分かっていた、さようなら
異世界・恋愛
過去の話を少し修正しただけのよくわからない作品です。
*
別れる恋人のはなし。
「婚約者が、できたんだ」
俯いて感情を見せないようにしている彼を、私は横目で見ていた。
いつも待ち合わせていた森の小広場。ここまでの道のりは意外と険しくて、来る人なんてほとんどいない。だからこの場所には、私と、彼だけ。
くだらないことを話すだけで幸せだった二人掛けのベンチには、冬が近いから少し冷たい風が吹いていた。
「そっ、か」
知っていたはずなのに、いつかはと覚悟していたはずなのに、私の口から出た言葉はひどく弱弱しくて、掠れていた。
「…そう、なのね」
上を見上げると、澄み渡る秋晴れの空が紅葉した木々の背景として青々と彩っていた。それがぼやけて見えるのは私の気のせいだろうか。
どうしよう。ベンチの上でつないだ手が、震えそうだ。
でも、言わなくちゃ。
こうなると、知っていたんだから。
「―――ねぇ、ドゥシャン、」
私は意を決して彼の名を呼んだ。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
私とドゥシャンが出会ったのは二年前。
成人した私のお祝いに、と近所の幼馴染たちと一緒にお酒を飲んでいた時だった。
小さい時から一緒にいる腐れ縁の彼らはここぞとばかりに羽目を外して、お酒を水のようにがぶがぶと飲んでいた。私のお祝いなのに酔いつぶれた後は私が面倒見ることになるかな、と私は苦笑していた。でも、彼らが誰よりも祝ってくれているのがわかってなんだかんだ言っても嬉しさのほうが勝っていた。
そんな時だった。
幼馴染の一人が、急に立ち上がってたどたどしい足取りで近くのカウンターへと歩き始めた。そして、そこで一人寂しくお酒を煽っていた青年に酔っぱらいのノリで話しかける。
「おにーぃさんっ! こんな日にひとりなのぉ?」
彼女の名誉のために言っておくが、彼女は普段はお茶目だけど比較的おとなしい性格だ。決してこういう風に娼婦のように気軽に話しかけたりしない。素面だったら真っ赤で無理だよぉ! とあわあわしてしまうだろう。
でもお酒の力というのはすごい。大ジョッキを持った彼女は幼馴染の私たちでも見たこともない色気を醸し出しながらロンリーな彼に話しかけていた。
青年は話しかけられていることに気づいたようで、グラスを置くとにこりと笑った。
「お嬢さん、そんな薄着ですと風邪をひきますよ」
明らかに酔っぱらいの絡みだとわかる彼女に答えた彼のセリフは予想外だった。そんな真面目に返す人なんてどれくらいいるのだろう。慣れた人だったら茶化したり、そうじゃない人だったら戸惑ったり。娼婦だと思われて連れていかれそうになったら止めるつもりだったけれど、ほかの幼馴染たちはこの予想外の言葉にぽかんとしていた。
話しかけた当の彼女は、青年のその笑いかける表情は柔らかくて、それ以上に彼の銀髪碧眼と整った容姿に彼女は驚いて一瞬で酔いがさめてしまったようだった。さっきとは違う意味で顔を赤く染めて、はだけた胸元をいそいそと隠した。
「あ、ありがとうございますっ」
恥じらう彼女はお礼の後にすみませんでしたぁ! と勢いよく頭を下げて、そのままの状態で私たちに視線で救援を送った。瞳がウルウルとしているから、思い出した自分の行動に相当参っているのだろう。
彼は彼女の見ている先が私たちのほうへ向いているのがわかったようで、こちらをみた。
パチリ、と目があう。
「すみません。少し酔いが過ぎたみたいで」
目が合ったついでに私は彼女を迎えに行った。
変わらず頭を下げた状態でふるふると震えだしたから行かないわけにはいかない。さっきまで面白そうだからと傍観していたけど、私は彼女をいじめたいわけではないのだ。
私が声をかけると、彼は優し気に笑った。
「いえ、こういう場所ですからね。羽目を外してしまう人もいるでしょう」
大人な対応ってこういうことを言うんだな、と心の奥で思う。見た目は同じ年くらいだけれど、もっと年上なのかな?
でもこれ以上迷惑かけるわけにはいかないから、私はもう一度軽く頭を下げてその場を去ることにした。手をつないでいる顔を真っ赤なままの幼馴染が震えが大きくなったからだ。
だけど、青年は去る私たちに待ったをかけた。
「今日は、何か特別な日なのですか?」
どうやら幼馴染が最初に『こんな日』と言ったのが気になったようだった。隠す理由もないので、正直に答えた。
「私の、成人祝いなんです」
「それはめでたいですね」
初対面にもかかわらず、彼はおめでとう、と私に笑いかけた。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。初対面といえど誰かに祝われるのは嬉しいものだ。なんだか少し照れる。
すると、私の横でぷるぷるしていた幼馴染が急にガバリと顔を上げた。その表情は決意を固めた風に見えた。
「あ、あああにょっ!」
思いっきり嚙んで、あっ…! とゆでだこのようにまた真っ赤になる。
「え、えーっと、ここで会えたのもにゃにかの縁です! い、いいいっしょに、の、飲みませんかっ!?」
もう噛み噛みなのも気にならないくらい勢いよく頭を下げた彼女に、彼はクスリと笑った。そして、いいですよ、とグラスを持って私たちのテーブルに混ざったのだった。
それから一緒にいたのはたぶん鐘一つ分くらい。
初めて会うというのにそうとは思えないくらい仲良くなって、私たちは解散した。
それが、ドゥシャンとの出会いだった。
それから彼と再会したのは数日後だった。私は連絡先を聞いたわけではなかったので、仕事の合間にばったりと道端で出会ったのだ。
「ハヴェル」
ハヴェルとは彼が最初に私たちに名乗っていた偽名だ。本名を聞いたときはかすってもいなかったから驚いた。似ていたら意味がないだろうと笑われたのだけれど。
彼は酒場で出会った日とは違ってマントを深くかぶっていた。それでなんでわかったかというと、仕事柄というか、背格好が何となく似てると思ったから。普通はわからないと思う。
だから彼は驚いたようだった。
「……よく、僕だとわかったね」
お酒を飲んで仲良くなったことでもう私たちは気安い話し方になっていた。
驚く彼に私はふふっ、と笑いかけた。
「身長と、それから体格とかがね。私、針子をしているの。そのせいかつい癖で人の体型をすぐ見ちゃうのよね」
だからそうじゃないかと思ったの、と続けると、苦笑された。
君には何に変装しても見破られそうだ、って。
「そんなことないわ。服を着こんだりして見かけは変えることができるもの」
「でも体型がわからないマントを着ても分かっただろう?」
「それは、歩いているときと、あとは手を動かしたときのマントの動きでなんとなくこれくらいかと思っただけよ。今回は偶々だわ」
私の言い分に彼はまた苦笑いをした。でも、同じ針子の母や姉たちもこれくらいは普通にやってのけると思うから、おかしくないんじゃないかしら?
そう思っていると、彼は私の持っているものに気付いたようだった。
「それは?」
と私の持っている大きな籠を指さす。ちょうど同じような話題が出たので、私は被せていた布を取って中を見せた。
「これは仕事道具よ。お使いを頼まれたの」
籠の中には色とりどりのレースのリボンが並べられている。
私の家は女が針子をして、男が売り込むという商いを代々している。そんなに大きなお店じゃないけれど、下級貴族の顧客だっている。母の作るドレスは最近ジワリと人気が出てきているらしい。
今回のお使いもそのドレスについてだ。母がドレスにいろんなレースのリボンをつけたいと言い出し、急きょ買いに出ることになったのだ。下働きに行かせることもあるけれど、これは目を養うためだと言って母は私をお使いに指名した。今はその帰りだった。
「もう少しで夏季の社交が始まるでしょう? そのためのドレスの発注が沢山なのよ。これもそのうちの一つ」
へぇ、と言って彼はリボンを眺めていた。
「今年は縁に白いレースをつけるのが流行なんですって。冬季の社交で侯爵夫人様がその発信源らしいわよ」
「そうなんだ。さすがだね」
何か知ったような口ぶりに私は首を傾げた。
「知っているの?」
「えっ?」
「だって、ハヴェルってところどころの所作が平民にしては丁寧だったから、いいところの商人の息子だと思って」
「いや、噂を聞いた程度だよ」
曖昧に笑う彼に、私はそれ以上追及しなかった。誰しも知られたくないことの一つや二つはあるものだ。
―――ちょうどタイミングを合わせたように時間を知らせる鐘が鳴った。
「そろそろ行かないと。母が心配してしまうわ」
彼も何か約束があるようで、その時はそのまま別れた。
こうして何度か、私はドゥシャンと会うことがあった。
全部が偶然だったかはわからないけれど、少なくとも私にとってはそうだった。
大抵が仕事の合間で、時間はいつも短かったけれど、いつの日か私は彼と会えるのを楽しみにしていた。少し面倒だったお使いも自分から率先して出かけるようになったくらいだ。でも、彼とは待ち合わせしているわけでもなかったし、いつも会えるわけでもなかった。私はそのたびになぜかがっかりしてた。
「それって、恋だよっ!」
幼馴染が私の心境を聞いて叫んだ。
彼女はあのあと噛み噛みになりながら彼を誘ってみたのだけれど、断られてしまってそれっきりらしい。今はもう一人の幼馴染といつの間にか恋仲になっていた。二人の間に何があったのやら。
「うーん、そうかしら」
私は自分の気持ちがわからなくて、視線をそらしてお茶を啜った。
「そうそう! それにハヴェルとそんなによく会うだなんて、きっとむこうも同じ気持ちだよ!」
「でも、偶然会うだけよ?」
「偶然がそう多く続いたら、それは偶然とは言わないよ。絶対にハヴェルが待ってるって」
そういわれて思い出すと、確かに私が話しかけたのはマント姿の彼を見破った時だけで、あとは彼から話しかけてくれていた。もしかして、本当に待っててくれたのかな――?
「じゃあ、次はお茶にでも誘ってみなよ! ハヴェルってかっこいいし、絶対にいいところのお坊ちゃんだから玉の輿だよ!」
「うーん…」
幼馴染の話を聞いても、私はそうね! と楽観的に考えることはなかった。そもそも玉の輿なんて狙ってないし、私は結婚をする気もなかったからだ。恋愛なんてほど遠いものだと思ってた。
でももっと、―――もう少しだけでもいいから、話せたらいいなと思った。
その気持ちを幼馴染に言うと、目をキラキラしてきゃぁぁっ! と叫ばれた。
結果から言うと、私は幼馴染にごり押しされて誘うことにした。
彼は少し難しい顔をした後、自分も話したいことがあるからとそれを了承してくれた。
場所はどこかのカフェとかにしようと思ったのだけれど、彼がどこか人が少ないところがいいといったので、私は近所の人でもあまり行かないような森の小広場につれていった。
なぜか彼の表情はまだ硬いままだった。
「ここね、昔よく遊んだところなのよ」
久しぶりに来たので、懐かしい気分になって私は小走りでその小さな広場を駆けた。
「それで、話って?」
誘ったのは私なのに先にこう聞くのはおかしいだろうか?
でも、彼は道中ずっと心ここにあらずといった感じだった。きっと話は重大なことに違いない。
彼は私の方に手を伸ばしかけて、それをピタリとやめて目を逸らした。
「―――ごめん」
何に対する謝罪かわからなかった。でも私まで届かなかった手は彼の胸の前にあって、マントの皴から握るその拳にとても力が入っていることが分かった。苦しい、のだろうか。
「私、謝られるようなことされた覚えないわ」
首を傾げると、彼はふるふると首を振った。
「ううん。ずっと、騙していた」
ずっと、と。
その言葉は小さかったけれど、私たちしかいない広場では簡単に拾えた。
「僕は本当はハヴェルじゃない。商人の息子でもない。それに君に会う資格も、ない。もう、会えない」
喉に突っかかっていた言葉を吐き出すように端正な顔を歪めた彼は、辛そうだった。
「ごめん……」
もう一度謝る彼に私は事情を聴いた。
彼は本当はとある貴族の跡取りで、訳あって私たちの町にいること。
私はゆっくり話す彼の言葉に頷くが、どうにも疑問があった。自分のことはちゃんと話しても、触れてくれなかったさっき言った言葉の意味。
「でもそれじゃあ、私に会う資格という話には繋がらないわ」
「それは…っ」
敢えて言わないようにしていたのだろう。彼を見上げると、すぐに視線を逸らされた。―――何なのだというのか。
私だって本当は、この場から逃げ出したい気分だ。だってこれが、……この気持ちが、幼馴染が言っていた恋だというのならば、会いたくないということは私は振られてしまったのだろうか。
そう思うと胸の奥が苦しくて仕方がなかった。息もだんだん浅くなっていく気がした。やっぱり、私は彼が好きだったのだ。恋なんてしないと、家族に迷惑をかけたくないからと気づかないようにしていたけれど、好きだ。彼が、大好きなんだ。
ああ、こんな時に気づくなんて―――……
「―――好きなんだ」
「…えっ?」
まるで私の頭の中の言葉を彼が代弁したようで、何を言われたかわからなくて、一瞬思考が止まった。
「好きに、なってしまったんだ。―――君を」
最初の言葉は目をそらしたまま。だけれど、次の言葉は真っすぐと私を見て。
彼の頬は赤く染まっていて、青空を写し取ったような瞳は揺れていた。
胸が、温かくなる。
「だけど、僕は貴族だ。いずれは貴族の誰かと結婚しなくてはいけない。だから、もう、もう―――……」
そこで言葉を切ってまた地面を見つめた彼を、私はただ呆然として見つめるだけだった。
その言葉のあとに続くのは、会えない、だろうか。
もう彼とは一緒にいれないのだろうか。
ああ、胸が苦しい。
「―――私も、好きよ」
このぐちゃぐちゃした胸の内を言葉にしようとして、私の口から零れたのがこれだった。もう会えないならと思うと言わずにはいられなかった。
彼の驚いた顔が目に入る。
「いつからだったかわからない。でも、私はいつの日か貴方が話しかけてくれることを待っていたの」
言葉をつづけても彼の表情は未だ固まったままで、私は少し笑って彼の体を少し押し、後ろにあった椅子に座らせた。身長差はそこそこあるし、彼は体を鍛えているようだから普通だったらこう簡単にはいかないと思う。でも、いとも簡単に座らすことができた。それだけで彼の驚きようがよく伝わってきた。
「私、人をこういう風に好きになることなんて、ないと思っていた。それは家族のためにも、私のためにも」
綺麗な青の目を見開いたままの彼の頬に手をやる。彼が座っているから、その瞳は私を見上げていた。
そういえば、こういう風に触れるのは初めてかもしれない。でも今は彼を近くに感じたかった。この心の中に湧き出る想いを少しでも伝えたかった。
「好きになるのって、自分で思ったよりも唐突なのね」
好きよ、ともう一度言う。
そして彼の額に唇を落とした。
びくり、と彼の体が強張り、澄んだ海のような瞳が揺れる。
「―――リタ」
戸惑ったような震えた声。でも、歓喜がそれには含んでいた。
「好きだ。好きだ。好きなんだ。―――君を、愛しているんだっ」
気が付いたときには手を引かれ、私は彼の胸に収まっていた。そして、強く抱きしめられる。
「でも、でも…っ、僕はいつか違う人と結婚することが決まっている! 貴族に生まれた以上これは義務なんだ。僕は君と一緒にいたい! だがそれは絶対に、絶対に、出来ないんだっ!」
私を抱き締める彼の腕は段々と強くなっていった。それはまるで離さない、と言っているかのようだった。私も、彼のもとを離れたくなかった。彼の胸に頬を擦りつけると、自然と耳も当たり、ドクドクと早い鼓動が伝わってきた。まるで彼の胸の中が本来の自分のいるべき場所のような気がした。
でも、でも―――……
「―――ねぇ、ハヴェル」
「ドゥシャンと呼んでくれ」
まるでどこかのハヴェルさんに嫉妬するかのように拗ねた言い方に私はふふふと笑ってしまった。ドゥシャンと言い直すと、また腕の力が強まった。彼がいかに私を愛しているか伝わって、これからいう言葉に、ズルい自分にちくりと胸が痛くなった。
「今の幸せだけでは、ダメ?」
「どういうこと……?」
「貴方は将来のことを考えているけれど、私は今の幸せさえあればいいの」
だからね、と彼を見上げた。
こんなに顔が近くにあるのは初めてだ。元々綺麗な顔立ちをしていると思っていたけれど、至近距離だと猶更そう思った。睫毛がこんなに長いなんて。
「―――今だけでもこうして一緒に幸せでいましょう」
ハヴェルは私の言葉に目を見開いた。
きっと私の言った言葉の本当の意味が分かったのだろう。
今だけ。
つまりは将来は一緒ではないこと。
いつかは別れが来るということ。
彼は一瞬顔を歪めると、一度ぎゅっと目を閉じて優しく微笑んだ。
「―――ああ、愛しているよ」
そう返事をさせたのは自分だというのに、彼の優しさが無性に恨めしかった。
それから二年の月日を、私はドゥシャンとともにした。
彼は町はずれの貴族の別荘に住んでいて、私たちは度々そこで逢瀬を重ねた。
もちろん幼馴染たちには恋人として紹介した。その時の彼らの顔はやっと私にも春が来たのかとまるで親のように感動していた。確かに昔から浮いた話一つもなかったけれど、そんなに心配されていたなんて。過去一度も恋人がいたことがないことにドゥシャンが満面の笑みを浮かべていたことが印象的だった。
彼は貴族のあれこれがあるからと少し街を空けることもあったけれど、それでもほとんどは私と過ごした。
朝起きて横で眠るドゥシャンにキスをすると、普段は重い瞼を軽やかに開けてはにんまりと笑ってお返しをくれる。私が得意でもない料理を朝ご飯に振舞うと、どのシェフよりも上手だと言ってぺろりと食べてしまった。それから私が仕事を終えるまでは一緒ではないけれど、いつも就業の時間には迎えに来てくれた。私の両親や兄姉はからかいながら私を見送ってくれて、二人で手を繋いで彼の家まで帰った。歩く最中、他愛のない話をした。今日の仕事の進捗。近所に子供が生まれたこと。今年の果物は豊作なこと。今日の天気。
何気ないことばかりだった。
けれど、それが、その時間だけが、本当に、本当に、幸せだった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「―――私、幸せだったわ」
にこりと笑うことはできたけれど、声が震えていないか心配だ。
いつかはこの日が来ると思っていた。だから覚悟していた。ドゥシャンにお別れを言う、と。
私の言葉を聞いて、ドゥシャンは顔を歪めてた。端正な顔が、今にも泣きそうなくらいくしゃりと形を変えている。
「……………俺もだよ」
彼は息を呑むと、何秒も、もしかしたら何十秒もかかっているかもしれない。それくらいの時をかけてから返事をした。それは、いつもとは打って変わって弱々しいものだった。ドゥシャンの目元にはもう涙がたまっていて、私もつられて泣きそうになった。
枯葉が風に攫われて地を擦る音が、やけに耳障りだった。
―――でも、これはどうにもならないことだ。
彼はこの先この国の未来を担う存在になる。この結婚だってそのために必要なことだ。私みたいな一平民が介入していいことではない。彼だってわかっているはずだ。これが、この国のために、最善だと。
「きっと君は僕とのことを、思い出にしてしまうのだろうね」
君は強いから、とドゥシャンは言った。
彼を見上げると、空を向いていて、いつの間にか伝っていた涙がとても綺麗だった。遠くを見つめるその表情は、もう未来を見ているのだろうか。私のいない、未来を。
「―――ええ、そうかもしれないわ」
いつもと変わらぬ声調で言えたのは、何度も何度も練習したお陰だ。彼に何を言われても、大丈夫なように。
「私たちの二年は、日々の中でやがて思い出になるわ。そしていつか誰かと話すの。こういうことがあったわねって。
けれど、一生忘れないわ。貴方と過ごした、幸せな日々を」
そういうと、私は立ち上がった。
二人で決めていた。―――いつかどんな理由であれ別れが来たときは、二人で笑おう、と。
だから私はさっきから笑みを絶やさなかった。それがどんなに不格好であっても。
「―――さようなら」
最後は、満面の笑みを見せようと思ったのに、もう私は未練はないと伝えるために笑って見せようと思ったのに、私は振り向くことができなかった。
だって、もう、耐えられそうにないから。
それを悟られたくなくて、私はその場所を後にした。リタ! と叫ぶ彼の声を無視して。
私は走った。
町ではなく、森の奥へ。
今は一人になりたかった。誰にもこんな惨めな姿を見られたくなかった。
走って走って走って、行きついた先は森の中の小さな泉だった。
ここには何度かドゥシャンとピクニックに来た。穏やかな時間を二人で過ごした。けれど、もう、彼はいない。
泉を覗き込むと、みっともない私の顔があった。
涙を溜めて、唇を噛んで、言いたいことも言えない悔しい顔。
「あぁ…、あああ………」
我慢していた涙が流れる。
ずっと強がってきた。彼の前でも。
本当は別れたくなかった。彼と一緒にいたかった。ずっと、ずっと。
きっと彼がついてきてと言ってくれたら私はその手を取った。
けれど、私はその余地さえ与えなかった。
だって、だって、怖いから。
私の母は貴族の妾になって、捨てられた。あんなに愛されていたのに、捨てられた。
きっと私もそうなってしまうのではないかと怖かった。
愛に永遠なんてないことを知っているから。
ドゥシャン、ドゥシャンっ、ドゥシャン……っ!!!
愛してるの。
だけど、私は臆病なの。
ごめんなさい、ごめんなさい………。
それから、私は一生誰かを愛することはなかった。
ずっと彼だけを愛し続けた。
皮肉にも愛に永遠があるのだと、自分で証明した。
愛しているわ、ドゥシャン。
過去の自分が何が書きたかったのか思い出せない大問題。