28
※残酷な描写あり
これまでだって散々な目には遭ったけれど、それらが霞むくらいの地獄がそこにあったと思う。
最初に魔法をかけられた。それから、汚れた便座の蓋の上に、うつくしい紫色の砂が入った砂時計が置かれた。
「先生」は、耐えてみなさい、と言った。この砂が落ちきるまで耐えられたら休憩をあげようと。
それからしばらくは、痛くて苦しいのが続いた。朦朧としてくると冷たい水をぶっかけられて、決して許してはくれなかった。
指も、脚も、腹も、首も、どこもかしこも痛くてしかたがなくて、喉が枯れるまで叫んだ。
うつくしい砂粒が落ちる。まだ先は長い。
汗も涙も、だらだらと身体のあちこちからさまざまな液体が流れても、誰も来なかった。あの二人組が服を持ってきてくれるはずなのに。
うつくしい砂粒が落ちる。まだ先は長い。
杖が空を切る音が、荒い息遣いが、銃声、ばきん、ぼきん、不吉なおとが、遠くから、近くから、耳障りに鳴って、かんだかい、ひめいが、どこかから、あ、あ、ちがう、これはおれのくちから、
うつくしい砂粒が落ちる。まだ先は長い。
うつくしい砂粒が落ちる。まだ先は長い。
うつくしい砂粒が落ちる。まだ先は長い。
うつくしい砂粒が、
砂粒が落ちきると、「先生」はもう一度砂時計をひっくり返して、その間だけ休憩をくれた。砂粒が落ちきるたび、地獄と安息が交互にやってくる。
だんだん、すべての光景や音が、膜を隔てた遠くのできごとに感じられるようになってきた。すると「先生」は、しわがれた声でうたうように、聖書の文句らしきかみさまのことばを暗誦しはじめた。
寒い地下牢のなかで朗々とひびくそれを聞きながら、ルナセオはぼんやりと、学園でも同じことばを習ったことを思い出した。
聖書や倫理の授業なんて、それこそグレーシャがサボる最たるものだ。教師はもはや諦め顔で、からっぽの席を見ながらしかたないですねえ、なんて言うのを、ラゼだけは腹立たしそうに連れ戻そうと躍起になっていた。
「だって、この世界にはもうカミサマなんていないんだぜ」
あるときグレーシャはそう言った。彼は授業に出ていなくたって、いつも自分で授業以外の知識を仕入れてくる。
「双子神は死んでるのに、もういない神様に何を祈ったり願ったりする必要があるんだよ。助けてくれるわけでもなし」
「あのねえ」
対するラゼは呆れ顔だった。
「アンタが神様を信じないからって、聖教の単位を落としていいって話にはならないでしょ」
それに、とラゼは付け加えた。
「信じようが信じまいが、人ってのはどうしても辛いときに、縋るものがほしくなるのよ。双子神がもう死んでたって、そのかけらがまだこの世界にあるって考えたほうが、救いがあるじゃない」
ああ言っていたラゼにも、神様に縋りたくなるような、辛い瞬間があったのだろうか。
ルナセオ自身は信心深くはなかったけれど、ラゼのその考え方は悪くないと思えた。たとえ神様がもういなくとも、この世界にその息吹が残っているのなら、まだ世界は神様に見捨てられてはいないのだと、信じられるような気がした。
…それでも、神様はただ見ているだけだから、ルナセオを救ってくれはしないけれど。
腹が減ればなにかの肉を食わされて、眠くなれば臭い水をかけられる。人としての尊厳なんてなにひとつ保証されない。いったい何日経ったのだろう、砂時計がひっくり返された回数も数えられなくなったころ、「先生」が不意に杖の手を止めて「おや」と声を上げた。
「すまなんだ、砂時計を返し忘れておったようじゃ。…今から始めるということでよいかのう」
コトン、何食わぬ顔で、先程砂が落ちきったはずの砂時計をひっくり返して、杖を振り上げる老人の姿に、心の奥底にかろうじて残っていた細い糸が、ぷつんと切れた気がした。
◆
トックとローアが牢に戻ってきたとき、悪しき巫子はまるで魂が抜けたかのように、先生の足元に座りこんでいた。
諸々の手続きで時間はかかったが、一辰刻も経っていないはずだ。それなのに、ただでさえボロボロだった彼の服は悲惨なボロ切れになって、牢の中はむせるような血臭がした。
ローアは牢の中にいる先生を見て、きゅっと目をつりあげた。
「先生!危険よ、牢の中に入るなんて!」
このありさまを見てなお、純真に先生のことしか心配していないローアに、トックは吐きそうになった。彼女を振り返った先生は、いつもの好々爺然とした柔らかな笑みを浮かべて振り返った。手にした杖に仕込まれた刃をさりげなくしまっているが、その刃が真っ赤に染まっていたのを、トックは見逃さなかった。
「大丈夫じゃよ、もう彼に危険はあるまい」
「じゃあ、先生が倒したのね!」
ローアは手を叩いて喜んだ。先生はうんうんと頷いて、トックに視線を向けた。
「トック、彼を身綺麗にしておやり。こんななりではかわいそうだからね」
そして、トックが抱えている着替えの一番上に置かれた金属製の首輪を手に取ると、それを少年にはめた。彼は何も言わずにされるがままだ。
彼は何が見えているのか、カッと目を見開いたまま、床の石の継ぎ目を見つめていた。微動だにしていないと思っていたが、よく見ると小刻みに震えていて、血と汚物にまみれていてもくちびるまで真っ青になっているのがありありと分かった。
先輩たちを殺した、生かしてはおけない憎むべき敵なのに、その姿を見ても、トックにはとてもざまあみろとは思えなかった。
むしろ、この場にいてニコニコと朗らかに笑う先生と、そのそばで汚いものを眺めるように少年を見下ろすローアのほうが、よほど薄気味悪く思えてならなかった。
◆
トックは彼の手を引いて、神殿内の下働き用の浴場に連れてきた。着替えを押しつけてあとは放っておこうとも思ったが、彼は脱衣カゴの前で立ち尽くしたまま、ピクリともしない。仕方なしにため息をついて、ビリビリのボロ切れを剥がしてやると、シャワー室に突っ込んで、お湯ををひっかけた。少し勢いがつきすぎたようで、トックの服の裾も濡れた。
ばしゃんとお湯が跳ねた瞬間、少年はビクリと大きく揺れて、自分の頭を抱えてうずくまった。
「やめてください!」
トックは袖とズボンの裾をまくりながら、彼の悲鳴を聞いていた。
「やめてください、ゆるしてください、もうねむらせてください」
「そんなドロドロのままじゃ、ベッドが汚れちゃうよ」
トックは思わず言い返していた。あんなに恐ろしい巫子だったのに、不思議と声はどもらなかった。
「ほら、ここには先生はいないから。立って、前向いて」
「先生!」
ルナセオはか細く鳴いて、黄土色の髪を掻きむしった。
「先生…先生!」
一体先生は、彼になにをしたのだろう。あの短時間で、ここまでこの少年を怯え、屈服させるなんて尋常ではない。
とはいえいつまでもこうしてはいられない。もう空も白んできたが、さっさと彼を先生に引き渡して、少しでも睡眠をとりたかった。
らちがあかないので、トックは縮こまる少年をガシガシ丸洗いして、なんとか汚れを落とすと、大きな布で雑に拭いて、用意していた貫頭衣をバサリと着せた。まさか年上の少年の介護なんてすることになるとは思わなかったが、神殿で飼っている騎獣の世話は神官学校の生徒の仕事だったので、思わぬところでその経験が功を奏した。
先生にどれだけ身も心も痛めつけられたのか、ボロボロだった巫子は、しかし傷ひとつなくまっさらな肌をしていた。左耳だけが異様に赤く染まっていて不気味だ。巫子の不老不死というのは、どんな傷もたちまち治ってしまうらしい。
貫頭衣は神官見習いの簡素なものだが、神殿を出入りする人の衣服だけあって縫製はしっかりしているし、上から大きな付け襟を装着すれば、それなりに身なりよく見える。肝心の少年の顔がうつろにやつれてはいるし、不吉な首輪ははまっているが、上品な顔立ちの少年にはそれなりに似合っていた。
彼は、はくはくと浅い息を吐きながらまだ泣いていた。肩より長く伸ばした髪や、毛が薄いのかヒゲひとつ生えていないまっさらな顎も中性的で、女子受けがよさそうだな、とトックはぼんやり思った。手指は少し硬くなっていたけれど、ちっとも荒れてなんかいなくて、きっと水仕事などには縁がなかったのだろう。
彼は暗く澱んだ瞳から、透明な雫を落としてつぶやいた。
「かあさん…」
「…!」
反射的に、背筋が粟立って、目の前が真っ赤になった。
あの夜、目の前で先輩たちがなすすべもなくバタバタと殺されていった。この少年はどこか呆然と、だが少しばかり恍惚と、あの女から受け継いだチャクラムを振るって、先輩たちの首をふっ飛ばしたのだ。
厳しいところもあったけれど、優しいひとたちだった。あの日は神官学校のインターンで、はじめての任務だったから、トックは緊張でガチガチになっていた。
バシバシとトックの背中を叩いた先輩も。
レクセディアに向かう途中、食べるかいとチョコレートを差し出してくれた先輩も。
マントのサイズが大きすぎて蹴つまずくトックを、指差して大笑いした先輩も。
あっという間に殺して、感慨もなく一瞥した少年は、恐ろしい悪鬼だと思った。殺さなきゃ、先輩たちの仇を討たなきゃと思うのに、身体が震えてまともに引き金も引けなかった。
巫子とは生まれながらのものではなく、人から人へと受け継がれるものなのだと、あの日初めて知った。神官学校では、巫子は生来の悪党のように語られていて、あの女からこの少年へ印が継承されるのを目の当たりにしなければ、トックは今もその教えを信じていただろう。
それでも、巫子に選ばれるからには、彼にはそれ相応の悪徳があって、トックが憎むに足る人間性の持ち主なのだと思っていた。
間違っても、臆病に母を呼んで泣くような、そんなか弱い存在であるはずがなかった。
「…ほら、行くよ」
無性に腹立たしくて、トックは彼の腕をつかんだ。彼を引っ張る先があの地下牢に近づくにつれ、少年はイヤイヤと幼児のように首を横に振ったが、その脚は小鹿のようで、小柄なトックに引き立てられるがまま、逃げだすこともできないようだった。
トックが浴場で少年の汚れと戦っている間に、先生は牢の中を軽く掃除したらしく、あのおぞましい血だまりやらなにやらは消えていた。先生の魔法はいつだって見事だ。
ローアはもう帰ったのか、先生はひとりだった。少年は音がなるほどガタガタ震えているが、トックは心を無にした。
「着替えさせてきました」
「ご苦労さま。トックもそろそろお休み。徹夜は身体によくないからねえ」
「…このひとは」
言いかけて、トックは口をつぐんだ。聞いて、なんになるというのだろう。この少年がこれから、先生の元でどんな目に遭ったところで、彼がトックにとっての仇で、憎むべき相手であることは変わらないのに?
先生はじっとこちらを見据えて、トックの言葉を待っていた。トックは、ゆっくりと首を横に振った。
「あの、い、いいえ。なんでもありません」
「左様」
先生は深くうなずいた。
「これより先は、君の預かり知るところではないよ。君は儂のかわいい生徒だからねえ」
「…おやすみなさい」
踵を返したところで、つんと背中が引っ張られて、トックはたたらを踏んだ。
振り返ると、縋るような黄土色の瞳を目が合った。もう彼は泣いてはいなかったけれど、くちびるがわなないて、まるで幽霊みたいな形相だった。
トックは胸の奥に凍りつくような寒々しさを感じた。怖くなって、気づけば彼のその手を、振り払っていた。
「あの、…も、もう、行くから」
言い訳じみた声音でそう言って、トックは彼を置いて早足でその場を立ち去った。この地下牢はひどく冷えるのに、全速力で走った後のように心臓は早鐘を打っていた。
これでいいんだ。トックの仇は、きっとしかるべき罰を受けたんだ。
そう思うのに、脳裏には、あの日、トックの目の前でチャクラムを振り上げたときの、彼の泣き顔ばかりが浮かんでいた。




