16
ルナセオの知る父は、温厚で、何事にも真摯で、ほとんど声を荒げたところを見たことがなかった。そして、母は楽天家で、いつもニコニコしていて、少女めいた天真爛漫さで息子として苦労させられてきた。
問題なのは、このふたりは目も当てられないほどの仲睦まじさで、揃っているだけで周囲の精神をガリガリ削っていくということだ。
「あのねあなた、私、パンケーキが焼けるようになったのよ。今日はちょっと失敗しちゃってセオに助けてもらったんだけど」
「そうかい、セオの料理はいつもおいしいけど、君の手料理も食べたいなあ。僕にも作ってくれるかい?」
「そうじゃなくてぇ!」
ルナセオは拳でテーブルを叩いた。ついさっきまであの怪物みたいな女に襲われた者たちの会話とは思えない。人目もはばからずイチャイチャしはじめる両親を睨むと、母はすっかりいつもの調子で「あらあら」と頬に手を当てた。
「だめよセオ、テーブルを叩いちゃ」
「そうだよセオ、手を痛めてしまうよ」
これである。ルナセオは力なくうなだれた。
「そういう話をしてるんじゃないんだよ…」
「うん、アンタ、がんばったわ」
メルセナが慰めるようにぽんぽん背中を叩いてくれた。気遣うような視線が胸に痛い。
レナが出て行ってから、彼女の荒らした部屋を手早く片付けて、ルナセオたちはようやく一息ついた。その間に真剣な空気は霧散して、普段どおりのほのぼのした空気に戻ってしまった両親の中では、レナのことは一切気にしないことになったらしい。敵ながらルナセオは少し彼女に同情した。
マユキは、かつて自分が倒すはずだった男とその妻に、呆れた様子で苦言を呈した。
「あんたたち、呑気なこと言ってないで、もう少し息子の役目に親身になったらどうなの。あの女が襲ってきたことに心当たりとかないの?」
「あるわけないよ。僕だってレナは死んでると思ってたし」
父はあっけらかんと首を横に振った。
「でも、あれは普通の生者じゃないねえ。神都は彼女を高等祭司に登用してなにを考えているんだろう」
「トレイズは神都は敵だって思ってるみたいだけど」
「そりゃあいつはそう言うさ、ラトメ至上主義の反神都の筆頭みたいな奴だし。でも、僕の知る限り、世界王陛下がむやみに巫子を害すようなことを指示するはずないし、公平で冷静なお方だよ」
いつも穏やかな父がトレイズのことを語るときだけ、ほんの少し吐き捨てるような口調になったのが気になったが、それより先にグレーシャが身を乗り出した。
「世界王!?すげえ、おじさん、世界のトップに会ったことあんの?」
「まあね、セオたちも会うことになると思うよ。世界王陛下は巫子の10番だから」
まさか平凡な学生として十七年生きてきたルナセオが、世界王陛下に拝謁する機会に恵まれようとは!メルセナも目を剥いたが、ネルひとりだけよく分かっていないようだった。
「そのセカイオー・ヘーカさんってえらい人なの?」
ネルの生きてきたインテレディアでは世界王のことも知らないのか!カルチャーショックに頭痛をこらえていると、メルセナ姉さんがネルの肩を揺さぶった。
「世界王を知らないとかある!?いや、私も名前とか知らないけど!要するにこの世界の王様よ!誰よりもえらいの!」
「いいなー、俺も今から巫子になれねえかな。いや、髪染めたらいけるんじゃね?」
事情を聞かされたグレーシャは、彼の母がわざわざ死体遺棄に手を染めてまで彼を巻き込まないよう心を砕いたというのに、そんなことは露知らず母の努力を無にするようなことを言った。マユキは苦々しい顔だ。できればルナセオだって、親友まで巫子に選ばれてしまうのは避けたいところだ。
「そうねえ、陛下にお会いすれば、なにかいいお知恵をお借りできるんじゃないかしら?9番を倒すにしろ救うにしろ、きっとお考えをお持ちだと思うわ」
「あのさあ母さん、世界王だよ?近所の友達に会いに行くんじゃないんだよ。お城の正面から入っていけるの?巫子だから入れてくれって?俺たち捕まって牢屋に連れて行かれちゃうよ」
巫子だった頃の母が、おなじみの我が道をゆく行動で世界王陛下に接したのかと思うとぞっとする。我が母ならやりかねないのがまた恐ろしいところだ。
父と母とマユキ、大人三人が顔を見合わせた。
「誰かに繋ぎをとってもらうとか?」
「ラファ君に頼めばいいじゃないか、高等祭司なんだし」
「うちの旦那は9番を連れてるのよ?さすがに他の巫子の手助けはしないわよ」
「じゃあ…ロビ殿下は?確かトレイズ・グランセルドと旧知だったはずよね」
「ああ…」
母の出した名前に、明らかに残るふたりの声のトーンが落ちた。その手があったがおすすめはしたくない、そんな感じだ。
「ロビ殿下は昔の巫子の仲間で、世界王陛下の一人息子なんだけど、なんて言ったらいいのかしら…癖が強い」
「なにかを頼もうものなら見返りになにを求められるかわかったものじゃない」
かつて敵同士だったはずのふたりは揃ってため息をついた。マユキはげんなり顔で子供たちを見て、渋々言った。
「でも確かに、そうね。ラトメが当てにならない以上、巫子は自力で集めなきゃならないわ。神都でなにが起こってるのか確かめるためにも、ロビ殿下に会うのがいちばん手っ取り早いのかも」
星の数ほどいる人々の中から、残りたった6人の巫子を見つけだすなんて雲をつかむような話だ。しかも巫子となれば強大な力の代わりに、クレッセを倒す役目と巫子狩りという追っ手のおまけつき。やはりできれば遠慮しておきたい肩書きではあるが、我が家で親子二代揃って巫子になったのも不思議な因果を感じるものだ。
ネルが、小さく縮こまりながら、チラチラと父を見ていた。なにか声をかけたいが躊躇している様子だ。
「ネル、父さんになにか言いたいことがあるの?」
「なんだい?」
父は優しくほほえんで、少しネルに身を乗り出した。
「あの…チルタさんは、9番だけど、生き残ったんだよね?9番の資格を失ったから。それなら、クレッセを助けられるなら、巫子を全員集める必要なんかないんだよね?」
「確かに!ネルったら冴えてるわ。それだったら9番のほうだけ追っかけてればいいんだもの」
メルセナはぽんと両手を叩いた。しかし、柔らかく笑んではいるものの、父は決して頷かなかった。彼は身をかがめてネルに視線の高さを合わせると、諭すように言った。
「ネル。君のような優しい子が巫子になって、今代の9番は幸福だと思うよ」
だけど、と前置きして、父はネルの言葉を否定した。
「おじさんと約束してくれるかい?9番を助けようとするのは、今代の9番が誰かを傷つけるその時までだって。何かが起こったときのために、残りの巫子を探すことを諦めないって」
「…クレッセが、誰かを傷つけるなんて…」
ネルはそう言ったが、語尾は尻すぼみになって、視線をさまよわせていた。父は首を横に振った。
「9番は誰かを傷つけずにはいられないし、世界を滅ぼさずにはいられないんだ。今はラファ君の魔法で抑えられているのだとしても、巫子の力をいつまでも制してはおけない。いずれそのクレッセ君は、必ず誰かを傷つけるし、そのとき、君は自分の選択を深く後悔することになるかもしれない」
父が言ったのは、奇しくも因縁の相手だというトレイズと同じことだった。9番であった父自身は、クレッセを救うことに懐疑的な様子で、自分の手を見下ろして続けた。
「僕は9番だった頃、多くの人々を手にかけた。彼ら自身も、僕を恨む人たちも、ひとり残らず覚えてる。それが9番の意思によるものだったとしても、報いは受けなきゃならない。こうして今の僕が幸せでいられるのは、たくさんの人たちの犠牲と、努力と、諦めの上に成っているのだと、僕は一秒たりとも忘れてはいけないんだ」
「父さん…」
シェイルで聞いた、ギルビス騎士団長の家族を殺した仇というのが自分の父であるのは間違いない。それが父の意思にしろ、それとも9番の力でおかしくなっていただけにしろ、ギルビスにとっては父を恨むほかないだろう。
ネルは若草色の瞳を揺らしながらしばらく父と見つめあっていたが、やがて視線を足元に落とした。
「だけど、わたしは、クレッセを殺したくない…」
彼女が「倒す」ではなく「殺す」と言ったことに、皆がはっと息を呑んだ。どんな大義があったって、巫子という選ばれた者だからって、9番を倒せばそれはただの人殺しなのだと、ネルはきちんと理解しているのだ。
父はネルの頭を撫でようとしたが、なぜかそれをためらって手を引っ込めた。そのかわり、母に視線を向けて尋ねた。
「ルナ、鍵はもう渡したのかい?」
「ええ。セオに持たせたわ」
先ほど母から預かった、9番だった頃の父の日記の鍵だろう。ルナセオはポケットから小さな鍵を取り出した。
「ちょっと恥ずかしいけど、あの日記には当時の僕の思いをすべて込めた。あれを読めば、君たちは9番というものを正しく理解できるだろう」
そう言うと、父は立ち上がり、リビングを出ていくと、すぐに片手で持ち上げるくらいの包みを持って戻ってきた。ネル、ルナセオ、メルセナと順繰りに見て、最終的にメルセナに包みを差し出した。
「これは君に。必要になったら使うといい」
メルセナが包みを開けると、そこにあったのは母が持っていたのと同じ黒い筒に持ち手をつけたような武器だった。形は異なるが、巫子狩りが持っていた武器を縮小したような見た目だ。
「これは魔弾銃という、“不死”をも殺すと言われる特別な武器だ。もちろんこれで9番を倒せるわけではないけれど、何かあったときの身を守るすべになるはずだよ」
「不死をも殺す…」
メルセナがごくりと生唾を飲んだ。とにかく恐ろしい武器ということだろうが、そんな物騒なものが我が家にあるなど、今の今までルナセオは知らなかった。
父は最後にもう一度念押しするように、ネルの前にひざまずいた。
「いいね?ネル。この先、君がどんな道を選ぶとしても、巫子たちを、君の仲間を探す努力を怠ってはいけないよ。それがきっと、君の力になるはずだから」
その言葉にじっと聞き入って、それからゆっくり頷くネルの横顔を、ルナセオはずっと見ていた。彼女は途方にくれていながらも、どこか覚悟を決めた様子で、まっすぐに父を見ていた。
◆
「今朝、レインさんからね、連絡が来たんだ」
トレイズに不在を知られると面倒なことになるからとマユキに急かされて、ふたたびグレーシャの家へ向かう道すがら、隣で歩いていたネルがぽつりとつぶやいた。彼女はずっと自分のつま先を見下ろしたままだ。顔の脇についた黄色いリボンが、風になびいてふわりと揺れた。
「デクレは舞宿塔のえらい人に保護されたみたいだって。レクセまで連れて来れそうもないけど、怪我もしないで無事だって」
「そっか…」
ルナセオは素直には喜べなかった。舞宿塔というと、ラトメの中でも危険な街にある塔ではないか。ネルの口ぶりからするに、彼女はその事実を知らないらしかった。
「わたし、デクレを守ってあげたくてラトメに一緒に行ったのに、なんにもできなかったな。クレッセに会ったときも泣いちゃったし、その後で街が大騒ぎになったときははぐれちゃうし。こんなわたしが巫子になっちゃって、大丈夫なのかなあ」
ネルは幼なじみのデクレがいなくて不安なのだと、ルナセオはわかった。いつもうつむいてばかりなのも、その現れなのかもしれない。
ルナセオはなんとかネルを励ましてやりたくて、勢いこんで言った。
「お、俺がいるよ!」
ネルがぱっとこちらを見るので、頬がカッカと熱くなった。
「いや、俺とセーナが、かな?父さんも言ってたでしょ、仲間を集めろって。巫子はひとりじゃないんだから、困ったらみんなで話しあって決めればいいよ。ネルひとりで頑張んなくったっていいんだ」
人と接するのは苦手ではないはずなのに、彼女の前だとどうにもうまくいかない。早口でまくしたてると、ネルはきょとんと首を傾げた。ひょっとして支離滅裂なことを言ってしまったかとよけいに焦ったが、ネルはすぐにニコリと笑った。
「そっかあ」
「う、うん」
「そうだよね。セオもセーナもいるんだもん、ひとりで全部決めなくていいんだよね」
「そうだよ」
人形のようにカクカク頷くルナセオが滑稽だったのか、ネルはくすりとした。それから目を伏せて、静かに言った。
「…がんばろうね」
それはひとりごとのようでいて、ここにいない誰かに向けて言っている言葉のようにも思えた。遠く離れていても幼なじみを思い続けているネルの一途さに、少しだけルナセオの胸が痛んだ。