Crazy grayish mouseⅡ
――おかしい。
靄至は数度、初音と対戦した事がある。そのいずれでも、勝敗を決するに手こずる事は無かった格下の相手。
「お前……ドーピングしてやがるな」
「だったら何?」
靄志に対するその返答は、含羞を僅かにも見せていなかった。
「チッ……」
舌打ちの直後。初音の拳がまるで風を纏っているかのように迫る。
靄志は咄嗟に腕でガードを固めるが、丸太で殴られたのではないかと錯覚するほどの衝撃を受けた。
(速え……ッ、それになんつー重さだ……!)
靄志が知っている、ひ弱な初音にできる所業ではない。薬理作用により強制的に引き上げられた力が、靄志を徐々に壁際へ追い詰めていく。
初音の猛攻を防戦一方で凌ぎ続けるうち、やがてこの戦い方に妙な既視感を覚えた。
――そうだ。かつての俺と同じだ。少し力があるからと驕り、型もなく我流で、ただ愚直に突っ込んでくる。
少し前の自分なら、ムキになり真っ向から力比べを挑み、そのままドーピングの力に押しつぶされていたかもしれない。
だが今の靄志は、あの本物の強さを知っている。自分の力任せの戦い方を、涼しい顔で容易く制圧してみせた、紀伊の姿を。
――思い出せ。紀伊さんはどうしていたか。
見様見真似ができる確信もないが、このままただ押し負けるよりは、やるだけでも価値はある。
向かってくる力を見るんじゃない。そこはあくまで出力先だ。踏み込みの予備動作、視線のブレ、肩の力の入り方。見るべきはそこだ。あえて闘争心を鎮めて、冷静に観察する。
右のフックが放たれた瞬間、靄志はそれを紙一重で躱し、初音の腕の関節へカウンターを打ち込んだ。
初音の体制が崩れ、前のめりになる。すかさず靄志の得意の蹴りを無防備な腹部へ。
「カハ……ッ!」
胃液を吐き出しながら、初音は無様に床へ転がる。
「ハァッ、ハァッ……クソ……ッ!」
肩で息をする初音の顔には、余裕というものが消え、代わりにいら立ちと焦りが見えた。あれだけ急激な筋力変化をもたらす薬が、長時間ノーリスクで使えるはずもない。靄志の目にもそれは明らかだった。
「……お前、そろそろ限界だろ。やめとけよもう」
靄志は哀れみや軽蔑の混じる視線を落としながら、静かに語りかける。
「うるさいうるさい!」
じっとりと距離を詰める靄志から、逃げるように後ずさる初音。もうあとは負けを認めさせるだけだからと、靄志は油断していた。
初音はバッと振り返り、最後の力を振り絞ったかのような素早い動きで、いまだ眠るメリの傍らに駆け寄った。
「……動くなよ」
初音は白衣のポケットから取り出した注射器を、片手で引き寄せたメリの首筋に突き立てた。
「おい! 何やってるテメェ!」
「これ、ちょっと強力な筋弛緩剤。副作用で薬が切れた後もまともに動けなくなるかも。アタシとしてはメリをそこまで廃人にしたくはないし、最終手段のつもりだったけどね……」
したくはないと言っても、やるときはやる。初音はそういう人間だ。それを理解している靄志は、初音の警告通りに動きを封じられてしまった。
「勝負はアタシの負けでいいさ。元から縄張り争いの勝負には期待されてないしね。兆番の人間と接触できる口実を狙ってただけ。だから……メリは渡さない。さっさとそのチビ連れて帰れよ。じゃなきゃコイツをメリにぶち込む」
物憂げな表情でそう指示をする初音。それに従いたくはないが、メリを人質にされた靄志は反抗する事もできない。
「こんなやり方間違ってるだろ……お前がクズなのは知ってるが、お前も、メリにまで体に負担かけて……お前にだって事情があるかもしれねーけど、そこまでやる必要あんのかよ……!」
「やり方に間違いもクソも無いんだよ!」
初音は声を荒げる。
「結果が全てだ。結果を出さなきゃ、より良い研究を、成果を! メリが……研究体が必要なんだ……じゃなきゃ、アタシたちには将来が無い……」
「……ハツネ……」
初音のその本音の吐露に、靄志は心当たりがあった。抒割高校は遺塵研究所と深い繋がりがある。抒割の優秀な生徒の殆どが遺塵研究所への所属を目指していると言うのは有名な話だ。初音達に高待遇をチラつかせて、縄張り争いに誘い込んだのも遺塵だろう。そこまでして目指す進路へ陰りが生じるのを初音は恐れ、強引な手段を講じている。靄志にはそう読み取れた。
「ハツネちゃん」
ふと、か細い声が初音の耳に届いた。その声がする方へ視線を向けると、寝ぼけ眼のメリが初音を見つめていた。
「……メリ、なんで……あのガスで一時間は眠るはずなのに」
「ん……そうだったの? メリ普段から眠い体質だから、睡眠薬とかあんまり効かないんだよね」
あくびをしながら、のほほんと答えるメリの顔を見て、毒気を抜かれた初音はへたりと座り込んだ。力が抜けた指先から、カランと音を立てて注射器が転がり落ちる。戦意の喪失だった。こんなに無垢で愛らしい少女を、無理やり生涯まともに動けなくするなど、でき得ないと。
「……は、はは……やっぱりメリは規格外だな……ほんと、君を研究体にできたら良いのに……」
それは叶わない望みのつもりでこぼした言葉だった。
「いいよ?」
「え……?」
「あのね、ハツネちゃんがメリが必要なんだって言ってくれたら遊びに行くよ? メリとハツネちゃんが敵でも味方でも、友達でしょ」
メリの小さな手が、優しく初音の頬に触れた。温かな体温をじんわりと伝えさせる。
「兆番の大人の人達に、遺塵には近づくなって言われてるけど……メリ、ハツネちゃんは好きだから。痛いことしないなら、メリのこと見ていいよ」
穏やかに微笑むメリを見て、初音はワッと泣き出した。メリの慈愛、自分の愚かさ、メリを取り返しのつかない状態にせずに済む安堵。それを自覚したゆえだった。
「メリぃ……! ひどい事してごめん……! ごめんね、アタシも、メリが好き、大事なのに……! 自分の事しか、考えてなかった……!」
「よしよし。ハツネちゃんは泣き虫だなあ」
メリは初音に抱きしめられながら、子どもをあやすように初音の頭を撫でた。
◇
「……というわけなら。CGMは解散、で良いな?」
昏睡から目覚め、事情を知らされた紀伊は、初音に問いかける。
「仕方ないね。メリもそっちにいるならやぶさかではないよ」
元より代理戦争の勝敗は二の次で活動していた初音は、あっけらかんと答えた。
「おい。こっち来るつもりかよ」
「そうだよ」
「メリに手ぇ出すなよ」
「約束はできないねェ! なんたってメリの許しがあるのだから!」
「コイツ、調子に乗りやがって……」
ドヤ顔でふんぞり返る初音を睨みつけ、靄志は「もう一発蹴りを入れてやろうか」と悪態をつく。
「それから、ありがとうモヤシ。よくやってくれた」
「……ウン」
微笑みを向けながら、靄志の活躍を褒め称える紀伊。忠義を尽くそうとする相手に認められて、靄志は照れくさそうに視線をそらした。
「なんだ、随分と彼には腑抜けたツラ見せるね。牙でも抜かれたみたいに。まあ君に牙なんて最初から無いか」
「うるせー! 負けた分際で!」
◇
「遺塵研究所の資料の中で……アタシらが閲覧を許されてるのはここまでだね」
一仕事を終えた初音は大きく伸びをして、その反動で椅子が鳴る。そして、モニターに映る電子書類を丸々コピーし保存した外部デバイスを紀伊に手渡す。
「ありがとう」
「何を探してるんだい?」
「それは言えないな」
「……カラスってのは枯金会直属の企業スパイ部隊らしいね。そういうこと?」
初音のその問いかけに口を閉ざしたまま、紀伊の眉が僅かに歪む。
「どこまで知っているかって? 知らないよ何も。アタシらの裏が言ってただけ」
「……知らないほうが良い。」
「ハハ! それじゃあ逆効果だよ。アタシらみたいなのは興味持ったらしつこいからね」
初音は冗談とも本気とも分からない返答をする。メリへの執着を考えれば、それが本気であれば厄介だと、冗談であればよいと紀伊は思うしか無かった。
「キイ。名前を聞いていいかい。それくらいはいいだろう?」
「……紀伊蓮だ」
「紀伊蓮……」
初音はその名前を復唱し、そしてううん、と唸った。
「アタシ記憶力には自信あるんだけどさ、その名前どっかで見たことある気がするんだよねェ」
指先を机の上でトントンと鳴らしながら、初音は自身の記憶を探る。やがて閃きを得たとばかりに、再びパソコンに向かい直し、キーボードへ手を伸ばした。
「ああ、そういえば例の資料に……」
「何を見たかは知らないが、想像はつく。口外しないでもらえるか」
紀伊は冷たく落ち着き払った声色で制止し、自身の事情に踏み込まないよう釘をさした。
「ええ。別にいいけどさ。ソレが事実ってんなら、君卑怯じゃないかい? 経験値の差というかさ」
初音は手を止めて、目の前の少年の姿をマジマジと見つめる。
「それは承知の上だ。だからこそ適任として私が選ばれた。けれど、君は私ではなくモヤシに負けただろう」
「だからぐうの音も出ないんだよねェ」
降参ですと言わんばかりに両手を挙げて、初音はくるくると椅子を回転させる。
「それに君だって、ドーピングに人質に、結構なことをしていたらしいが」
「ふふん。だからどうなんだい? メリがいるならそれでいい……結果が全てさ」
結果が全て。それは初音にとって永劫変わらぬポリシー。だが、かつてと違い、晴れやかな微笑みを浮かべていた。




