1
章ごとに書き溜めて連載していきます。1章全10話、毎日0時更新です。
その昔、まだこの世界がいくつもの国に分かれていた頃。
戦争に明け暮れる世の中を嘆いたひとりの女性が、いく人かの同志とともに世界を正して、ひとつの大きな国に取りまとめたのだという。
その女性はいつしか聖女様とあがめられて、人びとの希望となった。平和と友愛をつかさどる、この世界の象徴たる存在に。
けれど、やっぱりその聖女様は神さまがどこかから遣わした、まぼろしみたいな存在だったのだろう。
ある日聖女様はこつぜんとこの世界から消え失せた。人びとは聖女様との約束を守って、それからまた戦争をするようなことにはならなかったけれど、聖女様を通じて仲良くなった世の中は、ほんの少しだけ、平和に陰りを落とすようになった。
それからたまに、世界には恐ろしい願いを持った悪者が現れるようになった。それは世界を滅ぼしてしまおうとたくらんで、大勢が不幸になった。
そのたびに、どこかから現れた九人の巫子が、悪者をやっつけて、ふたたび世界は平和を取り戻す。彼らは世界を救うといずこかへと消えていって、誰もその正体を知らないのだという。
誰かがまことしやかに噂した。
きっとあれは、聖女様がこの世界に残してくれた、最後の希望の光なのだと。
◆
ふつう、子供ならば誰でも、この巫子のおとぎ話を聞かされて育つものだけれど、ルナセオのうちはあんまりふつうではなかった。
いつまでも少女めいたルナセオの母は、悪者がやっつけられる勧善懲悪のお話より、悪者が改心するような大団円の物語を好んだ。だから、ルナセオは世界中でいちばんメジャーな昔話を知らずにすくすく育ち、学生になってからだいぶ恥をかいたものだった。
それなのに、母はまったく悪びれる様子もなく、のんびり穏やかにうそぶいた。
「だって、いくら悪いひとだって、九人もの人にやっつけられたらかわいそうじゃない?」
父は考古学者で、しょっちゅう遺跡探索に行っていてあまり帰ってこない。兄は学校を卒業すると魔法道具にのめりこんでさっさと家を出て行った。
そんなわけで、ルナセオはもっぱらこのマイペースな母ひとりに育てられた。学校に入る年になったとき、寮に住むことも考えたが、昔はどこかのご令嬢だったらしい世間知らずな母がどうにも心配で、ルナセオは未だ実家を出られずにいる。幸い、ルナセオの住むこのレクセディアは学園都市と言われるくらい教育がさかんで、実家から通える学校がいくつもあった。
「ねえ、セオ。母さん、昨日マフィンを焼いたの。グレーシャくんと一緒に食べてね」
そう言って出かけに渡された紙袋を見下ろして、ルナセオはため息をついた。あの母に年中、心配という心配をさせられ続けてきたルナセオには目立った反抗期はなかったが、学校に入って広い世界を知るたび、あの浮世離れした母のことがちょっぴり苦手に感じるこの頃だ。
「よー、セオ。なんだよォ、朝っぱらから辛気臭ぇ顔」
「おー」
学校へ向かう坂道を登りながら、ルナセオは遭遇した同級生に片手を上げた。黄土色の髪を伸ばしてくくっているルナセオもよく風紀委員に目をつけられるが、このグレーシャはその比ではない。また穴を開けたのか、チャラチャラぶら下がったいくつものピアスは明らかに校則違反だし、ワイシャツのボタンは上三つも開いて、鎖骨と皮のネックレスがのぞいている。しかも履いているスラックスは制服ではなくもっと細身で深い黒のものだ。それなりに校則の厳しいわが校で、ここまで自分のスタイルを貫ける友人を、ルナセオは尊敬していた。
ルナセオはグレーシャに紙袋を差し出した。
「これ、母さんから。食う?」
「わーっ、なになに?食う!セオの母さん、菓子作り上手だよなあ」
「お菓子はね。料理はからっきしだけど」
嬉しそうにマフィンを頬張るグレーシャを横目にルナセオはまた深いため息をついた。先ほど、なにを思ったか突然朝食を作り出した母に、炭、もとい焼きすぎたベーコンを食わされたことを思い出してルナセオは腹をさすった。
朝から体調の悪そうなルナセオの原因はだいたい母の突拍子もない行動にあることは、これまでの付き合いでグレーシャも知っている。彼は神妙にルナセオの背中をさすり目を閉じると、マフィンを聖書のように捧げ持った。
「強く生きよ、さすればなんじは救われる」
「そりゃどーも」
「じゃあ今夜は俺んち来る?お袋が今夜はビーフシチューだって言ってた」
「マジで!?行く行く!」
うちの母には悪いが、グレーシャの母の方が断然料理上手なのだからしょうがない。彼女の作るシチューの柔らかい肉の食感を思い出しながらうっとりしていると、ふと隣のグレーシャが右手の路地を見てつぶやいた。
「あれ?ラゼだ」
グレーシャの肩越しに視線を追うと、金髪の小柄な少女の背中が見えた。なにやら旅人らしきマントをかぶった男と話している。確かに、グレーシャの天敵たる風紀委員のラゼだ。
「ほんとだ、なにやってんだろあんなとこで」
「なあ、ラゼって学外に年上の彼氏がいるって噂になってたよな。まさかアレが彼氏か?」
「まさか。年上にもほどがあるだろ」
ラゼと話している男は、ルナセオたちの親くらいの年齢に見えた。しかも長旅だったのかだいぶ薄汚れている。髪は伸び放題だし無精髭も生えていた。仮にラゼの嗜好が恋愛に年の差は関係ないタイプだったとしても、あの綺麗好き・校則好きな彼女が選ぶ男とは思えない。
「ていうか、なんか揉めてない?」
「…狩りがもう動いてる。ここに長居するのは危険だ、ラトメならレフィルが保護してくれる」
「私、あの人嫌いよ。得体が知れないんだもの」
「ラゼ、お前がいつまでも4番に選ばれ続けてるのには、何か意味があるはずだ。神都もきっと不審がる。とにかく身を隠すべきだ」
ふたりがなにを話しているのかさっぱりだったが、とにかくラゼは嫌がっているようだ。ルナセオが一歩前に出ると、グレーシャが苦い顔をした。
「やめとこうぜ、厄介ごとに口出すなって」
「でも、なんか嫌がってるみたいだし」
ルナセオがラゼに向けて「おーい!ラゼ!」と声をかけると、ラゼも男もびくりと肩を揺らした。まるで幽霊でも見るみたいな顔してラゼがこちらを向いた。
ルナセオは、男の金色の目が剣呑な光を帯びてこちらを睨むのにどきりとしながら、学校のほうを指さした。
「予鈴、もうすぐ鳴るけど」
男は舌打ちしながら、「また来る」と言葉短かに言って去っていった。しかめっ面で路地から出てきたラゼに「だいじょぶ?」と声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「余計なお世話!」
そのまま学校のほうへ駆け出してしまったので、結局あの男は誰だったのか聞きそびれてしまった。いらないことしちゃったかなー、頬をかいているとしたり顔でグレーシャが肩をすくめた。
「ほらな?助けてもらってあの言い様だぜ。ホントいけすかないよな、アイツ」
「でも、困ってるやつをほっとけないだろ?」
「あーあー、出た出た、そういうとこがモテる所以なのかねー」
「なんだよー」
グレーシャはやってらんねー、とぼやくと呆れた様子で学校に向かって歩き出した。
「お前、そんなイイコチャンしてて疲れねぇ?嫌いなやつとかいないのかよ」
「そんなイイコチャンしてるつもりないけど」
「はー、俺とは心の出来が違うのかねー」
やだやだ、と首を振るグレーシャに、ルナセオはモヤモヤして唇を尖らせた。
グレーシャなんかは「あの母にしてこの子あり」だなんて言うけれど、確かにルナセオは誰が嫌いだとか誰が悪いだとかいうことをあまり考えたことがなかった。逆に誰かに嫌われているという話も聞いたことがない気がする。昔から友達は多かった。
誰に対しても親切にするのが当たり前なだけで、特別いい顔しようと意識したこともなかった。それがグレーシャには「イイコチャン」に見えるのだろうか。
グレーシャは好き嫌いがハッキリしていて、あれは嫌い、これは好き、となんのためらいもなく言い放つ。そこがかっこいいと思うのだが、敵を作ることも多かった。
グレーシャはもちろん友達の中でいちばん気のおけない仲間だけれど、ルナセオにとって、そこまで心を揺さぶるほどの「好き」も「嫌い」も感じたことがないのだ。それって心の出来が…いいのかな、それとも悪いのかな。青空を飛んでいく鳥を見上げながら、ルナセオは疑問を抱いた。
◆
「セオくん、おいしい?おかわり食べる?」
「すっごいおいしいです!いただきます!」
でもマユキさんの作るビーフシチューは大好き!濃厚なトマトの風味に舌鼓を打ちながらルナセオは幸福を噛みしめた。グレーシャの母、マユキはルナセオのいい食いっぷりにニコニコしている。彼女は魔法道具の開発の仕事をしていて、うちの兄もこんなすぐそばに憧れの魔法道具士がいると知っていたら、テコでも実家から動かなかっただろう。いや、むしろマユキさんに住み込みの打診をしていたかもしれない。
息子のほうは椅子の上に体育座りしながらスプーンをくわえて本をめくっているという、行儀の悪い格好でマユキにゲンコツを落とされていた。
「いってーな!」
「アンタもセオくんを見習って母の料理を褒めたらどうなの。いつも読書しながら難しい顔して食事するんだから」
「うるせーなァ、うめえってば」
この家も父が単身赴任らしく、ルナセオはグレーシャの父親に会ったことがなかった。マユキは素行不良な息子に向けて大仰に嘆いてみせた。
「あーあ、アンタといいうちの旦那といい、自分の興味ないことにはぜんっぜん気を回さないんだもの。私もセオくんみたいな優しい息子が欲しかったなー」
「そうやって口うるさいのが嫌で愛想尽かされたんじゃねーの」
「フン、なめんじゃないわよ、未だに熱々のラブラブだし」
ルナセオからしてみればこの親子こそこの母にしてなんとやら、グレーシャのさっぱりした性格は明らかに母譲りだった。マユキは頬杖をつきながら羨ましそうにルナセオを眺めた。
「セオくんのところはお母様の教育がよかったのかしらねー。いつもお菓子をいただいてばかりでお会いしたこともないけど。またお礼を言っておいてね」
「セオの母さんは若くてきれーでいいよなー、人妻じゃなかったら狙ってたなー俺」
「アンタ、それを息子の前で言うのはどうかと思うわよ」
ルナセオはあいまいな笑みを浮かべながら「母さんの相手は苦労するからあまりオススメしないかも」とやんわり言った。
◆
マユキとグレーシャ母子を見ていると、我が母はいつまでも母ではなくひとりの娘であるようで、ほんのちょっぴりルナセオはすわりの悪い気分になる。けれど、やっぱりルナセオなんかよりも人生経験豊富なのか、時折何かに思いを馳せるような、母の冷たい瞳が昔から苦手だった。
「セオ」
今日も放課後に家に寄ってから、グレーシャ宅に行こうとしたときに母はそんな目をしてルナセオを呼びとめた。
「なに、母さん」
「…ううん、グレーシャくんと仲良くね」
お嬢様然とした母が、どこにでもいそうな平凡な父とどうやって出会って結婚にこぎつけたのか聞いたこともないけれど、それなりに苦労もしてきたのかもしれない。
この街は学園都市というだけあって、夜になると人の出入りがめっきりなくなる。ルナセオが住んでいるのは学生街のはずれで、学生寮の門限を迎える時間にはどこも店じまいしてしまうのだ。
夜道をひとりで歩いていると、いらないことばかり考えてしまう。首をぶるぶる振って、気分を変えようと空を見上げると、不意に星空に黒い影が走った。
屋根から屋根を越えて、黒い影は素早く学生街の中心へと走っていく。猫のように素早いが、マントを被った人間のようだ。ルナセオは最初、気軽な気持ちでそれを眺めていた。どこかの運動部が門限を破って練習でもしてるのかな、そんなことを考えていたら、ドン、となにかが爆発するみたいな音とともに、黒い影が屋根から転落していった。
「……えっ」
なにかがおかしいぞ、どこか嫌な気配を感じながらも、ルナセオは方向転換して黒い影が落ちたほうへと歩きだした。誰かが大怪我をしていたらどうしよう、焦燥に駆られながら路地の角を曲がると、ちょうど誰かとかちあって、ルナセオはまともに顎をぶつけた。
「きゃっ!」
「わっ」
小柄な影は、ルナセオの顎に頭が激突したらしくつむじのあたりを押さえていた。マントのフードをかぶった姿を見るに、どうやらあの屋根を転々としていたのはこの人物らしい。屋根から落ちて倒れていなくてよかった、ルナセオがほっとしたのもつかの間、フードからのぞいた金髪に、思わず声を上げた。
「ラゼ!」