10
三人目の、いや、クレッセを含めれば四人目の巫子は、赤の巫子であることによっぽど誇りがあるのか、自慢げに顎を突き上げて自慢げな様子だ。ルナセオは思わず感嘆のため息をついた。
「君も巫子なの?世間って狭いんだなあ。この分だと九人揃うのなんてあっという間なんじゃない?」
「あら、じゃあアンタも巫子だったの。奇遇ね」
メルセナが事もなげに言うので、髪をかき上げて左耳を見せると、彼女も袖をめくってこちらに向けた。細っこい左手首には、ぐるりと囲うように赤い線が入っている。
メルセナは袖を戻しながら続けた。
「私はね、北のシェイルディアから来たの。パパといっしょに」
彼女は銀髪の男を指差した。見る限り父親のほうはエルフではないようだ。エルフと見紛う、むしろそれを超える美しさだが。彼はひととおり燭台に火を灯し終わったのか、明るくなった室内でトレイズと一緒に床に刻まれた大きな紋様を見聞している。ナシャ王妃がラトメに送ってくれたときに見た魔法陣に似たものだ。どうやらあれが神宿塔の転移陣らしい。
「巫子になっちゃって、追っ手から逃げてたんだけど、ギルビス…パパの上司なんだけど、その人から連絡が来て。ラトメに助けてほしい人がいるっていうからここまで来たのよ。私、ギルビスの頼みは断れないのよねー」
そこまで聞いて、ようやくルナセオは合点がいった。トレイズの知り合いで、ギルビスの部下で、ナシャ王妃そっくりの美青年。そういえばシェイルにいたお嬢さんたちは子煩悩だと言っていた。あの銀髪の男がトレイズと会いにいった「エルディ一等騎士」で、ギルビスが言っていた「巫子を連れている部下」のことだったんだ!
メルセナは体ごと顔を傾けて、ネルの顔を覗きこんだ。
「アンタのことよ。インテレディアからラトメに連れて行かれた、ネルとデクレって子たちを助けて連れ出してくれって」
「わたし?」
どうやらギルビスは、ネルとデクレを知っているらしい。こんないかにも田舎町から出てきたあどけない少女だというのに、顔が広いのだなあと感心してネルを見たが、当の彼女はきょとんとしている。
「でも、わたし、そのギルビスさんって人、知らない」
「そのギルビスさんってシェイルの騎士団長じゃないの?俺もシェイルに行ったときに会ったけど、なんでそんな人がネルを助けようとすんの?ネルって実は有名人?」
あんなに地位のある立派な騎士様が助けようとするのだから、実はどこかのお姫さまだったとか、胸踊る展開が待ち受けているのではと期待したものの、ネルにはまったく心当たりがないらしい。むしろ自分の預かり知らぬところで助けを呼ばれていて、気味が悪そうに怪訝な顔をしている。
メルセナのほうも、ギルビスが二人を助けようとしていた理由までは知らないらしい。探偵のまねごとのように顎に手を当てて唸るしぐさをした。
「謎ねえ…まあ、とにかく私たちそうしてラトメに来たわけよ。そしたらいきなりあの暴動が起きたじゃない?何コレーって思ってたら、神護隊の人にボコボコにされてるあの男の人を見つけたの。それで助けて話を聞いてみたら、ネルって子は神宿塔に行ったっていうからここにたどりついたのよ」
「わたしを探しに来てくれたの?」
「ギルビスの頼みだからね」
彼女はだいぶギルビスに入れ込んでいるらしい。恋する女の子のようにキラキラ目を光らせていた。ギルビスも若いけれど、さすがに年の差が激しすぎるのではあるまいか。
そのあとしらっとした視線をこちらに向けられて、その温度差にルナセオは少し傷ついた。
「でも私、アンタのことは知らないわ」
「俺?俺はルナセオ。レクセディアの学生」
ネルに「インテレディアとはお隣だね」と笑いかけると、彼女はあいまいに小さく頷いた。インテレディアはレクセディアの西にあり、大陸の東側を二分する広大な地区だ。五大都市のひとつに数えられてはいるが、シェイルやラトメのような首都があるわけではなく、名前もないような小さな農村が点在していて、それぞれが自給自足の生活を送っているらしい。周辺の都市を「お隣」だと言う感覚は薄いのかもしれない。
ルナセオは自分の身の上を語った。
「俺も突然巫子になっちゃってさ。運よくトレイズに拾われて一緒に旅に出たんだ。トレイズの上司がラトメにいて、巫子を保護してるっていうから、俺を連れて行くって言われて」
「アンタさっきシェイルに行ったって言ってなかった?ラトメとは逆方向じゃない」
すかさずメルセナに突っ込まれた。ネルのほうは一生懸命地理を思い出しているのか、両目をぎゅっとつぶってうんうん言っている。かわいい。
トレイズには悪いが、ルナセオは真実を明かすことにした。彼の名誉のために、小声で。
「それがさー、トレイズのやつ、近年稀に見る方向音痴でさ。あんま突っ込まないでやって、あいつ傷ついちゃうから」
「聞こえてんだよ!」
声の反響しやすいこの塔の中ではルナセオの配慮も意味をなさないらしかった。トレイズの文句は無視することにした。
「それで、俺もどうにかラトメに辿り着いたと思ったら暴動に巻き込まれたんだ。たまたま会った男の子にやっぱりネルとデクレを助けてくれって言われて、今ここ。いろんな人に大切にされてんだね、ネルは」
「クレッセ、わたしのこと、なんて言ってた?」
ネルは悲しげにうつむいた。喧嘩でもしたのか、ネルはクレッセが自分のことを大切にしているとは露ほども思っていないようだ。
ただ、クレッセの一連の話をすべて彼女らに話してしまうのもなにか違う気がした。世界を滅ぼしてやると覚悟もあらわに宣言したあのクレッセの姿を、ルナセオがきちんと伝えられるとも思えなかった。
ルナセオはどこまで説明するか腕組みしながら悩んで、結局当たり障りのない言葉を選んだ。
「あの時はあんまりゆっくり話す時間もなかったからなー、ただ、俺が巫子だって言ったら、ネルとデクレもきっと巫子に選ばれるはずだから、守ってくれって、そのくらい?」
「そのクレッセって誰?」
メルセナはクレッセとは会わなかったらしい。ルナセオはなんと説明すべきか迷って、ネルも口ごもった。すると、転移陣の点検が終わったのかトレイズたちも合流してきた。
「そう、俺も聞きたかったんだ。お前は9番の関係者なのか?」
「9番!」メルセナが叫んだ。「それ、私たちが倒す相手でしょ?アンタの友達だったの!」
あまりに躊躇なく言うものだから唖然としていたら、保護者がやってきて「セーナ、デリカシー」と端的にとがめた。すぐさま少女はぱちんと自身の口を両手で押さえる。どうやら失言には気づいてくれたらしい。
ネルはすっかりしょげてしまったのか、背景に闇でも背負っているかのように肩を落として、手元のハンカチをもてあそんでいる。
「わたし、クレッセの幼なじみで…五年前にラトメのひとたちに無理矢理連れて行かれちゃったの。クレッセのお父さんが、ラトメの偉いひとの子供だったからって。わたし、ずっとクレッセがどこに行っちゃったのか知らなかった。でも、この間、村にレフィルがやってきて…クレッセが病気だって言われて、デクレと一緒にここまで来たの」
つまり、クレッセは誘拐されてラトメにいたということなのだろうか。ルナセオは眉を潜めた。本来、クレッセもネルと同じくらいの年頃だというのなら、クレッセはその五年前から一切成長していないように思われた。ラトメに連れて行かれて9番になった?もやもやと胸の奥に嫌な気持ちが湧き上がってくる。
「デクレってのも友達?」
ルナセオは手を挙げて尋ねた。
「デクレはクレッセの弟なの。クレッセたちがいなくなった日、デクレはたまたまうちに来てて、ラトメに連れて行かれずに済んだんだけど…」
「なるほど、じゃあレフィルが迎えに行ったっていう巫子候補がお前とそのデクレって奴だったわけか。あいつもなんで病気だとかなんだとか回りくどいこと言ったんだ?どうせラトメに来れば知らされることだろ?」
それは、クレッセが9番であることを、ということだろうか。それはどうだろうとルナセオは思った。クレッセが9番になったことにラトメ側の過失があったから、トレイズの上司はそのことは黙ってネルたちを連れ出したのではないか。
ネルはわかんない、と言って首を振った。
「だけど、わたしがラトメで会ってすぐのクレッセは、ほんとに心の病気になっちゃったみたいですごく怖かった。ラファさんが…神都の高等祭司の人がクレッセを治してくれて、クレッセのこと落ち着かせてくれたの」
「あのさあ、ちょっと気になるんだけど」
ルナセオは話の腰を折ってトレイズを見上げた。
「俺は神都の奴らは巫子を襲ったりラトメに暴動けしかけたりする悪いやつで、ラトメに来れば巫子のこと保護してくれるもんだって思ってたんだけど。ネルの話を聞いてると、まるでラトメのほうが悪者じゃない?」
「神都は巫子を捕らえようと巫子狩りを放って来るんだぞ?あいつらがいい奴らな訳がないだろ。ラトメは巫子が神都に害されないように保護してるんだ」
当然これまでトレイズはそれを信じていたわけで、ルナセオを助けてくれたのもその役目を果たすためだ。しかし、そう言いつつも、さすがにトレイズにも疑念が湧いているようだった。上司の目論みなど、彼には知らされていないのだろう。
「嘘!レフィルもレインさんもそんなこと言ってなかった」
ネルが果敢にも反論した。
「ラトメは悪い人たちばっかりだよ。エルミさんはクレッセたちを連れて行くときにユールおじさんの背中を斬ったし、レフィルは…たぶんあの人は、わたしを巫子にしようとしてたし。暴動が起こって、みんな怖い顔してケンカするし。ラファさんはラトメは魔窟だって言ってた。誰も信用しちゃいけないって。… 結局、わたしたちを助けてくれたのは、レインさんだけだったもの」
知らない名前が出てきたが、何者か聞ける空気ではなかった。魔窟とは言い得て妙だとルナセオは思ったが、自分の暮らす街を悪く言われてトレイズも黙っていられなかった。
「いや、でも…」
「トレイズさん、今のラトメが悪意と陰謀にまみれているのは事実でしょう。あなたがこの都市の第一線で活躍されていた頃とは違いますよ」
そこで、ずっと黙って話を聞いていた銀髪の美青年が口を挟んだ。それにしても声まで心地のいいテノールだ。彼といいナシャ王妃といい、神様がこの世に顕現したのかと思っていたら、ネルも美青年に見惚れているようだった。
「あなたって、エルミさんそっくり」
「よく言われる、親戚みたいなものだから」
どうやら見たことのないそのエルミさんという人物も天に愛された美貌の持ち主らしい。
「自己紹介が遅れたな、私はエルディ」
彼はルナセオの予想通りの名前を名乗った。「そこのメルセナの父で、レインとは昔からの知り合いだ」
「うちのパパ、かっこいいでしょ」
なぜか娘のほうが自慢げに胸を張っている。
「とにかく、ここはゆっくり話をするには向かないだろう。この塔の転移陣が使えるようだから、今は一旦別の都市に移ろう。君も少し休んだほうがいい、ずいぶん疲れているみたいだから」
しかもこの騎士様は、見た目ばかりではなく中身まで気配りのできるいい男らしい。これはうちの相方に勝てる要素はなさそうだ。ルナセオは残念な気持ちになってトレイズを見上げた。
「ほら、こういうとこだよトレイズ。こういうのが大人の対応だって」
「うるせえ」
トレイズは頭をかきながら転移陣のほうへ歩み寄った。
「ひとまずレクセに俺の知り合いがいるから、そこに行こう。エルディ、レクセディアに繋がる出口はあるか?」
「レクセの学生街前には行けそうです。さあ、皆、陣の上に乗りなさい」
見る人が見れば、転移陣の紋様で行き先もわかるらしい。シェイル騎士たちの有能さを思い知りながら陣のほうへ向かうと、ふと背後のネルが名残惜しそうに神宿塔の扉を見つめているのに気づいた。
「ネル」
隣のメルセナと声が重なった。思わずお互いに苦い視線を交わす。
「行きましょ。ここにいたって何もできないわ」
「レクセでゆっくり朗報を待とうぜ」
気を取り直して口々に言うと、ネルもようやくこちらに歩み寄った。それを見ながら、ルナセオは自分がずいぶん遠くまで来てしまったような感覚に陥った。
物理的な距離じゃなくて、心が、もう過去の自分ではないのだと理解した。今のルナセオは母もグレーシャも恋しがったりはしていないし、ましてや自分の境遇を嘆いたりもしない。一方で、強い意志をもつクレッセを引き留められるような覚悟もない。
ただふわふわとたゆたうように、流されるままのからっぽの自分は、果たして巫子として役目を果たせるのだろうか。今のルナセオには、なにも分からなかった。