第07話
「無様ね」
ぽつりと樹連は一言、言い捨てた。
九死に一生を得た宿木は、今もっとも危険な存在を前にして再び危機におちいっていた。
ピリピリと皮膚が痛む。大気に満ちた炎気がいつ実体化してもおかしくないと思わせる程だ。
作戦に失敗した事で怒りを買った訳ではない。
ただ、牙翼に敗れた。
その一点のみがガソリンとなって樹連という業火に注がれている。
「元々の自力が違い過ぎる上に、こちらのタネを知られていてはどうしようもないですね、ええ」
「……タネ?」
樹連が眉を跳ね上げた。意味が通じなかったらしい。
「私の昇華の型について知っていましたよ」
「……初耳だわ。ずっと隠していたんでしょう?」
「そのはずですがね。まぁ、誰かさんが無理矢理使わせて、一緒にいた彼の友人にも知られていましたからね。伝え聞いていても不思議ではないですね」
正気かと他の【紅】のメンバー達の視線を感じながら、宿木は樹連に屈しなかった。
特に交流があった訳ではない。
一時だけというのにも短い時間の戦友。
それを無駄死にさせてしまった責任と意地が宿木を支えた。
「どちらにしても、二度目は通じない。そういう事よね?」
「……そうなりますね」
危険な空気が密度を増す。
宿木は無駄と分っていてなお身構える。
樹連と、そして彼女が固執している刃烈にはある共通点がある。
それは敵はもとより味方にすら容赦という言葉が存在しない事だ。
故に刃烈は仲間食いと呼ばれ、樹連は《紅》の幹部にすら恐れられている。
しかし、恐れていた一撃は来なかった。
「使えないわね、どいつもこいつも」
小さく呟いて無造作に何かを放った。それは軽く弧を描き軽い音を立てて地面を転がる。
どうやらそれはまるめた紙のようだ。
宿木は首を傾げながらそれを拾い上げる。樹連は見向きもしない。
紙を広げるとそれはB5サイズの便箋で、中央に簡潔に用件が書かれていた。
「……上は抑えていたはずじゃなかったんです?」
「どうも、今私がいない事を嗅ぎ付けた余所のグループが動き始めているらしいわね」
「へぇ? ここに書かれているのは撤退命令だけですが?」
「それを持ってよこした人からの話よ」
「そいつはどうなりました?」
「さぁ? どこにもいなくなったんじゃない?」
……つまりは消したという事か。
「自分のした事が分っていますか? 反逆ですよ、これは」
「何の話? 私は何も知らないわよ」
「命令を受取ったんでしょう? 伝えたメンバーを殺っちまったんでしょう?」
「何の話かしら」
宿木の手から指令書が掻き消えた。
ただ、微かに宙に焦げた匂いが立ち上る。
「私は何も受取っていない。そうでしょ?」
つまりはとぼけるつもりなのだ。
「伝令は来る途中で【燈火】にでも狩られた、そんなところですか?」
「そんなところね。
ああ、そうだ。どうせだから牙翼に狩られた事にしておきましょう。
それが手っ取り早いから」
樹連が宿木を殺さなかった理由も明白だ。
撤退命令を無視した以上、もはや人員の補充は望めない。
自らの手で持ち駒を減らすほど愚かではないはずだ。
だが、これで宿木にも逃げ道はなくなった。
従わないのならば、宿木を生かしておく理由が樹連にはないからだ。
いや、むしろ【紅】に報告がいく事を考えると殺さざるを得ないという事か。
「たとえ、いまさら刃烈が見つかったところで帰る所がなくなりますよ?」
「ふん、あの人さえいればどうとでもなるわよ。私とあの方さえいれば、ね」
そう簡単にいくのか?
宿木は気付かれないようにため息をついた。
確かに刃烈、樹連という強力なDFを安易に敵に回すほど《紅》も愚かではないはずだが、樹連にここまで舐められた行動をとられて黙っているかどうか。
そして、それに巻き込まれざるをえない宿木の胸中は最悪だった。
それでも選択の余地がない以上は、この狂気のDFに付き合うしかない。
「一つ、牙翼の事で気になる事がありましたが」
「何かしら?」
「奴の器が合っていないという話でしたよね?
だが、奴は自分の炎気を完全に制御していましたよ。
あなたとやりあった時からすでに欺かれていたという事はないんですか?」
「……ないとは言わないけど。可能性は薄いでしょうね。
自らの危険を冒してまでそんな芝居をうつ理由が見あたらないもの」
「だとしたらそれがきっかけになった、そういう可能性もありますね」
「もしそうならやはり完調とはいっていないでしょうね、期間が短すぎるもの」
「あまり考えたくですね、あれでまだ完全でないなんて」
樹連の前では決して口には出来ないが、あの仲間食らいの刃烈が唯一頼りにしていたというのも良く分る。
宿木が相対した時に見せた炎術ですら、どんな強固な防御だろうと突破できるだろう。
ましてや、完全な力ならどうなるか。見当も付かない。
「完調する前にケリをつけるわ」
「どうやって。奴には《燈火》の監視もついていますよ。戦闘が長引くほど不利になる。いくらあなたでも牙翼とはサシでこそ勝算があるんじゃ?」
「長引く事なんてありえないわ」
「なぜ? 前にやりあった時は邪魔が入ったから退いたのでは?」
「ええ。その時に気付いたのよ。奴が器に合っていないという事。そして、それどころか器に引きずられている事にね」
「器に引きずられる?」
「おいおい、説明するわ。それよりも残った駒を集めておいて。
……余計な事を口にしたら、どうなるかは分っているわね」
「……分かってますよ」
どうやら自分は特大の貧乏クジを引いてしまったらしい。
逆らう事は消滅を意味する以上、宿木に出来るのは不幸な我が身を嘆く事だけだった。
*---*
「ところで本当は何をしていたの?」
帰る道すがら、智子はポツンと呟いた。
健太郎は顔には出さなかったがギクリと心を震わせる。
それまで散々逃げた事を責められていて、まったく心の準備が出来ていなかったから。
「何って」
「焦げ臭い匂いがするわよ」
反射的に炎術を受けた腕を庇って、そして次の瞬間に自分の迂闊さを呪った。
カマをかけられたのだ。
「やっぱり……様子が変だと思ったんだ」
「い、いや、それは……」
水着売り場にいるのが恥ずかしかったのは嘘でもなんでもなかったのだが。
智子はたったいま健太郎が庇った腕をとった。
「怪我をしたの?」
「だ、大丈夫だよ。何ともないから」
「嘘、腫れているじゃない」
「すぐ治るよ。大した火傷じゃないし」
「……火傷って事は、またDFなのね」
ボロボロと綻びから何かが零れ落ちる。今、健太郎の心理状況をイメージにするとそんな感じだろう。
「また【紅】ってところ?」
「う、うん。実は、ずっと後をつけられていたんだ」
「……で、戦いにいったんだ」
「振り切ろうと思っただけだよ。
結局、追いつかれて斬場さんに助けてもらったけど」
「ふーん」
あからさまに信じていない顔をされて、健太郎は目を背けぬよう必死だった。
8割方嘘だと見抜かれているだろうが、それでも全部を話すわけにはいかない。
彼女の感覚では自分のした事はただの人殺しだろうから。
「ねぇ、健太郎。ちょっとこっち来て」
「え? な、なに?」
道の端によってちょいちょいと手招きしている智子に対して、首を傾げながら近寄る。
ふいに視界に火花がとんだ。
「自分の体をなんだと思ってるのよ、あんたはっ!!」
平手打ちを食らったのだと気付いたのは数秒たってからだった。
しばらくするとじんじんとしびれるような痛みと共に頬が熱くなる。
智子に殴られる等は日常茶飯事だが、これはそのどれよりも痛かった。
「智子……」
「もっと自分の体を大切にしなさいよっ、なんでわざわざ危険な事をするのよっ」
「い、いや。それはっ」
「それは何っ?!
確かにあんたは強いのかも知れない。それでも無敵って訳じゃないんでしょっ?!」
「僕は……」
何も言えない。言える訳がない。
智子を巻き添えにしない為にあえてこちらから打って出るなど、決して人間の前畑健太郎は考えないのだから。
智子の前にいる前畑健太郎は、唐突に黒い炎が操れるようになった普通の少年。
決して、人食いのバケモノなのではないのだ。
「返してよ」
「……智子?」
「返してよ、以前の健太郎を。私が好きだった健太郎を返してよっ」
心臓が止まりそうになると言うのはこういう事を言うのか。
大粒の涙を流す智子の顔を直視出来なかった。
たぶん、彼女は分って言った訳ではないのだろう。
それでも言葉の刃が心に突き刺さる。
「ごめん。ごめんよ、智子」
それは何に対しての謝罪か。
彼女から前畑健太郎を奪った事か。
それとも前畑健太郎を演じきれなかった事なのか。
「ごめん……」
ただ謝るしかない。
涙を流しながら無言で睨みつけてくる彼女をぎゅっと抱きしめた。
彼女は拒まなかった。
「ごめん、智子」
ずっとずっと謝り続けた。
それしか出来なかったから。
第五章 完




