26
皆が一斉にネルを見た。彼女の顔色は蒼白で、くちびるをわななかせてリズセム殿下を見つめていた。
そういえば、彼女が赤い印を宿した経緯を、ネルは一言も話していなかった。ラトメで初めて出会ったとき、彼女が巫子であることに気づくとひどくおびえていた様子だったし、無意識のうちにそれ以上聞くことを控えていた。そも、彼女はつい最近までひどく憔悴していたから、あまり突っ込んだことをこちらから聞くのもはばかられた。
神護隊長のレインならたぶん事情を知っているのだろうが…そこまで考えて、ルナセオはなんだかもやっとした。ネルの表情を見るに、彼女は意図的にそれを隠していたのだ。それってなんだか、ルナセオたちが彼女に信頼されていないみたいじゃないか。
「あの、でも、リズセムさまは全部知ってるんじゃあ…?」
「もちろん報告は受けているとも。ただ、僕が聞きたいのは、君自身にしか説明できない、実際に君がなにを見て、なにを感じたのかというところだ。その印の意志は、他の者は誰も触れないものだからね」
リズセム殿下の言葉に、ネルはごまかしきれないと悟ったらしい。握りしめていたフォークを置いて、しばらく迷うように口を閉ざしていたが、やがて観念した様子で語りはじめた。
「あの、ラトメの暴動の日…わたし、神護隊長のレインさんに連れられて、神宿塔に行ったの。神宿塔に封印されている巫子の印を手に入れてラトメから逃げろって、レインさんが言ったの。世界の滅びも、クレッセの命も、好きに選んでいいって」
「あいつがそんなことを?」
トレイズが腰を浮かせかけた。ネルはゆっくりとうなずいた。
神宿塔に、巫子の印が封印?そんな話は聞いたことがなかった。トレイズからは、9番が現れれば、それに対抗するようにほかの巫子が選ばれると聞いていたし、赤い印というのはラゼのように誰かが常に宿しているか、もしくは漠然とどこかに漂っているような存在なのだとばかり思っていた。
リズセム殿下は深刻な話に対しても、ゆったり椅子に座って姿勢を崩していた。
「それで君は神宿塔にある、あの聖女の封印を解いたわけだ」
「聖女の封印?封印されてたのは巫子の封印じゃないの?」
メルセナが口を挟むと、ネルが解説した。
「ステンドグラスにね、聖女さまの姿が描かれてたの。わたし、封印を解いたとき、気づいたら赤い花畑の中にいて、聖女さまに会ったの。聖女さま、すごく喜んでた。やっとここへ来てくれる人が現れたって」
聖女はもちろん知っている。赤の巫子のおとぎ話にも登場するし、この世界に生きる者で聖女様を知らない者はいない。大昔に、世界大戦を終わらせて、独立していた各国をひとつの国にまとめあげた英雄だ。彼女がある日忽然と姿を消したあと、世界に危機が迫ったときに、赤の巫子が現れるようになった。おとぎ話ではそう言われていた。
「聖女さまはわたしを助けてくれるって言ったの。そしたら今度はぜんぜん違う場所…大きな机のある部屋にいて、わたし、聖女さまの中に入ったの。今度は聖女さま、すごく怒ってた。みんな自分の思い通りにならないって。それで…」
ネルはいったん口をつぐんで、うかがうようにリズセム殿下を見た。
「あの…ごはん食べるときに話すことじゃないんだけど」
「気にするこたないよ。一緒に鳥の羽をむしった仲だろう?」
食卓にのぼる鳥の下ごしらえと、歴史の偉人の血なまぐさい姿を同列に語るところがリズセム殿下の底知れないところだよな、ルナセオはうすら寒い気持ちでリズセム殿下を見た。
ネルはひとつため息をついて続けた。
「えっとね、聖女さまは仲間たちをみんな殺しちゃったみたいだった。1番から10番まで。5番と9番以外のひとたちみんな、首を吊って死んでたの」
ぎょっとして、ルナセオは思わず自分の耳に触れた。そうだ、ルナセオも、赤い印を手に入れたときに、誰かの中に入り込んだ視点で、何やら不思議な光景を見せられた。なにやら少女を前にして、彼女を否定するようなことを言っていた。そして、その少女は激昂した様子でナイフをこちらに振り上げたのだ。
あれが、聖女だったのか。ルナセオは唐突に理解した。
「聖女さまは、5番を…レフィルを倒すのに失敗したみたいだった。レフィルは、聖女さまとふたりで、5番の印を分けあうんだって言って…」
ネルはそこで言葉を切った。ルナセオの見たあれが4番が人として生きていた頃の記憶だとしたら、ネルの見たそれが5番の記憶だというのだろう。
(つまり、それって…)
あと一息で答えを導き出せそうだというところで、ルナセオはあれと思って顔を上げた。
「ちょっと待って、ネルを狙ってるレフィルってやつ、一体何歳?聖女さまの時代なんてもう何百年も前の話じゃん」
世界創設から生きているとすれば、もはや生きた化石だ。そんな昔の人間が生きているわけがない…と思ったが、明らかに言う相手を間違えていた。ルナセオは目の前の人びとの顔を見て赤面した。
「そういう者は比較的いらっしゃいますよ。例えばここにいる僕の両親とか」
「あ、うん、まあ…そっか」
ラディ王子のやわらかな指摘にルナセオは恥じ入った。明らかに息子より年下のシェイル王夫妻だって何年生きているのか、年齢不詳の域を超えている。
「ま、不老不死なんて巫子だけの専売特許でもないしね」
リズセム殿下はさらりと爆弾発言を落としながら続きを促した。
「で、君が目覚めたあと、ステンドグラスはどうなっていた?」
「それが…聖女さまが消えてたの。花畑の絵だけになってて」
「じゃあやっぱり、聖女は『そこ』にいるわけだ。聖女由来の5番の意志と一緒に」
そこ、と言って指し示したのは、ネルの胸で…つまり、ラトメのステンドグラスから、ネルの身の内に、聖女の封印が移ったと言いたいのだろう。そんなことがありえるのだろうか?
しかし、ありえないと言い出したら、そもそも赤の巫子が実在したことからして現実とは思えない話なのだ。現に、リズセム殿下に冗談を言っているつもりはなさそうだった。
「しかし、なぜこんな小娘に、聖女の封印が破れたのです?」
黙って話を聞いていた宰相が不機嫌そうに声を上げた。「偉大なる魔術で封じ込めたものだと殿下はおっしゃっていたではないですか!」
なんだか角の立つ言い回しだ。リズセム殿下は頬杖をついて肩をすくめた。
「封印を守るべき“神の子”が牢屋の中だからねえ。とはいえ、彼女自身に聖女の資質があったってことじゃないかな。事実、神護隊長くんだってそう思ったから彼女を神宿塔に連れて行ったわけだし」
「あの封印って、そんなに有名だったの?」
ネルの質問に、ナシャ王妃がくすりと笑った。
「聖女様の魂をあの場に封じたのは、わたくしとこちらのリズセム殿下です。当時の9番の要請をお受けして、いく人かの仲間たち、そして世界王陛下と“神の子”と協力いたしました」
「そんな話、聞いたこともない!」
顔を真っ赤にして立ち上がったトレイズが、怒りに身を震わせながら叫んだ。
「長らく“神の子”に仕えていたが、俺はあの方から9番と結託したなんて話…まして世界王と一緒にことをなしたなんて!」
「そりゃ言わないだろうさ。親愛なる聖女様を封じた、それも宿敵の世界王とともに、だなんて。露見したらラトメじゃ間違いなく極刑だ」
まさに君の態度がそれをあらわしているだろう、リズセム殿下の指摘に、トレイズはぐうの音も出ないようだ。少し冷静になったのかトレイズが椅子に座りこんだところで、メルセナが控えめに手を挙げた。
「ねえ、でも、聖女様って、世界中の戦争を終わらせてこの世界を平和にした英雄でしょ?なんで封印しなきゃならなかったの?」
「彼女の話を聞けば、聖女の人となりは予想できると思うけど。傲慢不遜で、我こそが頂点だと思い上がった甘えたな娘さ。実際にその時代を見たわけではないけれど、あの様子では聖女が世界を統一したというのも怪しいね。実際に戦争を終結させたのは周囲の仲間で、聖女はお飾りだったと考えるのが自然だ」
確かに、あの4番の記憶の中で垣間見ただけでも、聖女は自己中心的なことを叫んでいた。少なくとも、あの少女が戦争を終わらせて世界を救うだけの力を持っているとは思えない。
リズセム殿下はようやく聖女について語ってくれる気になったらしい。ワインを傾けながら饒舌に説明した。
「細かい経緯はともかく、まず最初に9番の印が作られた。聖女を打ち倒すためにね。それに対抗するために聖女は残り9つの印を作った。材料はもちろん、仲間たちの命だ。
しかし聖女はしくじった。レフィルを殺し損なって、5番の印は不完全。そればかりか自分自身を印の材料にされてしまった…ってワケさ。
僕たちは聖女さえ封じてしまえば、金輪際巫子は現れなくなると思った。聖女を倒すのが最終的な9番の目的だし、聖女の意志がなければほかの印も現れなくなるだろうと踏んだのさ。だけど、聖女を封じたあとも巫子は現れ続けた。封じているはずの5番も含めて十人とも」
それで最初の「聖女の封印」という話に戻るのか。ルナセオは納得した。5番の印ごと聖女は神宿塔に封じたはずなのに、その後も脈々と巫子の戦いが続いていたということは、リズセム殿下たちの行為もまた意味をなさなかったということだ。
ネルは記憶を探るようにうつむいてつぶやいた。
「…夢の中で、レフィルは『ふたりで5番の印を分けあうんだ』って言ってた」
「それだ」
リズセム殿下は口端を弓型に引き上げて底知れぬ笑みを浮かべた。
「たぶん、5番の印は二種類ある。君の宿す聖女由来のものと、本来作られるはずだったレフィル由来のもの。おそらく聖女だけを封じても意味がなかったんだ。もうひとり、5番の意志を操れる、レフィルも倒さなければ」
「そのレフィルって奴を倒せば、もう巫子は現れなくなるってこと?」
ルナセオはリズセム殿下の話を咀嚼しながら尋ねた。
「僕の仮説が正しければね」
殿下はそう言うが、ルナセオはのどに魚の小骨が引っ掛かったような釈然としない思いに駆られた。リズセム殿下が聖女を神宿塔に封じても、結果的に巫子は現れ続けた。ということは、レフィルを倒してもそれだけでは意味がないはずだ。父の日記を読んでもわかるように、9番が聖女を求め続ける限り、聖女は再び封印するか、もしくは聖女のほうも倒さないといけない。けれど、聖女はいま、ネルの中にいて…
ということは?
思案していると、ネルが不安そうに瞳を揺らして言った。
「レフィルを殺せ、ってこと?」
「命を取るかは向こう次第だね。なに、実行するとしたらここにいる騎士の誰かになる。君たちには、レフィルの尻尾をつかむ手伝いをしてほしいってだけさ。
むしろ聖女の魂が君の中にある以上、今や君自身が聖女といって過言ではない。レフィルのことより、君は自分のことを心配したほうがいいんじゃないかな」
リズセム殿下の言葉を聞いて、ルナセオは思わず立ち上がっていた。ネルの肩に手を置くと、ちょうど反対側でメルセナが同じことをしていた。
「おかまいなく!」
「そうならないように、私たちが守ればいいんでしょ?」
「セオ、セーナ…」
ネルが何やらうるうるしているが、ルナセオはそれどころではなかった。リズセム殿下が最終的にどうするつもりなのか、なんとなく予想がついてしまったのだ。
しかし、その王様はピリピリする空気を吹き飛ばすように手を叩いて、いつもの朗らかな調子でにこやかに言った。
「そーいうこと!いやー、頼もしい巫子たちでなにより。せいぜい聖女くんが得た力を無駄にしないように守ってやりたまえ」
壁際でローシスとヒーラがぼそぼそと「性格が悪い」「腹黒」「弱い者イジメ」と毒づいたが、リズセムはまったく気にしない様子で、ふたたび卓上のベルを鳴らした。
「真面目な話はおしまい!さあ、ここからは我が都市の料理を堪能するといい」
◆
その後もルナセオが今後一生食べる機会などなさそうな豪勢な食事の数々が並べられたが、ルナセオはその味もよくわからないままに物思いにふけっていた。デザートを食べ終えて、各々のあてがわれた部屋に騎士たちが案内しようというところで、リズセム殿下が立ち上がろうとしたルナセオを見た。
「少年」
もう一度着席するよう身振りで促されて大人しく座ると、リズセム殿下が隣のナシャ王妃にやさしく言った。
「ナシャ、君は部屋に戻っておいき。ここからは男の時間だからね」
「まあ、悪だくみですの?」
ナシャ王妃はちょっぴり拗ねた様子でくちびるを尖らせた。美人ってどんな顔をしても美人なんだな、と妙な感慨に浸っていると、ナシャ王妃は立ち上がってドレスをちょんとつまみ、すっと腰を折ってルナセオに一礼した。
「ルナセオ様、わたくしはお先に下がらせていただきます。どうぞゆっくりおくつろぎになってくださいね」
「あ、はい」
さすがにこのリズセム殿下を前にしてくつろぐなど恐ろしくてできやしないが、ナシャ王妃に見とれて反射的に頷くと、彼女はにこりと笑って「さあ、シバ。わたくしたちは参りましょう」と宰相の腕を取って出て行ってしまった。宰相はちらちらとこちらを睨んできたが、王妃には逆らえないようだ。
室内にリズセム殿下とラディ王子、それからルナセオの三人が残されたところで、リズセム殿下が皿の下げられた食卓に肘をついてこちらに身を乗り出した。
「さて、少年。君、気づいたんだろう?」
いきなり本題をつきつけられてギクリとする。思わず目をそらしたが、それでごまかされてくれるような王様ではないことはわかりきっていた。
「聖女を封印したあとも、巫子は現れ続けた。おそらくそれは、レフィルがまだ生きてその辺をほっつき歩いているから。だからアイツを倒して、巫子がもう現れない世界にする…それが僕の人生の悲願だが、ここで僕も予想していなかったことが起きた」
「…ネルが、聖女の封印を解いてしまった…」
後を引き取ると、リズセム殿下はやれやれと首を横に振った。
「ピアめ、いくらレフィルの裏を掻きたいからって普通の女の子を唆すなんてやることが悪徳なんだよ。ま、聖女くん自身はいい子だったからよかったけど」
「ピア?」
聞き返すと、リズセム殿下は珍しく失言した様子で片手を挙げて、「ごめん、今のナシ」と流した。
「レフィルを倒したところで、聖女の意志がこの世界に残る限り、巫子の怨念は途絶えない。レフィルも、聖女も、両方倒さなければ意味はないんだ」
「ネルをどうするつもりなんですか」
ルナセオはじわじわと目の奥が煮えたぎるのを感じた。赤い印の宿る耳がひどく熱い。
「まさか、ネルを…」
「父上、言葉が足りませんよ。ルナセオ、なにも父上は、彼女を屠ろうというのではありませんよ」
黙ってなりゆきを見守っていたラディ王子が穏やかな口調で口をはさんだ。
「私も父上に聞いたくらいの話しか存じ上げませんが、本来、赤い印はすべて聖女が宿すはずだったもの。その魔法の特性上、聖女はすべての巫子の力を御することができるとのこと。聖女を身に宿すネルもまた、その能力を扱えるはずなのです」
「それってつまり」
「ネルには聖女になってもらう」
リズセム殿下の言葉は、ルナセオには「生贄になってもらう」と言っているようにしか聞こえなかった。だってそんなうまい話があるわけがない。巫子の呪いを解くために9番を殺す、そんな理不尽な世界なのだ。命を落とさなくとも、リズセム殿下が言っているのは、「ネルひとりの犠牲で、今後一切巫子が現れないようにする」という意味のはずだ。
「あの粋がった傲慢な女とは違う、真に善良な新たな聖女にね。そのために、すべての赤い印をネルに集める。大丈夫さ、あの子がずっと心安く生きられるよう、誠実に、真摯に、何ひとつ憂うことはないよう大切に支えていくとも。ぜひ君も力になってほしい」
「俺がそれに同意するわけないだろ!」
ルナセオは声を荒げて食卓を叩いた。卓上に置かれた燭台がぐらぐら揺れた。
「ネルのことは守るよ、もちろん。でも、ネルが割り食うやり方で世界を救おうなんて、認めない。赤い印
がネルに集まったら、そしたら…巫子って、印が外れないと不老不死のままなんだろ」
「いいや、君はやるさ」
リズセム殿下はそう言って、一枚の紙きれと封書を取り出した。彼はまず、黒い蝋で封がされた封書のほうをルナセオに差し出した。
「君に話したのはね、まず君には先んじてファナティライストに渡って、この手紙を世界王に渡してほしかったからさ。陛下も聖女の封印にかかわったひとりだ。状況を秘密裏に伝えておきたい」
「だから、俺は協力しないって言ってるだろ?それに第一、世界王に会うって言ったって、どうやって…」
「今日城に来ていた巫子狩り、君の仇なんだってね」
「は?」
リズセム殿下は指先でつまんだ紙切れをひらひらと振った。
「ここにはあの巫子狩りの居場所が書かれている。神都から来てるんだ。何かしら彼らには拠点に戻るための手段があるはずだ。彼らに捕まって神都の神殿に連行されれば、まあどうとでもなるだろう?」
ルナセオは拳を握りしめて、目の前の王を殴らないように努めるので精いっぱいだった。リズセム殿下を睨んでも、この男は涼やかにほほえむばかりだ。親切だと思ったラディ王子も目を伏せただけで何も言わない。
「もちろん、その過程で君が仇討ちを果たしたところで特に咎めないよ。…復讐、したいんだろう?」
この王様は、いったいどこまで知っているのだろう。ラゼのこと、トレイズのこと、そしてネルのこと。レクセで帰りを待っているグレーシャのこと。さまざまな顔がよぎって、ルナセオは泣きたくなった。
それでも俺は、どうしてもあいつが許せないんだ。
ルナセオは、ほの暗く笑みを浮かべる王殿下の持つ餌に、そっと震える手を伸ばした。




