19
屋敷から帰ったルナセオたちは、心配して家の前で待っていたマユキに出迎えられた。彼女は物言いたげではあったが、父の日記のことには一切触れずに、ただ優しく「明日は旅立ちなんだから早く寝なさい」とだけ言った。
寝支度を済ませて、グレーシャのベッドの隣に敷いた寝袋に潜り込もうとしたところで、ベッドに寝そべりながら脚を組んでいた親友が不意に声をかけてきた。
「あのさ…」
けれど、次の言葉をなかなか言わずに、グレーシャは微動だにしない。ルナセオは焦れて先を促した。
「なんだよ」
「…昨日のこと、もう一度、謝っとく。ごめん」
グレーシャはこっちを見もしないし、姿勢からして人に謝る態度ではなかったけれど、声音はいつになく真剣だった。ルナセオは寝袋に潜りながら軽く返した。
「いーよ、もう。昨日は何も知らなかったんだし」
右手はもうすっかり元通りだし、ルナセオはそもそもグレーシャに怒ってなどいない。彼に謝られるようなことは何もなかった。
グレーシャはそれでも満足していないのか、無表情で天井を見つめたままだった。
「いや、やっぱりダメだ。俺、信じちゃいないって言ったけど、ホントはラゼのこと、お前をちょっとだけ疑った。お前がそういう奴じゃないって知ってたのに、ひょっとしたらセオにも俺が知らない一面があるんじゃないかって、自信なくなったんだ」
「そりゃそうだろ、俺だってグレーシャの立場なら同じこと思うよ」
「だけど、俺が知らないとこで、セオは巫子になって、しんどい思いをいっぱいしてて、9番を救うとか殺すとか、すごい重たい責任を負わされてて…俺はそんなの、ちっとも想像したことなかった」
グレーシャは両腕を自分の目の上で交差させた。鼻をすする音が聞こえて、ルナセオはびっくりして寝袋の中から彼を見上げたが、この角度ではグレーシャの顔は見えなかった。
「俺も巫子だったらよかったのに。そしたら俺も、セオと一緒に旅に行けたのに。俺も一緒に、背負ってやれただろ。なんで俺は巫子じゃねえんだよ」
彼がこんなに友人思いだということも、彼がそこまでルナセオのことを親身にとらえてくれていたことも、ちっとも知らなかった。
レクセディアでなんの変哲もない学生だった頃は、確かにグレーシャはいちばんの友人だった。よく家に遊びに行ったし、二人とも父親があまり家にいないという共通点があったから、なんとなくそりが合った。けれど、別にお互いが唯一の友人というわけでもなく、いつもつるんでいる程でもなかった。
ルナセオにとってのグレーシャは、我が道を貫く憧れの存在でもあったけれど、逆にグレーシャにとっては、「数多くいる友人の中では仲がいい」程度の枠に収まっているものだと思っていた。
だから、ルナセオには、彼がそんなに後悔している意味がわからなかった。
「なんでグレーシャがそんな風に思うんだよ」
「なんでって、そりゃそうだろ。親友がそんな危険な旅に出たら誰でも心配するもんだろ?」
「グレーシャが俺のことそんな風に思ってるなんて、俺、知らなかった」
「は!?」
ベッドの上のグレーシャが勢いよく起き上がる音がしたが、ルナセオはそれを見られなかった。今度はルナセオのほうが、手で顔を覆っていたから。
「知らないよ。俺、グレーシャにとってはつるんでる奴のひとりってくらいだと思ってたもん」
「あのなー、あんな頻繁にお互いの家行き来してんのなんてセオくらいだぜ。フツーにマブダチだよ、って、言わせんなよなこんな小っ恥ずかしいこと」
それでも、きっとグレーシャがそこまでルナセオのことを考えてくれたのは、彼がいい奴だからだとルナセオは思った。
だって、きっとルナセオが彼の立場なら、そんな風に友達を心配などしなかった。口ではどうとでも言っただろうが、自分が巫子ならよかったとか、一緒に旅に出られればとか、そんなことは思いもしなかっただろう。むしろ、自分が当事者じゃなくてよかったと安堵すらしたかもしれない。
そういう薄っぺらい関係しか築いてこなかった。自分では人に親切にしているつもりでも、周りからは優しいとか言われても、結局ルナセオは、自分にも他人にも鈍感な、ふわふわした生き方しかしていなかったのだと思い知らされた。
俺はだれかに憧れてばっかりだ。グレーシャのように自分のしたいことをてらいもなく言える人間に、ギルビスのように自分の気持ちに真摯に向き合える人間に、ネルのように自分が辛いときでも他人を慮れる人間に。ないものねだりをしても、それに向かって努力しようとはしない、甘えたな人間なのだ。
自分の浅ましさに打ちのめされそうになってると、ベッドの上から不機嫌そうなグレーシャの声が落ちてきた。
「なんか言えよ。俺、恥ずかしいこと言って馬鹿みたいじゃん」
「…いや、俺にとってもグレーシャは親友だよ」
顔を覆っていた手を外すと、ベッドの上であぐらをかいたグレーシャは拗ねたように唇を尖らせて顔をそむけた。ルナセオはその姿を見て、素直に笑って言った。
「ありがとう、グレーシャ。お前が巫子じゃなくてよかった」
彼には、誰かへの殺意も、ラトメの暴動のような狂気も、これから続くであろう巫子になったことで起きるあらゆる辛いことも、なにも知らないままでいてほしかった。こんないいやつが、くだらない巫子の役目なんかに踏みにじられてほしくはなかった。
しかし、ルナセオの台詞はお気に召さなかったのか、グレーシャは顔をしかめてルナセオを振り返った。
「それ、普通は『お前が友達でよかった』って言うトコだろォ」
◆
次の日の朝、やはりルナセオが起き出した時にはまだグレーシャは大口を開けて寝ていた。親友の顔を少し眺めてから、身支度を整えてルナセオはこっそり部屋を出た。
階下へと降りると、いつからいたのだろうか、ダイニングでトレイズとエルディが朝っぱらからティータイムと洒落こんでいた。トレイズはティーカップを持ちながら「おう」と声をかけてきた。
「準備はできてるか?レクセを出たら、しばらくは野宿になるからな」
「そりゃできてるけど、朝からふたりして優雅だなあ。いつ来たの?」
「ついさっきだ。マユキ様のご厚意でお茶をいただいている」
窓から差し込む朝日に照らされて、口元でカップを傾ける銀髪の美青年のなんと絵になることか。台所からひょこりと首だけ出して、マユキが「セオ君、朝食作ってるから待ってて」と付け加えた。
「昨日はどうしていたんだ?」
トレイズの隣に腰かけたところで、向かいのエルディがこちらをまじまじ見ながら尋ねてきた。ルナセオはドキリとするのを押さえ込みつつ、平然を装いながら返した。
「どうもこうも、昨日話した、9番のこと聞いたり、グレーシャと話したり、そんくらいだよ。なんで?」
「いや…」
エルディは不思議そうに首を傾げた。
「なんだか、一日でずいぶん精悍な顔つきになったと思ったものだから。すまない、一昨日会ったばかりでそんなことを言われても困るだろうな」
「いや、別にいいけど」
昨日はいろいろなことがあったから、それが顔に出てしまったのだろうか。自分の頬を揉みこんでいると、ようやく女の子ふたりが荷物を持ってやってきた。
「おあよお」
メルセナはまだずいぶん眠そうだ。父の隣に座るなりテーブルに突っ伏している。昨日は屋敷に行って遅くなったから、まだ寝足りないらしい。
メルセナの隣に腰かけたネルのほうはなんだか疲れている。
「どうしたの?」
「セーナがなかなか起きなくて…」
朝から重労働だったらしい。エルディが申し訳なさそうに「すまない」と声をかけた。
「さて、揃ったな。今日はたくさん歩くから覚悟しとけよ」
ぐったりしているネルと再び夢の中のメルセナは見えないふりをすることにしたのか、トレイズの言葉は無情だった。
「ルナセオとは一度一緒に行ったが、シェイルディア首都クレイスフィーは、地図の上へ上へと進んだ先にある」
「北ね、北」ルナセオが訂正した。
「途中休みながら進んで、クレイスフィーに着くまでに半月ってとこか。野宿も多くなるが、慣れろよ」
「まだシェイルは冷えこむ日が多い。防寒はしっかりしておいたほうがいい」
ネルがマントを自分の身体に巻きつけたが、薄手のそれではなんとも心許ないかんじだ。トレイズも頭をガシガシ掻きながら、「道中で調達するか」とぼやいている。
朝食をすませればいよいよ出発だ。外に出ると、空は澄み渡るような晴天で、深夜に雨でも降ったのか、水たまりがキラキラ光っていた。慣れ親しんだレクセの街並みが、どこか他人行儀に思えて、ルナセオは自分の生まれ育った街をじっと見つめた。
なんの変哲もない学生としてこの街に馴染んでいると思っていたのは、実は錯覚だったのかもしれない。蓋を開けてみれば、自分の父親はかつての9番で、母は元巫子。ラゼと出会ったその日にすべてが変わってしまったように思えていたけれど、実際のところ、非日常はルナセオのすぐそばに寄り添っていた。
巫子になって、両親の秘密を知ってしまったルナセオには、むしろいつも通りの風景のほうが居心地が悪く思えてならなかった。
「よし、じゃあ行くか。…どうした?」
ぼーっと道を眺めて立ち尽くしているルナセオに、トレイズが問いかけた。
「あのさ…」
なんだかうまく言葉にできなくて、ルナセオは口ごもった。
「巫子になるとさ、なんか当たり前の日常が落ち着かないなとか、思ったりしなかった?モゾモゾするっていうか、すわりが悪いというか…」
トレイズはしばらくルナセオを見下ろしていたが、やがて大きな手でルナセオの頭をぽんと叩いた。
「そりゃそうだ、俺たちの日常はここにはないんだから」
だけどな、とトレイズは続けた。顔を上げると、トレイズは朝の風景を見据えながら、憧憬の念をこめるかのように目を細めた。
「こういう平和で、当たり前の光景を忘れるなよ。お前たちはいつかちゃんとこの景色の中に帰ってくるんだ」
「…帰ってこられるかな」
「そりゃお前」
「セオー!!!」
大声で名前を呼ばれてそちらを振り仰ぐと、二階の窓から起き抜けのグレーシャがこちらに身を乗り出していた。頭もボサボサで、寝巻きも着崩れたまま。隣のルナセオがいなくなっているのを見てすぐに窓を開け放ったらしい。
マユキが顔をしかめた。
「ちょっと、朝っぱらから大声出さないで!」
「あのさあセオ、お前がこれからどんな旅に出るかわかんねえけど!」
母の苦言はまるっと無視して、グレーシャは拳を振り上げた。
「お前が何やったって、俺はずっと友達だからな!だからちゃんと帰ってこいよ!」
トレイズに肩を叩かれて、ニヤリと笑われた。
「ほらな、ちゃんとあるんだよ、帰る場所ってのは。あとはお前に帰る気があるかだけさ」
胸がじんと熱くなった。照れくさくなってルナセオは笑いながら、グレーシャの真似をして腕を突き上げた。
きっと役目を終えて帰ってきても、ルナセオはもう元通りの学生には戻れないのだろう。それでも、親友の待つこの街に帰ってくれば、どんなことが起こってもルナセオは人間に戻れるような気がした。