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残酷な描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
ラゼは恨みがましい目でルナセオを睨んだ。
「アンタ…なんでこんなところにいるのよ」
「いやそれはこっちのセリフ」
彼女は学生寮に入っていたはずだ。もうとっくに門限を過ぎているし、規則が大好きな風紀委員の彼女が人気もない夜の街になんの用だろう。よく見ると右手には鈍く刃が光るチャクラムが握られている。その拳から血が滴っているのを見て、ルナセオは目を丸くした。
「あれ、ラゼ、怪我してる…」
「おい、どこへ行った?」
「こっちだ!」
不意にラゼの背後から聞こえた声に、彼女はすぐさま駆け出した。慌ててルナセオも後を追う。
「なあっ、ラゼのそれ、怪我してんの?手当てしなきゃ」
「それどころじゃないのよ!いいから黙ってついてきて!」
相変わらずのツンケンした口調だが、焦っているのかいつもより早口になっていた。後ろから、「いたぞ!」という叫びとともにバタバタと足音がする。振り返ると、黒いマントを着た怪しい集団がこちらを追いかけてきた。
「えっ、何アレ!?ラゼを追いかけてんの?」
その集団のひとりが、抱えている黒い筒のようなものをこちらに構えた。反射的に身をかがめると、先ほども聞いた爆発音とともに、ルナセオの頭上にあった街灯のガラスが弾け飛んだ。
ラゼは舌打ちして、ルナセオと黒マント集団の間に躍り出た。
「身をかがめて!」
言われるがまま頭を抱えて身を縮めると、黒マント集団は次々黒い筒をドンドン鳴らしてこちらを撃ってきた。どうやら筒から何かを発射しているらしく、ラゼがチャクラムを振ってそれを跳ね返した。
「えっ、えっ、ちょっと待って、今アレを打ち返したの?あの街灯を爆破したやつを!?」
並の運動力とは思えず目を見張るが、それどころではなかった。路地のあちこちからスルスルと黒マントたちが姿を現して、気づけばルナセオたちは囲まれていた。
黒い筒の先をあちこちから向けられて、ルナセオは戸惑ったようにあたりを見回した。どう考えても友好的な雰囲気ではないが、ラゼは一体誰に喧嘩を打ったのだろう。
「なんか、ひょっとしてこいつら、危ない人だったりしない?」
「ご明察よ、ついでに言うと私たちってば絶体絶命」
ルナセオはラゼでも冗談言うんだな、と笑いそうになったが、まったく冗談ではないことは、黒マントたちの放つぞっとするような威圧感でわかった。
「巫子は全員お連れせよと世界王陛下の仰せだ」
黒マントのひとりが言った。
「抵抗するなら手段は問わぬ」
「ふうん、9番が現れたからって必死じゃない。世界を救う巫子様にひどい仕打ち」
ラゼは皮肉ったらしくせせら笑ったが、ルナセオはもはや混乱の境地に立たされていた。
「巫子?」
ラゼを指差すと、彼女はチラリとルナセオを見た。
「巫子…赤の巫子?ラゼが?」
学生になるまでその物語を知らなかったルナセオが言えた口ではないが、絵本で語られる巫子の姿は英雄らしい立派な人物として描かれていて、まさかラゼみたいなその辺にいる学生が救世主だなんて聞いたこともない。だいたい、巫子なんてただのおとぎ話で、誰かが言い出した創作の産物じゃないのか。
ラゼは顔色ひとつ変えずに言った。
「そうよ、私が巫子」
「……!」
「そんなことより、アンタ、今から私が何しても、学校で余計な話するんじゃないわよ。約束破ったら」
ラゼの右手のチャクラムがくるりと回った。
「ただじゃおかないから」
直後、ラゼはドンとその場から跳躍した。屋根の上まで飛び上がっているのではないか、信じられないほど高く跳び上がったラゼは、チャクラムを構えて迷わず黒マントたちに向けて投げた。彼女の金髪がふわりとなびいて、その左耳が真紅に染まっているのが見えた。
ラゼの投擲したチャクラムは弧を描きながら何人かの黒マントの腹や胸や肩を抉った。あちこち血が飛び散って、ルナセオは悲鳴を飲み込んだ。
「撃て!」
黒マントのひとりが叫んで、一斉に黒い筒が火を吹いた。いくつかの弾はラゼにも当たったが、まったく意に介した様子もなく、着地した勢いのまままた2、3の黒マントの首を切る。
ルナセオは舞台でも見ているような気分で、なすすべもなくその場に立ち尽くしていた。まさか人の身体を傷つけて笑みさえ浮かべる少女が自分の同級生だとは思えなかったし、目の前の狂気的な様相が現実とは信じられなかった。
「逃げるわよ!」
だから、ルナセオたちを囲む黒マント集団をあらかた屠ったところでラゼがこちらに手を伸ばしたとき、つい反射的にルナセオはその手を振り払ってしまった。
一瞬、ラゼの傷ついたような目が見えたが、その姿がビリリとぶれて、別の光景に変わった。
◆
そこは、白黒に染まった世界だった。ルナセオが今までいたはずのレクセの学生街ではなく、どこかの渡り廊下に立っている。しかし、人形の中にでも入り込んでしまったかのように、視線ひとつ動かすこともできない。
「どうしてわたしの言うこと聞いてくれないの?」
背後から悲しげな声が聞こえて、視界がぐるりと回った。振り返った先には、ひとりの少女が目をうるませて、ワンピースのスカートを握りしめながらうつむいていた。
──誰しも、自分の幸せを求める権利があるものです。それがあなたの望むものではなかったとしても、私は彼らを祝福したい
ルナセオの口から飛び出した声は、しかしルナセオのものではなかった。穏やかな女性の声で、目の前の少女を諭すように言うと、少女は暗い面持ちでつぶやいた。
「…4番は私を裏切るんだね」
──そうではありません、私の話を聞いてください
「もういい!」
少女は癇癪を起こして叫んだ。その手の中に、いつの間にか一振りのナイフが握られていて、ルナセオはぞっとした。
「私の言葉を聞かないそんな耳は削いでやる!」
◆
かっと左耳が熱くなって、ルナセオは我に返った。目の前にはラゼがいて、彼女も呆然とした様子でルナセオを見ていた。ゆっくりと彼女の手が自身の左耳を探る。
先ほど見た時は確かに真っ赤だったラゼの耳は、いつの間にかふつうの肌色になっていた。ルナセオはつられて自分の熱を持つ左耳に触れた。もちろん自分の耳は見えないけれど、もしかして、これは…
「うわああああああ!」
叫び声とともに、ドン、ドンと何度か音が鳴った。そのリズムに合わせて、ラゼの身体がびくりびくりと跳ねる。彼女は目を見開いたそのままの表情で、ゆっくり傾いで倒れた。
「……ラゼ?」
呼びかけたが、ラゼは魂が抜けてしまったみたいに微動だにしなかった。しゃがみこんでラゼの肩を揺すると、カランと音を立てて、その手からチャクラムがこぼれ落ちる。彼女の頭から、体から流れ出る真っ赤な血が水たまりを作って、ルナセオの膝を濡らした。
ふと荒い息遣いが聞こえてのろのろと視線をそちらに向けると、黒マントのひとりが煙を上げる黒い筒を向けていた。フードが外れて見えたその中身は、ルナセオとさして年頃も変わらない小柄な少年で、彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔でこちらを睨んでいた。
彼の顔を見ていたら、なんだかルナセオも、胸の奥から震えるような、ぐらぐらとした情動が湧き上がってくるのを感じた。
そんなことは生まれて初めてだったから、それが「怒り」とか「嫌悪」とかいう感情なのだと、ルナセオはわからなかった。とにかく、この年端もいかない男の子がラゼを傷つけた事実と、あの顔をめちゃめちゃにしてやりたい衝動と、そしてついさっき、ラゼの手を振り払ってしまったときの彼女の顔を見たときの罪悪感がないまぜになって、ルナセオは獣のように浅い息をつきながら立ち上がった。
転がっていたラゼのチャクラムを拾い上げて、ルナセオはそれを見つめた。血がべっとりついていて気持ち悪いな、そんなことを呑気に思って勢いよく一振りすると、余計な血糊が飛び跳ねて地面を汚した。
「……きたない」
何人か生き残っていた黒マントが息を呑む。彼らも混乱しているのだと分かった。
「なんだ、何が起こったんだ?」
「あの少年が継承したのか?」
なにを言っているのか分からなかったけれど、羽虫が耳元で騒いでいるようで不快だった。ひょいとチャクラムを投げると、彼らの首がすぱんと飛んで静かになった。これでいいや。
戻ってきたチャクラムを受け止めて、まっすぐ震える少年のもとに歩きながら、ルナセオは瞬きもせずに考えていた。
ああ、母さん。確かに俺も、大団円が好きだった。みんな揃って仲良しでいたかったし、悪いことしたやつだって改心すればそこで丸く収まるもんなんだって思ってた。
でも違うんだ、この世の中には「悪いやつ」はいるんだ。そいつがいずれどんなに良いことをしたって、改心したって許せない、俺にとって、絶対にやっつけてやりたいやつが、存在していたんだ。
少年の前で立ち止まると、彼は震えながらその場に尻もちをついた。まるで悪魔でも見たような顔をして、恐怖にこわばりながらルナセオを見ている。やだなあ、そんな怖い顔してるかな、俺。
心のどこかにある、大切な線が切れてしまったのか、ぼーっとしたままルナセオはチャクラムを振り上げた。カチカチと歯を鳴らしながら少年が泣くので、潤んだ彼の瞳に写る、ルナセオ自身の顔がよく見えた。
そこにいたのは、真っ赤な耳をあらわにして、血濡れのチャクラムを振り上げる、うつろな目をした鬼だった。
(あれ、もしかして俺も、こいつにとって「悪いやつ」になってる?)
勢いのままにチャクラムを振り下ろしたところで、唐突に肩を掴まれてルナセオは動きを止めた。ちょうどチャクラムの刃が少年の首筋に食い込む寸前だった。振り返ると、金色の目の男がルナセオを見下ろしていた。
「もういい」
男は低い声で唸った。「もういいだろ」
慮るような口調は、一体誰のためのものなんだろう。ルナセオはくちびるがひくひく震えるのを感じた。
いいわけないだろ。ぜんぜん良くなんかない。こんなんじゃぜんぜん収まらない。もっと思い知らせないといけない。
「だってこいつら、ラゼをころしたんだ」
「それでもだ」
「なんでだよ、ラゼ、死んじゃったんだよ。こいつがやったんだ、こいつが」
「そうだな、でも、お前がやらなくていい」
肩を掴んでいた大きな手が、ルナセオの頭に置かれた。
「お前は、やらなくていいんだ」
ぽんぽん頭を叩かれて、そのたびにボロボロ涙がこぼれた。チャクラムを下ろすと、弾かれたように黒マントの少年はどこかへと逃げ去っていった。
遠ざかる背中を見つめていると、だんだん視界が暗くなっていった。気を失う直前、金の目の男に支えられて、彼のマントのつんとした匂いを感じた。