来であれば、トックは神官学校の敷居をまたぐ資格など持ち合わせてはいなかったのだ。


 神官学校は六年制だ。卒業すれば世界中の教会や、優秀な者ならファナティライスト神殿に出仕できる。神官にならなくたって、神都の神官学校を出たと言えば箔がつく。それだけの狭き門だ。貧民街で申し訳程度に文字を覚えただけの世間知らずが入学できるような甘いところではない。

 ただ、神官学校の中には「特務学科」と呼ばれるところがあって、そちらは四年制、卒業すれば神殿の要職に仕えて、特殊な任務を請け負う部隊に配属される。


 つまり、汚れ仕事を任される職務だ。トックが入学したのもそこだった。

 後ろ暗い仕事は「普通科」の前途ある若者にはさせられないということだろう。特務学科には、トックと同じような境遇の者が多かった。「先生」はこの特務学科の学科長で、最低限の読み書きができて、かつ何が起こっても後腐れのない人間を招いているようだ。

 今は四年生、夏を終えれば卒業だ。すでに、必修授業以外は先生の元で諸々の仕事を任されている。たぶん、卒業すれば誰かほかの要職の元へ配属されるのだろう。同級生の中には、今から高等祭司や神官の元へ自身を売り込んでいる者もいる。トックにそんな人脈はないので、先生の采配に任せるつもりだが。


 あのうらぶれた街では決して受けられない高等な教育を受けさせてもらって、先生には感謝している。だが、この特務学科を指揮している以上、あのひとが善人だとも、到底思えはしなかった。



 寝不足の頭では、淡々とした教師の声は眠気を誘うばかりだ。今日のトックはいまいち授業に身が入らなかった。

 結局、あのあともトックは一睡もできなかった。身体は疲れ果てて睡眠を欲しているのに、布団にくるまっていると、あの少年のまなざしが思い出されて、とても目を閉じていられなかったのだ。


 あの巫子は今頃、何をしているのだろうか。…何を、させられているのだろうか。


 小綺麗な手、整った顔、細身ではあるが健康的な姿。見れば見るほど、あの少年はトックなどよりよほど恵まれた人生を歩んでいるようにしか、


 ただの幸福な少年が、不意に絶望に叩き込まれたようにしか見えなかった。


 彼は、たぶんトックのことを憎んでいる。トックが彼を仇だと思うのと同じように、彼は彼でトックに殺意を抱いているのは明らかだ。互いが互いの仇で、許せない相手だというのは、クレイスフィーで彼とすれ違ったときから明らかだ。

 再会したのがあんな昼間の街中ではなかったら、時間を改めることなく、その場でふたりして武器を持ち出していたことだろう…


「ック…トック!」

「はい!」

反射的に立ち上がると、目の前で教師が口元を引きつらせて立っていた。見れば、教室中がトックに注目している。


「お前、卒業前だからといって気を抜いていないか?え?」

「ヒッ、すすす、すいません」

トックはペコペコと頭を下げた。隣の席の女子がクスクスと笑う声が聞こえて、トックは耳まで真っ赤になってうつむいた。

 教師がため息をついたところで、終業のチャイムが鳴った。

「今日の授業の内容について、自身の見解を交えながらレポート一巻き提出すること!トックは五巻きだ!」

「ええ…」

トックは反射的に嫌そうな声が漏れたが、教師にギロリと睨めつけられて、しゅんと縮こまった。

「は、はい」

「よろしい。本日はここまで!」


 教師が去ったところで、同級生のひとりが不満げな声を上げた。

「オイ、トック!お前のせいで無駄な宿題が増えただろ」

「ご、ごめん」

「罰として今日の講堂掃除はお前がやれよ」

「うん…」


 過剰な宿題が出された挙句にこの仕打ちだ。投げつけられた講堂の鍵を受け止めながら、トックはうなだれながら頷いた。講堂掃除は広い上に装飾磨きに時間がかかるので誰もやりたがらない。どんくさいトックは、なにかと理由をつけては面倒ごとを押し付けられていた。


 これは先生のところに行くのに時間がかかるだろうな、とぼとぼと鞄を持って教室を出て行こうとすると、「ちょっと!」と呼び止められて、トックはさらにうんざりした。

「…なに、ローア」

「アンタ、今日も先生のトコに行くんでしょ?先生をお待たせするつもり?」


 彼女だってゆうべは夜遅かったはずなのに、寝不足なんて感じさせないほどいつも通り溌剌としていた。ローアはあの少年を見て何も思わなかったのだろうか…思わなかったんだろうな。トックはやれやれと首を横に振った。

「掃除が終わったら行くよ。ローアは先に行ってて」

「なによ!生意気ね。昨日はあの巫子にビビってたくせに!」

 ローアを無視して講堂へ向かおうとした足がピタリと止まる。彼女はフンと鼻を鳴らすと、腕を組んで仁王立ちした。

「結局アイツ、先生がけちょんけちょんにして震え上がってたじゃない。巫子っていってもただの小物だったわよね。あんなのにビクビクしちゃって、トックったらホントに弱虫」


 ああ、吐き気がする。トックはくちびるを噛み締めた。胸の奥がムカムカした。彼女くらい呑気だったら、僕も迷わず彼を憎めただろうか。


「僕は、昨日の…先生にやられたあいつを見て、もっと怖くなったよ」

「はあ?」

「もしかしたら、悪党は…こっちのほうなのかもしれないって、思っちゃったから」


 なに言ってんのと言わんばかりの、ローアの怪訝そうな顔。トックは今度こそ振り返らずに講堂へ走った。


 先生も、ローアも、平穏に学生生活を謳歌している同級生たちも、ぜんぶ気持ち悪い。

 この学校で教わった完璧な正義から、トックただひとりがポンと放り出されてしまったような、逃げ出したくなるほど恐怖がすり寄ってくるのを感じた。



 神官学校の敷地にはいくつかの建物があって、トックが通っているのは端も端、特務学科専用の別棟だ。講堂へ行くには長い坂を下って、中庭を抜けていく必要がある。

 深緑の木々に囲まれた講堂は、なにか特別な式典があるときしか使われないので、だいたいいつも人気が少ない。ただ、神官学校の設立当初から建て変わっていない少し古ぼけた建物は、どことなく静謐な雰囲気があって好きだった。


「あれ?」

 その講堂の扉が半開きになっていたので、トックは首をかしげた。今日は特に講堂が使われるような式典はないはずなのに。第一、講堂の扉の鍵はトックの手の中にある。


 よもや泥棒ではあるまいな、恐る恐る開いた扉のすきまから中を覗きこむと、左端の一角だけ、燭台に火が灯っていた。近くの椅子に誰かが座って、書類のようなものを読んでいるようだ。

「あ、あのう」

声をかけると、彼はぱっと振り返った。その顔と、身にまとう衣装を見て、トックはあっと声を上げた。


 ブラウンの髪に、宝石みたいな瑠璃色の瞳。黒い重厚なコートは、ファナティライスト神殿の高等祭司のものだ。反射的に背筋が伸びた。

「しっ、し、しつれい…」

しい、人差し指を口元に当てて制されて、トックは慌てて自分の口をふさいだ。彼が自分の隣の席を指し示すので、こわごわ覗き込むと、そこには小麦色の髪の幼い少年がすやすや眠っていた。お絵かきでもしていたのか、ぐちゃぐちゃと赤い花畑を描いた紙が足元に散らばっていた。


 高等祭司は足音をしのばせてトックのそばまでやってくると、苦笑しながら小声で謝ってきた。

「悪いね、ここの掃除に来たんだよな?」

「あの、いえ、とんでもない」

ワタワタと手を振ると、高等祭司はチラリと眠っている子どものほうを見た。

「やっと寝たとこなんだ。しばらく眠らせてやりたくてさ。ここの掃除は俺がやっとくから」

「そんな!」

思わず大声を上げそうになって、トックは子どもを見た。幸いにして起こしてはいなかったらしい。

「そんな、高等祭司さまに、そんなこと、させるわけには」


 あの少年が起きるまで待つしかあるまい。小刻みな足取りで講堂を出ると、なぜか高等祭司があとをついてきた。

「なあ、お前、特務学科の子?何年生?」

「ヒェ」

まさかこんな大御所に個人を認識されるなど恐れ多くて、トックは震え上がった。だが、彼のほうはきょとんとして瑠璃色の目を丸くしている。

「なんか悪いこと聞いた?」

「ヒッ、いえ!四年です!」

「ああ、じゃあ俺の娘と同学年だ」

「……」

よく存じております、とは到底言えず、トックは視線を逸らした。だが、それだけでこの高等祭司には通じたらしい。彼はヒゲひとつ生えていないまっさらなあごを撫でながら考えこんで、それからちょっぴり小首をかしげた。


「ひょっとして…お前がトックって子?」

「ギャッ」


 トックはなにもないところでずっこけた。頭からずしゃりと地面に突っ込んだが、それどころではない。トックはがばりと起き上がった。

「な、なんで、どうして」

「どうしてって、そりゃ、うちの娘がよく話してるから」

ローアのやつ、いったいなにを吹きこんだんだ!トックは耳まで真っ赤になった。百面相のトックに、高等祭司は苦笑しながら「大丈夫?」と手を差し伸べてくれた。

「その様子だと、俺の自己紹介はいらないかな」

「あなたのこと、知らない人はこの学校にはいません…ラファ高等祭司さま」

「いーよ、様なんて」


 ラファ高等祭司はそう言ってカラカラ笑ったが、彼を敬称なしで呼びなどしたら、ローアばかりでなく学校中の人から殺される。


 ローアの父親であることを差し引いても、彼はこの神官学校で…いや、ファナティライストでは有名だった。六年制の普通科を飛び級して三年で卒業し、神殿に入ってまもなく、公爵の推薦を受けて高等祭司に任命された才覚の持ち主だ。高等祭司になってからも、神都内の環境整備から他都市との関係改善まで、彼の活躍は枚挙にいとまがない。世界王の信頼も厚いと聞く。おまけに、何年たっても少年のように若々しい不老の姿は、彼自身が神の末裔である証だ。


 こんなカリスマの塊が父親だったら、そりゃあローアみたいなファザコンに育つのも道理だろう。だが、いま講堂の前の段差に腰掛けるラファ高等祭司は、まるでただの少年みたいに頬杖をついて、蟻の行列を見るともなしに眺めていた。

「ローア、元気にしてる?最近忙しくて、インターン前から会えてなくてさ」

「アー、げ、元気です」元気すぎてこっちは辟易するくらいだ。トックは指先をいじりながら返事した。


 ふと、この人はどう思うんだろうと、トックの頭の端がささやいた。これだけ立派な人であれば、今日トックが抱えていた鬱屈した思いをわかってくれるだろうか。あるいは、やっぱり彼もローアや先生と同じで、トックだけが異端なのか。

 トックはぎゅっと両手を握りしめた。

「…昨日も、はしゃいでました。ラファ高等祭司さまに認めてもらえるって」

「うん?」


 トックは意を決して顔を上げた。

「僕たち、きのう、巫子を捕まえたんです」


 ラファ高等祭司の瑠璃色の瞳が、ひたとこちらを見据えた。

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