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あまりに短かったので続きも投下、なのです。
広大な魔の森に、一際大きな木が森の中央にそびえ立っている。周囲の木々よりも遙かに大きく、幹の太さは小さな家ほどもある。この木を見た人間の多くは、その巨大さに畏怖を抱くだろう。
だが一部の人間、特に魔法に精通している者なら、この木が他と明らかに違うことが分かるはずだ。強い魔力を宿していることに気がつくはずだ。さらに魔法の深淵に触れている者ならば、この木が自然のものではなく、魔法で作られているものだと知ることができるだろう。
その巨大な木には、根元に大きな穴がぽっかりと空いている。人一人が簡単に通れるほどの大きさで、その中の空間もしっかりと見ることができる。何もない、ただ広いだけの空間を。しかしそれは外から見た限りであり、実際は違う。
巨木の中は、生活空間だ。穴の反対側に梯子があり、三階建ての中を行き来できる。一階は果物や干し肉が、適当に並べられたテーブルに載せられている。
その部屋の中央に、その少年はいた。白の短い髪に黒い瞳の少年で、干し肉をゆっくり噛みながら、静かに目を閉じている。
「かかった……」
少年はそう零すと、食べかけの干し肉を口の中に放り込み、テーブルに置いてあったナイフを持って外に出た。そして森の中を走り抜け、程なく目的地にたどり着く。少年の目の前には、罠にかかって逆さづりになった小動物。白い毛皮に覆われた小さな丸い動物だ。
「ごめん」
少年は小動物に小声で謝り、その命を絶った。
その異変に気がついたのは、小動物の解体を終えて調理を始めた時だった。新鮮な肉というご馳走を前にして邪魔な気配を感じて、少年は不愉快そうに眉をひそめた。
――ご飯……。
少年が残念そうに心の中でつぶやく。本来ならそれだけで終わるはずの心の声に、しかし少年の場合は返事がある。
――食べられないわけじゃないんだ。先に調べに行こう。
――後で食えばいいだろう。調べに行くぞ。
少年の心の声に応える声。少年の体に封じ込められた、少年とは別の魂の声だ。
――さあ、行こう。ハル。
――さっさと動け。ハル。
ハルと呼ばれた少年は、ため息をつくとその場を後にした。
ハルが感じた気配。それは、魔の森には存在しない種類の魔獣の気配だ。そういったことがあった場合、ほとんどが森の外から来た者が関わっていることが多い。そういった輩とは基本的には関わらないようにしているが、全く別の要因の何かが原因なら対応しなければならないので、面倒でも確認はする必要がある。
そして、ハルはそれを見た。初めて見る魔獣に、少女が追いかけられている場面を。
どうするべきか、とハルは考える。人同士のくだらない争いに関わるつもりはない。それを考えれば、あの少女は見捨てるべきなのだろう。あの魔獣がどういった存在か分からないが、見境なく暴れなければ放置しておけばいい。
ハルは目の前の光景を見なかったことにしようと背を向けたところで、
――待って、ハル。
その声に、ハルは動きを止めた。
――なに?
――彼女を助けてほしい。
ハルが首を傾げる。いつもなら、同じようなことがあれば手出しをしないことになっている。それを勧めてきたのは、他でもないこの声たちだ。それが何故今更、と不思議に思っていると、声は少し言いにくそうな声音で説明をする。
――大した理由はないんだ。それでも、あの子だけは見捨てたくない。
――そうなの?
――うん。貸しにしてくれてもいいから、お願いできないかな?
それを聞いたハルは、思わず苦笑してしまった。何を今更、と思う。ハルは天涯孤独の身であり、この声たちがなければ今まで生きていくことはできなかった。貸しなど言い始めれば、ハルはずっと借りっぱなしだ。
――水くさいよ、アーク。アークのお願いなら、何でも聞いてあげる。
――何でも、は逆に困るんだけど……。でも、今回はその言葉に甘えるよ。よろしく。
ハルにアークと呼ばれた声には、わずかに困惑の色が含まれていた。どうしてそんな反応になるのか不思議に思いながらも、ハルはもう一度視線を少女と魔獣へと移す。ちょうどその時に、少女が転倒した。
――俺の力はいるか?
もう一つの声に、
――大丈夫。また今度お願い、ヴォイド。
首を振って答え、ハルが木から飛び降りる。残念だ、とヴォイドと呼ばれた声は、言葉とは逆に楽しげに笑っていた。
少女と魔獣に間にハルが飛び降りると、魔獣が驚きからか一瞬体の動きを止めた。その隙を逃さず、ハルはナイフを抜くと魔獣の首を切り裂く、魔獣の体から血が噴き出し、ハルの体を真っ赤に染めた。
血に汚れたことをハルは気にしない。少し臭くなる、あとで川にでも行こう、程度にしか考えない。魔獣が倒れて身動きしないことを確認してから、小さく安堵の吐息を漏らした。
「え……?」
小さな、呆然としたような声が聞こえてくる。ハルは振り返ると、襲われた少女を視界に捉えた。
綺麗な金色の髪の少女だった。見開かれた目は透き通るような蒼色で、その色も素直に綺麗だなと思う。身なりは、なぜか動きにくそうな服装だった。服の色は赤く、こんな森の中では目立ってしまいそうだ。
――変な服。
ハルが内心でそんな感想を漏らすと、二つの呆れたようなため息が心の中で聞こえてきた。
――ハル。あれはドレスだよ。しかも見たところ、とても材質のいい生地に装飾だ。
――おそらくは貴族だろうな。さて、貴族の娘がなぜこのような場所にいるのか。
それを聞いたハルは、しかし納得していないというような顔だった。それもそのはずで、
――貴族って、なに?
――ああ……。うん。失敗したね、ヴォイド。
――そうだな……。もう少し常識を教えておくべきだったな。
二人そろって呆れている。ハルは内心でさらに首を傾げながらも、少女に改めて向かい合った。そして、口を開こうとして、
「…………」
言葉が、出なかった。
――ハル?
怪訝そうなアークの声。ハルはそれでも何も言えずに、それどころか顔を青ざめさせた。一歩、二歩と後ろに下がる。
「あ、あの……」
少女の声。ハルはその声にびくりと体をすくませると、近場の木の影に慌てて隠れた。少女の驚きの声が聞こえるが、それに反応できる余裕はない。
――ハル。どうした。
ヴォイドの声に、ハルは体を小刻みに震わせながら、答える。
――怖い……。人間、怖い……。
――む……。そうか……。
アークもヴォイドも、それ以上は何も言えない。アークに至っては、少女を助けてほしいと頼んだことを後悔すらしていた。ハルの身の上を考えれば、こうなることは分かっていたはずだ。
ハルは数年前からずっと魔の森で生きてきた。その間、この森に入ってきた人間は少なく、そしてその全てとハルは言葉を交わしていない。森に入る人間の大半は野生の獣に食われてしまうためだ。腕の立つ人間も勝手に森から出て行くので会うことすらない。
今まで人と接することが少なかった。そのことが原因で対人恐怖症を悪化させている。
対人恐怖症の最たる原因は、この生活が始まる前だ。
ハルは、人間によって『呼ばれ』、『飼育』され、『廃棄』されかけた。それが全てだ。
目の前の少女は、見た限りでは今までの人間とは違うだろう。本質までは分からないが、この場でいきなり襲ってくることはないはずだ。アークはハルを安心させるためにそう言おうとしたが、それよりも先に別の音に遮られた。
「あ、あれ……?」
少女が、倒れていた。
ハルはしばらくその様子を呆けた表情で見ていたが、少女がいつまで待っても起きないことに気づき、警戒しつつも近寄っていく。彼女の顔をのぞき見ると、汗を流し、呼吸は荒くなっていた。どう見ても普通の状態ではない。
――ど、どうしよう!
慌てて心の中で叫ぶ。それに対する声は、
――見捨てろ。
ヴォイドの非情な言葉だった。
――いや、でも。アークは……。
――ごめんハル。僕が軽率だった。見捨てよう。ハルが無理することはない。
助けてほしいと言ったアークですら、見捨てろと言ってくる。ハルの先ほどの様子から気遣ってくれての発言だとは分かるが、それでも本心からの言葉なのだろう。ハルはしばらく悩んでいたが、やがて小さく首を振った。
――助ける。
――ハル。
ヴォイドが咎めるように名を呼んでくる。しかしハルはそれには応えず、少女の体を背負うと家路についた。
ハルが暮らす巨木の三階。そこには少し汚れてはいるが毛布が敷かれている。部屋の隅には普段使っていない毛布がさらに十枚ほど。これらは森に乗り捨てられた馬車にあったものだ。馬の死体はあったが人の死体はなかったので、馬が襲われて馬車が使えなくなり、捨てていったのだろう。その後、乗っていた人間がどうなったかは知らないが。
ハルは使っていない毛布を敷くと、その上に少女を寝かせた。額に触れて、思わず顔をしかめた。詳しくは分からないが、かなり熱いと感じる。放っておくと危ないだろう。
――アーク。どの回復魔法を使えばいい?
――原因が分からないから何とも言えないけど……。全て試してみればいいよ。
それもそうか、とハルは記憶の底から回復魔法の詠唱を引っ張り出す。そしてハルの口から紡がれるのは、今の言葉とは違う複雑な言語。古代言語らしいが、意味はハルも知らない。
詠唱を終えると、ハルの手のひらがぼんやりと光り始めた。その手で少女の頬に触れる。光が少女に吸い込まれていく。だが少女に変化はない。厳密に言えば、少女の体の怪我はなくなったが、熱や荒い呼気などは変わらずだ。
ハルは一瞬だけ落胆の表情を浮かべたが、すぐに次の詠唱を始めた。それが終わると先ほどと同じように手が淡く光り、その手で少女に触れる。再び光が少女に吸い込まれる。
今度は明確な変化があった。少女の熱がすぐに引き、平熱と変わらなくなる。呼吸も幾分か落ち着いたようだ。だがそれでも、まだ苦しそうに呻いていた。
――アーク……。
この後はどうするべきかとアークを呼ぶと、アークは優しい声音で言った。
――もう大丈夫だよ。魔法では治療はできても体力の回復はできないから。一晩休めば、落ち着くはずだ。
それを聞いたハルが嬉しそうに表情を綻ばせた。一階に戻ると、果物や干し肉を持てるだけ持って三階に戻る。それらを少女の側に置くと、自分は梯子の側に行ってそこから少女の様子をじっと見守る。
アークとヴォイドは、ハルのその行動に心の底から驚いていた。
――どうしたのかな、ハル。
――あの娘が気に入ったのではないか?
――いやそんな物みたいに。
――そうでなければ貴様の言葉だろうが。
――ああ……。うん。失敗した。
そのやり取りも当然ハルには筒抜けなのだが、ハルは何も言わずに静かに少女を見つめていた。