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好きな子に催眠をかけたが結局

作者: 夏雪あい

「おはよう」


 (おか)田吾作(たごさく)は、座席で窓の外を眺めていると、女子から挨拶をされた。その女子は返事を待つでもなく、前方の自分の座席へ向かった。

 高井(たかい)(あや)。クラスの委員長だ。学校がある日の、二日に一回は挨拶をされる。

 もしや、俺のこと、好きなんじゃねーの?

 そう思ったのも一再(いっさい)ではない。実際そうなんだと思う。

 その考察が正しいことを証明するため、ある日、高井に告白をしてみた。


「つ、付きあ」

「ごめんなさい」


 言い切る前に断られた。

 断られた理由を察するに、三回告白されるのを待っているのではないかな、と田吾作は考えた。三国志の三顧(さんこ)の礼みたいに。諸葛亮は劉備に三回尋ねられ、臣下となることとなった。きっと同じことだ。

 結局、次の日もフラれ、その翌日もフラれた。


 三顧じゃ足りないのだろうか。


 五回目の告白で心が折れた。どうやら、田吾作の考察は間違えていたらしい。さらに十回告白しても、結果は変わらない気がした。

 五回の告白で変わったのは、田吾作自身の心だった。意識するうちに、本当に好きになってしまった。委員長、かわいい。田吾作は、悶々とした日々を過ごすようになった。


 ある日の学校帰り、妙に強い視線を感じた。変な格好……赤ずきんちゃんを連想したくなるような格好の幼女からだ。その幼女は、道端の縁石に座っていた。


「なに?」

「リンゴの匂いがしましゅ」


 しましゅってなんだよ。変な言葉遣いだな。


「俺から? 確かに持ってるけど」


 昼に食べなかったリンゴが残っている。だが容器に入れて、しっかりと密閉してあるはずだ。においが漏れているとは思えない。どんな嗅覚をしているのか。


「くだしゃい」

「あげてもいいけど、知らない人から食べ物貰っちゃ駄目って、親に言われたことないの?」

「ないでしゅ」


 母親以外で、こんなに長く女性と喋ったのは、駅前でアンケートに答えて以来か。そんなことを考えた。幼女は女性に含まれますよね。含まれます。

 田吾作は、鞄から容器を取り出し、幼女に差し出した。


「全部食っていいよ」

「嬉しいでしゅ」


 幼女は頬を緩ませながら、リンゴを頬張った。その幼女の姿を、ぼんやりと眺めた。猫でも眺めているかのような気分だ。

 何をやっているのだろう。フラれた傷を、幼女に優しくすることで癒やしている。そんな気もした。


「じゃ」

「待ってくだしゃい」


 空になった容器を受け取ると、手をビッと上げ、田吾作は帰ろうとした。その別れは、幼女から制止された。


「大しゅきなリンゴをくれましゅたので、親切をお返ししたいでしゅ」

「別にいいよ。何も期待してないから。ああ、じゃあ頼もうかな」


 自分の半分も身長のない女の子だ。見返りを求める気など毛頭ない。……と思ったが、途中で考えを改めた。断ろうとした時、親と生き別れでもしたのかってくらいに、悲しそうな顔をされたのだ。幼女、ずるい。

 田吾作も同じような表情をすれば、他者の意見を変えさせることができるだろうか。もし、高井にフラれた時、生き別れたような表情をすれば……今度、試してみよう。六回目として。


「で、何ができるの?」

「記憶をくだしゃい。みろんこっとが、楽しい思い出にしてあげましゅ」


 よくわからないことを言い出したよ、この子。みろんこっと。幼女の名前だろうか。聞き間違えたかと思うくらいに、変な名前だった。

 それと、その幼女の一言で、幼女に対する興味は薄れていった。自信満々の表情は、嘘をついているようではないが、変な子に関わりたくない。


「遅くならないうちに帰れよ」

「楽しくなかった記憶をくだしゃい」


 話は終わりという意図が、幼女に伝わらなかったようだ。


「じゃっ……わかったよ」


 去ろうとしたが、また生き別れられた。通りを歩く人が、視線を向けてくるのが、ひどく居心地悪い。まるで田吾作が泣かしているかのようだった。


「分かったよ。どうすりゃいいんだよ。悲しかった話でもすりゃいいの?」

「違いましゅ。思い浮かべてくだしゃい」


 幼女が手招きのような仕草をしている。しゃがめと伝えたいようだ。田吾作は、素直にしゃがんだ。

 最近の悲しかったことと言えば、委員長の高井に告白をし、フラれた件だった。思い浮かべるのは容易いが、思い出したくない。


「思い浮かべましゅたか?」


 幼女の瞳がキラッキラしている。期待しているようだ。気がつけば、手にタクトのような棒状の物を持っていた。

 ため息を一つ。仕方なく目を閉じ、あの悲しい思い出を振り返ってみた。つ、付きあ、ごめんなさい。ちょっとだけ泣きそうになった。


 おでこに何か触った。驚くようにして目を開くと、タクトが当てられていた。そのタクトの先端が、光を放っている。不思議な気持ちで、その光を見ていた。すると幼女が、その光を幼女自身の額に移動させた。光がおでこに吸収される。

 手品かな? 先端が光るタクトの玩具なのかな? などと考えたが、何も言葉は出なかった。

 幼女の瞳から、涙が溢れた。こぼれ落ちている。それから笑顔になった。


「はい、お返ししましゅ」


 幼女の額から出てきた光が、タクトに移り、田吾作の額に当てられた。一瞬、視界が真っ白に輝いた。世界が白くなったかのように、田吾作には感じられた。

 何が起きたのか。


「へ?」

「もう一度、思い浮かべてみてくだしゃい」

「またかよ」


 今度は眼を見開いたまま、思い返してみた。

 つ、付きあ、ごめんなさい。やったあ。断られたぜ!


 あれ?


「確かに、確かに嬉しいけど、違くない?」

「ほぁ、違いましゅたか?」

「違いましゅね」


 口調移っちゃったよ。

 いやいや、それどころじゃない。どんなマジックかしらないが、今とんでもないことを体験したのではないだろうか。悲しかった記憶が、楽しい記憶に早変わりしたのだ。ただ、事実は変わっていないので、冷静に考えれば悲しいはずの記憶である。でも悲しく思えない不思議。


「どうやってやったのか知らんけど、事実は変わってないからなあ」

「みろんこっとが勉強できるのは、記憶だけでしゅ」


 勉強ねえ。

 催眠術でも、かけられたのだろうか。不思議な体験ではあった。でも、それだけだ。


「じゃ、遅くならないうちに帰れよ」

「ちょっと待ってくだしゃい」

「あん?」


 また反応してしまった。無視して行かないと、いつまでたっても帰れない。そんな気がしてきた。


「違うのでしゅたら、もう一回やりましゅ」

「確かに違ったんだけどさ、もういいよ。……はい、お願いします」


 出た。生き別れ。泣き落としが通じるのはな、可愛いと思われてるうちだけだからな。覚悟しておけよ。二、三十年後には、通じなくなってるからな。あれ、結構長く使える技だな。


「ではまた、悲しい記憶をくだしゃい」

「って言ってもさ。俺が楽しくなっても、あまり意味がないし。委員長の記憶を変えられるならまだしも」

「できましゅよ」

「えっ」


 できる?


「委員長の記憶を変えられるの?」

「たかいあや、しゃんの記憶でしゅよね。同じようにすれば、楽しくできましゅよ」


 マジカヨ。


「あれ、委員長の名前、言ったっけ?」

「さっき貰った記憶にありましゅた」


 催眠術ってこんななの? それとも、事前に調査でもされてたのかな? よくわからなくなってきた。胡散臭いと思う気持ちはあるが、どこまで通じるのか試してみたい気もしてきた。


「じゃあさ、高井さんを、俺に惚れさせてくれよ」


 願望を口に出してみた。事実が変わらなくとも、記憶……想いを変えることが本当に可能なら、これはできるだろう。どうせ、できないって言い返されるのだろうが。


「惚れるって、どういうことでしゅか?」


 惚れるがわからないかー。まだまだプチトマトちゃんだなー。


「そうだなー。なんでもしてあげたくなることかな」

「わかりましゅた。会わせてくだしゃい」

「え、まじで。やるの?」

「親切のお返しをしましゅ。勉強にもなりましゅ」


 この子、やる気だ。


「今日は無理。明日ならいいけど」


 高井に会う方法は、学校かアルバイト先だ。明日はレジ打ちのアルバイトをしているだろう曜日なので、お店に行けば会える。

 この幼女を学校に連れて行くのは、ちょっと気が引けた。幼女を連れ歩いているところを、知り合いに見られたくない。


「明日やりましゅ」

「え、本当にやるの?」

「やりましゅ」

「お、おう。じゃあ、明日な。またここで」


 今度こそ帰ろうと、鞄を持ち直し、歩み始めた。すると、うしろからトテトテと、ついてくる足音が聞こえた。


「なに。まだなんか用があるの?」

「泊めてくだしゃい」

「なんで」

「みろんこっとに、おうちはないでしゅ」

「つれて帰れるわけねーって。警察行けよ」


 幼女を連れ帰って、父ちゃんと母ちゃんに、なんて説明するんだよ。


「大丈夫でしゅ。お姉ちゃんでしゅから」

「は?」


 何を言っているんだと視線を向けると、幼女が飛びついてきた。なんだと思う間もなく、またタクトを額に当てられた。眼の前が白くなった。

 白い世界に色が戻ってくると、目の前には、みろんこっと姉ちゃんがいた。


「あれ?」

「帰りましゅよ」


 そうだった。姉ちゃんと帰るのに、親に説明する何かなど、必要はない。

 家に帰ると、最初は母ちゃんに怒られた。仕事から帰ってきた父ちゃんは、わけがわからないといった顔をしていた。どちらも、みろんこっとがタクトを当てると、何か納得したようだった。


「姉ちゃん、食べ方が汚いなあ」

「残さず食べましゅ。リンゴだけあればいいんでしゅけど」

「リンゴは、また買ってきてあげるわ」

「栄養が偏ってしまうからな、リンゴだけでは」


 食事は賑やかだった。面倒見のよい母。ガハハと豪快に笑う父。こんな食卓は、いつぶりだろう。思い出そうとしても、思い出せなかった。


 翌日、高井のアルバイトが終わる時間を見計らい、アルバイト先にみろんこっとと赴いた。二十二時である。周囲は暗く、人通りはまばらだった。


「りんごは、とっても美味しいでしゅ」


 まだ営業中のスーパーで、りんごを買った。高井のレジで精算したりんごだ。

 駐輪場のいくらか明るい場所で、りんごを食べていた。ここで高井を待つ。


 高井になんて言い訳をしようか。

 買い物が終わったのに、まだここにいる理由を考えておきたい。真の理由は、みろんこっとが催眠をかけるためである。その理由をそのまま伝えるのは、やはり問題がある。おかしな人扱いされそうだからだ。


「田吾作君? それと妹さん?」


 考えがまとまらないうちに、高井が来てしまった。


「え、あ、いや、妹じゃなくて、姉なんだよね」

「あら、ごめんなさい。すごく幼く見えたから」

「みろんこっとは、お姉ちゃんでしゅ」

「可愛い。あ、また、ごめんなさい。気を悪くしましたか?」

「大丈夫でしゅ。お姉ちゃんでしゅから」


 姉のみろんこっとは、確かにかなり若い見た目をしている。田吾作の姉ということは、高井よりも年上ということになるが、明らかに高井の方が歳上に見えた。


「今日は、たかいしゃんの記憶を楽しくしましゅ。だから、ここで待っていましゅた」

「はぁ……」

「いや、まあ、おまじないみたいなもので」


 なぜかフォローを入れてしまった。みろんこっとの説明はよく分からないが、催眠かけるねと真実を伝えるのは、嫌そうな反応をされる気がした。おまじない。それくらいの表現だったら、抵抗もそれほど持たれないはずだ。


「やってもいいでしゅか?」


 それ、訊くの?


「え、あ、はい」


 いいんだ。


「では、顔を低くしてくだしゃい。しょれから、たごしゃくのことを思い浮かべてくだしゃい」

「たごさく? 誰?」

「みろんこっとの弟でしゅ」


 高井と眼があった。

 一度聞いたら、なかなか忘れられない名前だと思うが、覚えられていなかったのかな。


 高井がしゃがんで目を閉じた。今、田吾作のことを、思い浮かべているのだろうか。どんな姿が思い浮かべられているのだろうか。

 みろんこっとが、タクトを高井の額に当てると、やはり光が宿った。不思議なタクトだ。その光が、みろんこっとの額に吸い込まれる。みろんこっとが困ったような表情をした。それから笑った。光を高井の額に戻す。

 この儀式のような行いが、催眠に必要なのだろうか。


「終わりましゅた」

「え、はい」


 高井が少し眩しそうな表情をしていた。


「たごしゃくのことを考えてみてくだしゃい」


 高井は首を捻っていたが、田吾作へ視線を向けると、急に眼を見開いた。何か言いたそうだ。でも何を言ったらいいのかわからない。そんな風だった。


「ど、どうしたの、高井さん?」

「お夕食は、食べた?」

「う、うん。食べたけど」

「そっか。そうだよね」


 どうしたのだろう。田吾作に対して、初めて見せる態度だった。目をしばたかせており、慌てている様子が伺えた。


「これで、親切ができましゅたか?」


 なんだっけ。何をしてくれって頼んだんだっけか。そうだ。惚れさせてくれ、と冗談交じりに言ったんだ。

 しかし、そんなことが、本当に起き得るのか。


「何か、して欲しいことがあったら、なんでも言ってね」


 今ならもしかして?

 六回目の告白をしてみるか?

 言おう。言ってみよう。なんでも言ってねって言ってるし。


 浅い呼吸を繰り返した。このままだと過呼吸に陥りそうだ。一度、震えるように深呼吸をした。大丈夫だ。頼みを口にするだけだ。


「つ、付きあ」

「いいよ」


 予想していた断りの五文字ではなく、承諾の三文字が聞こえていた。いいよ。本当に?


「本当に?」

「うん。他には? 何かない?」

「えと、えっと、じゃあ、よろしくの、握手を」

「うん」


 高井から手を取られた。少しひんやりとした小さな手。柔らかくもすべすべした肌。どれくらいの力加減で握り返せばいいのか、田吾作には分からない。壊れてしまわぬよう、優しく握った。高井の握る力を感じる。それだけで、ひどく興奮を覚えてきた。これが、高井の手。女の子の手。


「じゃあ、明日、学校でね」

「う、うん」


 手を振りながら去っていく高井を、田吾作は見送った。しばらく動けなかった。放心したかのようになっていたのだ。


「みろんこっとは、親切をできましゅたか?」

「わかんねえ」


 夢でも見ていたのではないか。その思いを拭えなかった。


 夢は続いていた。翌日の高井は、田吾作の恋人だったのだ。

 朝は笑顔で挨拶をされ、休み時間は一緒に過ごした。昼食も一緒にとった。眼が合うと、微笑みを向けてくれる。

 校内で噂はすぐに広まり、田吾作は注目を集めた。なんであいつが? そう思われているだろうが、それが気にならないくらい、田吾作は舞い上がっていた。


「すげーよ、姉ちゃん」


 家に帰ると、みろんこっとに伝えた。


「親切になりましゅたか?」

「なったよ。すげー催眠だよ」

「催眠じゃないでしゅ。記憶術でしゅ」


 催眠としか思えないけれど、田吾作にとっては、どっちでもよかった。高井が恋人になった。その関係性は、彼女となんでもできる免罪符だ。


 手をつなぐのは、当たり前になった。慣れると呼吸も落ち着いた。これが現実に起きていることだと、少しずつ受け入れることができてきた。

 三日目には、名前で呼び合うようになった。


「田吾作君、今日はどこにいく?」

「綾は、どこにいきたい?」

「田吾作君と一緒なら、わたしはどこでもいいよ」


 綾は、頼めばなんでもしてくれる。一緒の登下校をしてくれる。一緒に勉強をすることもあった。髪型のリクエストをすると、その髪型にしてもくれた。他の同級生がいくら見ていても、当然のように寄り添ってくれる。

 日毎に関係は深まっていった。キスもした。望めばそれ以上だって……。


 絶頂の日々は続いた。しかし、田吾作の気持ちは長く続かなかった。慣れてきたせいか、少しずつマンネリを感じてきたのだ。もっと率直に言えば、綾に飽きてきた。


 ある日、姉のみろんこっとを交えて、ファミリーレストランで食事をした。

 みろんこっとは、お子様ランチを目の前に、目を輝かせていた。相変わらずの赤ずきんちゃん的な格好だ。テーブル席に座っているが、地に足が届かないような身長なため、足をブラブラさせてもいた。


「お姉さんは、何歳なんですか?」


 綾が聞いた。何歳だったか。田吾作は思い出せなかった。


「みろんこっとは、はっ……、二十八歳でしゅ」

「とてもお若く見えます。すごいです」


 八歳と言われても違和感がない容姿だ。アラサーだったのか。


「お姉さん、わたしのリンゴ、食べますか?」

「食べましゅ」


 綾が自分のリンゴを、みろんこっとに分け与えた。パフェの中に入っていたリンゴだ。


「お姉さんにはお礼を言いたかったんです。お姉さんのおまじないのおかげで、最近は毎日が充実しています。ありがとうございました」

「そうでしゅか。それは良かったでしゅ」


 そうだった。今の状況は、綾に催眠をかけた結果だった。侮りがたし、催眠の力。いつまでも続くのだろうか。他の人にもかけられるのだろうか。


「あのおまじないは、いつでもできるんですか?」

「できましゅ。たかいしゃんには、親切のお返しでやりましゅた」

「また、やってもらうことは、できますか?」

「いいでしゅよ。りんごのお返しにやってあげましゅ」


 ん? 何をやるって?


「最近、田吾作君が元気ないんです。だから、同じおまじないをかけてあげて欲しくて」

「いいでしゅよ。たかいしゃんに、惚れさせればいいんでしゅね」

「惚れさせる、ですか?」

「でしゅ。なんでもしてあげたくなるように、たごしゃくにおまじないをすれば、いいんでしゅよね?」


 ただ聞いているうちに、変な話になってきた。同時に嫌な予感も募ってきた。


「待ってくれよ。俺は綾に惚れてるから、今さらそんなの必要ねーよ」

「だって、最近の田吾作君は、あまり楽しくなさそうだし」

「楽しいって」


 よく見られている。確かに楽しさはなくなっていた。でも、綾との関係を、終わりにしたいわけでもない。良い女なので、連れていると優越感に浸れる。


「本当に必要ないか、試してみない? もしかしたら、もっと楽しくなるかもだよ。楽しくなりたくない?」

「なりたいけど」

「うん。じゃあ、やってみよう?」

「おう……」


 流れで承諾することになってしまった。


 催眠をかけられると、どうなってしまうのだろう。確かに楽しくなるかもしれない。だけどそれは、田吾作の本当の気持ちではない。あくまで催眠の結果だ。


「では、やりましゅね」

「そうだ、お姉さん。惚れることは、なんでもしてあげたくなることじゃ、ないと思います」

「なら、なんなのでしゅか?」

「相手を大切に思いやる気持ちを持つことです」

「では、そうしましゅ」


 その言い換えは、何が違うんだ。大丈夫だろうか。大丈夫のはずだ。


 みろんこっとが隣に移動してきた。隣同士に座る形なので、しゃがむ必要もなさそうだ。


「では、たかいしゃんのことを考えてくだしゃい、たごしゃく」

「おう」


 目を閉じた。

 綾のこと……。過去の綾に対する気持ちは思い出せない。今思い浮かぶのは、唇の感触や肌の柔らかさ、輪郭だった。


 光を抜かれた。光がみろんこっとの額を経由し、また戻されてきた。世界が白くなった。すぐに色が戻ってくる。元に戻った。


「終わりましゅた」

「田吾作君。どう?」

「いや、別に。綾が大切なのは、変わっていないよ。愛してる」


 何も起きなかった。大切な人は、大切な人だ。その想いが変わるなど、あるはずがない。

 と当然のように思ったが、綾は少し驚いたような表情をしていた。


「嬉しい。はじめて言ってくれた……」


 そうか。当然のように思っていても、口に出したり行動しないと、相手には伝わらない。そんな簡単なことを忘れていたようだ。

 綾を大事にしたい。この気持ちは元々あったから、催眠で芽生えた気持ちではない。催眠などで操られたりはしない。

 俺だったから良かったが、他の人が催眠で操られたら大変だった。田吾作はそう思うと同時に、ふと気がついた。大切な綾に催眠をかけてしまっていることに。愕然とした。なんてことをしてしまったのだ、と。


「田吾作君。顔色が悪いけど、大丈夫?」

「綾、ごめん。俺は君に、催眠をかけてしまった」

「え? おまじないでしょ?」

「おまじないは、記憶術でしゅ。記憶を変えたんでしゅ」


 言ったみろんこっとは、残っていたリンゴを、口に頬張った。賢明に咀嚼しようとしている。

 この姉に催眠術をかけてもらった。信じがたいことだが、綾の態度が著しく好意的になり、良好な関係を築くきっかけとなったのだ。それは綾の気持ちを捻じ曲げる卑劣な行いだ。綾の優しい心を無視している。

 考えれば考えるほど、間違えたことをしてしまった、と思えてきた。

 今からでも、この間違いを正したい。


「姉ちゃん。綾の催眠を解除して欲しい」

「だから、記憶術でしゅ」

「なんでもいいから」

「何日も前の記憶でしゅ。あんまり覚えてないでしゅ」


 催眠を解除するのに、覚えてるとか関係ないだろうと思ったが、なんとかやる気になってもらう必要がある。

 田吾作は手を合わせた。


「なんとか頼むよ」


 綾は、事態を飲み込めていないようだった。自分が催眠をかけられているなど、思いもしていないだろう。心の優しい子だから。


「弟の頼みなら仕方ないでしゅね。気持ちは少し覚えてるでしゅ。その気持ちを戻すでしゅ」

「ありがとう」


 みろんこっとがまた移動し、綾と向き合った。


「おまじないを終わりにしましゅね」

「え、嫌です」


 みろんこっとから離れようとする綾。その手を握り、逃げないようにした。


「田吾作君」

「大丈夫だから。元に戻るだけだから」

「嫌だよ」

「やってくれ、姉ちゃん」


 タクトが綾に触れた。涙ぐむ綾。

 ごめん。でも、ほんの少しの間だから。

 光を受けたみろんこっとが、困った顔をする。再び光ったタクトの先端が、綾の額に戻る。すると、光を失っていた綾の瞳に、色が戻っていった。見る見るうちに蒼白な顔色になった。


「どうして、ひどい」


 どんな心境なのかは、想像するしかなかった。これまでの関係を思い返しているのだろうか。それとも、今の状況を飲み込めていないのだろうか。


「綾、ごめん。俺が悪かった」


 そう言った瞬間、乾いた音が響いた。頬の痛みが遅れてやってきている。

 握っていた手は振りほどかれた。


「名前で呼ばないで」

「あ、そっか。分かったよ、高井さん」


 大事な人から向けられたのは、軽蔑の眼差しだった。その視線は心に刺さり、忘れられなくなりそうだ。


「お姉さん。わたしがお願いしたおまじないも、解除して下さい」

「いいんでしゅか?」

「はい」


 タクトが当てられ、みろんこっとを経由して光が戻ってくると、世界の色が戻った。同時に、状況が飲み込めてきた。全てが終わってしまった。そう思った。


「これは、何かの間違いで」

「最低。二度と話しかけないで」

「あ、いや、ちょっと待って」

「近づかないで。今度関わったら、人に言うから」


 綾は帰ってしまった。静かにだが、怒っていたと思う。涙も湛えていた。

 バレてしまった。もう少しだけうまくやれば、お互いに良い気分でいれたはずだ。綾は、田吾作の言うことを聞くことで、多幸感を得れた。田吾作にとっては、都合の良い女だった。


 今の田吾作には、選択肢が二つある。なんとかして、もう一度催眠をかけるか、次の相手を見つけるかだ。


「たごしゃく。みろんこっとも、行きましゅ。次の勉強に向かいましゅ」

「え、どういうこと?」

「お別れでしゅ」

「お別れって、姉ちゃん何言ってるの?」


 家出でもしようって言うのか。それは困る。もう一回催眠してもらわないと、困ってしまう。


「お世話になりましゅた。いっぱいの勉強になりましゅた」

「いやいや、何言ってるの。冗談でしょ」

「本当でしゅ。親切のお返しも終わりましゅたし」

「終わってないよ。もう一回」


 詰め寄ろうとすると、タクトが額に当たった。


「最後に、みろんこっとを()くしてくだしゃい。お母しゃんとの約束でしゅから」

「姉ちゃん」

「たかいしゃんからも失くさないと。急ぐでしゅ」

「待って」


 世界が白く光った。


 気がつけば、一人でそこにいた。何かを掴もうとしたのか、腕を前に伸ばしていた。何をやっていたのだろう。


 ここはレストランだ。改めて確認する。綾と二人で食べていたはずだった。それなのに、今は自分しかいない。

 卓上には、空のお子様ランチプレートがあった。綾が食べたのだろうか。


 入り口の自動ドアが開く入退店の音がした。幼女の出ていく姿が、ちらりと見えた。何を考えるでもなく、遠ざかる幼女をなんとなく眺めた。


(『好きな子に催眠をかけたが結局』 完)


 読了、お疲れ様です。

 お読み頂いた方の中には、自分だったらこうする。といった考えがあるかと思います。もっと凝った記憶にするとか、そもそも最初からそんなことをしないとか。

 良かったら、一言でもご感想を頂ければと思います。


 他の作品も書いておりますので、そちらもご覧頂ければ、恐悦至極でございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  とても読みやすい作品でした。  描写も丁寧で、クオリティーが高い作品だと思います。  キャラクター達も特徴的で、魅力的に感じました。 [一言]  あとがきにある他の作品とは、どのような…
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