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星を抱いて

 静まり返った村を望む自室の窓口で、ともよはひとり、暮れかけた空に気の早い星はまだかと探している。

 あれから、社の寸前で村人と合流することまでは容易かったものの、意に違わず武器を手に士気を高めていたかれらを、どうにかとりなすほうにはしかし思いのほか骨が折れた。半分は拝むようにして、あれは害のあるものではないこと、たいちとふたり野犬から助けられたことを話し、村についたらすべて語ることを約束して、ようやく揃って帰ることができた。

 あのままではブレラの身が危ういと、ともよは考えたのだった。逃げ場のない狭い社で、話す暇も与えられず討たれていたか、悪くすればブレラのほうが誰かを傷つけていたかもしれない。なんとしてもそれだけは止めなければと、ほとんど迷う間もなくここへ舞い戻ってしまった。

 ……だが――。

 重苦しい沈黙を背負い続け憔悴した一団は、村についた途端、墓場を求める亡者のように一も二もなく家々へと散った。ともよを気遣い、話は明日にしようと声をかけてくれた者もあれば、合わせる顔もないと逃げるように背中を見せた者もある。少なくとも、ともよを責める向きが居並ぶ表情から読み取れなかったことにはほっとした反面、この分で本当に語らうことができるのだろうかという不安は打ち消しようがなかった。


 居場所はあると、ブレラは言ったけれど。

 ともよは頭上を仰ぎ、窓の下に目を落として、木枠に身をもたせかけた。頬を撫でて通り過ぎる夜気は、しみるようにしっとりと冷たい。

 ふと、薄暗がりに紛れて、視界の片隅で何かが動いた。どきりと跳ねる胸に手をあて、思い直してぐっと身を乗り出す。どうやら見間違いなどではないらしい。裏の畑のあぜ道を、黒いかたまりがじりじりとこちらを目指している。目を凝らして、それが杖をつっかえ棒のようにして懸命に歩を進める小柄な老人であることがわかった。あれは、長だ。こんな時間にたった一人で、ここまで……私を、訪ねてきたのだろうか。

 ともよは飛び上がって驚いて、慌てて部屋を出た。短い廊下ももどかしく、長のもとへと駆けつける。長のほうからわざわざ出向いてくるなど、とんでもないことだ。どんなに気持ちが浮かばなくとも、長にだけは話を通しておくべきだったのだ。

 しかし、焦るばかりのともよがつんのめるようにして現れるや否や、長はその細面に一層深くしわを刻み、相好を崩した。そこには、ともよの憂慮していた屈託などかけらもない、まっさらな再会の喜びがありありと表れていた。


「長……」


 ふっと出し抜けに肩が軽くなり、くちびるの隙間から息が漏れる。そこでやっと、自分がとんでもなく身構えていたことにともよは気がついた。もしかすると、他の誰よりもこの長がどう思うかを恐れていたのかもしれない。花嫁となる娘を選び出し、それを言い渡す役目を背負った、この村の長に。


 ともよは長を家に上げ、意を決して全てを語った。消えた先代の神のこと。町に住んでいるであろう花嫁たちのこと。そして、ブレラのこと。

 その間、相づちひとつ打つこともなく地蔵のように押し黙り続けていた長は、たっぷりの間合いをもって、やがて重々しく口を開いた。


「……わしらは、間違っていたよ」

「そんなこと! ……そんなこと……長が言ってはだめです!」


 頬を引きつらせ、思わず大きな声をあげて制するともよに、しかし長は頷かない。


「忌まわしき風習は、もっと早くに、やめるべきだった。たとえ、かわほり様がいても、いなくてもだ」

「そんなら村はどうなるんです? こんな、だ、誰かに聞かれでもしたら」


 手のひらを胸の前であわあわと振り、ともよは辺りを見回してしまう。共犯の意識が村全体を占める儀式のこと、長ばかりを責める者は誰もいないだろうが、だからこそ背約を許す者もいないだろう。

 案ずるともよとは対照に、長はのどかな顔をしてやせ細った腕をさすり、なだめるように優しく言った。


「わしも、長である前にひとりのひとだからね。村人もそう。そして、わしらが言えたことではないが……ともよ、おまえもだよ。おまえも、花嫁である前に、ひとりのひとなんだ」

「……長」

「今さら何をと思うだろうね。頑是ないおまえに、いや、臍の尾を切ったそのときから、おまえには忍びないさだめをおっかぶせてしまった。それでも、そのためだけに、わしらがおまえを育ててきたかといえば、それは断じて違う。――ともよ、おまえの名前は、わしらがみんなで考えたものだ。……これも、手前勝手な願いに過ぎないがね……その名には、ともに生きたいという、わしらののぞみが込められているのだよ」


 ひとつ呼吸をおいて、咳払いのあと、長は微笑む。


「だから、おまえが手前勝手な願いを持つことだって、誰も責めやしない。責めさせやしない。かわほり様がいても、いなくてもだ。――……今、おまえのともに生きたいという願いは、どこにあるのだろうね?」


 光を消した長の瞳に輝く海は、悲しみも覚えて蒼く、後悔を抱いて深く、しかし晴れの月のように冴えて、澄みきっていた。覗き込んだともよは、はっとして口をつぐむ。

 その言葉に触れて、その水面に映った、その影は――。

 痺れるような衝撃に、ともよの視界が開けていく。手足の感覚を失い、体を置き去りにして魂だけが宙へ飛び出し、今まで目にしたこともない、清爽として明るく鮮やかな彩りの中を洗われていく。我知らず訥々と、言葉がこぼれていた。


「……生きてれば、いいことがあるって、言ってくれたんです」


 長は黙って、ゆったりと頷く。何度も、何度も。幼子をあやす揺りかごのように。


「あたしは独りじゃないって。あいつ、あいつこそ独りのくせに、わけわかんないけど。その気持ちを無駄にしたくなくて、あたし、でも。でも……!」


 ――会いたい。

 ごめんね、たいち。みんな、ごめんなさい。

 私が、会いたい。

 ともよが、花嫁としてではなく、ともよとして願うこと。理由などわからない。渇きにも似た思い。

 最初はただ喪失感。次に悲壮感。やがて覚悟。そして静かの決意。覆されて、この空白は誰が埋めてくれるだろう。抑えようもなく突き動かされるままともよは立ち上がり、長へ向けて深々と腰を折った。


「あたし、行ってきます!」


 長はわずかに面食らったものの、ともよの探し人が何者であるかをすぐに思い出したのだろう。またひとつ大きく頷いて、ともよの背中を押してくれる。

 はやる気持ちに追い立てられ、ともよは夜の帳へと足を踏み出した。頭の上には、いつも、いつでもきらめく星の凪がある。自然と歩みが速くなる。恐怖など、かけらもなかった。暗闇が隠す真実はこわいものばかりじゃない。そう、みんなが教えてくれたから。




*




 だが森へ入ってほんのしばらく、ともよは勢い虚しく足を止めた。社までの詳しい道のりを、そういえば知らないのだった。どこか湿っぽい森の香を含んだ暗黒に浸りじっとしていると、自分との境界がぼやけて、呑み込まれる感覚にとらわれてしまいそうになる。


「……ブレラ」


 ともよは低く呟いて、うんと深く、闇夜を吸い込んだ。そして森中に響きわたれとばかりに、声を張り上げた。


「あんたねぇええぇぇ! それでいいと思ってんのおぉおおぉ!」


 がっさがっさと豪快に、大股で藪を掻き分けて、ともよは闇を蹴散らしていく。


「ちょっと聞いてんの、いるんでしょ! 出てきなさいよ、そっちが出ないなら叫び続けるからね。どこまでもうろついて、そんで野犬に食われて、ぐっちゃぐちゃのどっろどろになってでも、化けて出てやるからね!」


 鬼でも蛇でもかかってくればいい。こっちが探しているのは、森の神その人なのだ。なりふり構わず、ともよはわめき散らす。

 あいつは応えてくれるだろうか。たった一晩すこしの言葉を交わしただけの、そっけない男。手放しで信頼をおけるほど、その心根を知っているわけじゃない。だけど見ず知らずの娘を救おうとして、下手な慰めを惜しげもなく投げつける、やけに甘ったるくて人のよい、ひとりぼっちの神さま。あいつなら、きっと応えてくれるのではないだろうか。

 不意に、はるか頭上で不自然に葉っぱの擦れる音がした。振り返って木々を仰げば、夜にぽっかりと浮かぶ着物の白。そこで高い位置の幹に立ち、嵩高にともよを見下ろすブレラがいた。

 天狗か、おまえは。再会を喜ぶ間もなくぎょっとして怯んだともよに、ブレラの厳しく歪む表情がさらに身を引かせる。


「うるさい女だな……」


 舌打ちを漏らし、ブレラはともよの前へと降り立った。そのまま煩わしそうにそっぽを向いて、苛立ちを隠そうともしない。ここへ戻ってきたことを怒っているのだろうか。だが、負けてなるものかとともよは詰め寄った。

 向かい合う神と花嫁。ふと、はじめて対峙した出会いの場面が甦る。つい昨日の出来事であることが信じられぬほど、それは遠い過去に思えた。少しずつ質を変えた意識。その機縁をもたらしたのはブレラだった。


「何の用だ」

「用がなければ来ちゃいけない?」


 ブレラのひそめた眉の間に、見るからに困惑が宿る。

 一番の気がかりだった肩の傷は、血の染みごと今は消えていた。どこからどう調達したのか、着るもの自体が違っているのだ。だが、暗闇でははっきり見えずとも、別れたときが嘘のように立ち居振る舞いがけろりと達者であることはわかる。片一方でとりあえずはほっとして、ともよはブレラの顔に視線を戻した。


「答え、まだ聞いてないでしょう」

「こたえ?」

「寂しくないのかって。生きてればいいこと、あんたにはあるのかって」


 しばしの間ふたりは無言でにらみ合う。やがて、繋がった視線をずらしてブレラは頷いた。


「……あった」


 嘘ではなかった。ともよのことだ。

 投げ出してしまいたいと思う自身の立場を必要としてくれたこと。それが嬉しかった。

 生きることを、許された気がした。

 理屈など無に等しく、言葉になど託しようもない、形にしてみればさぞやいびつであろう、不確かな喜び。それでも自分には、それは真実、あわやかで安らぎに満ちた日の光だったのだ。


「――じゃあ、なんでそんなに寂しい顔するの?」


 うるんだ声に虚をつかれ、ブレラは顔を上げた。かわりに、ともよのほうが下を向いている。


「寂しいよ……。あたしが寂しい! あんたがそんな顔したら。この森に、あんたが独りって思ったら!」


 ちぎっては投げつけるように、異なことを娘は言う。ブレラは怪訝にともよを見下ろした。なぜ森に戻ったのかも、なぜまたここで涙するのかもわからない。この娘は村へ戻り、難なくとはゆかずとも、徐々に笑顔を知っていくはずだった。町へと送り届けたかつての花嫁たちは皆そうして暮らしている。なのに。

 困惑が本音を呼びおこす。ブレラの声が、戸惑いに揺れる。


「……どうしようもない。村でなど暮らせまい。日の下は眩しすぎる。化け物に、居場所などない」


 考えの読めない憮然とした顔つきのまま、ブレラは続けた。


「その化け物を、一時でも必要とした娘がいた。それで十分だ」


 かすれた声は、喉の奥に苦い味を運ぶ。

 ――らしくないことをいうな。

 ともよは俯いたままきつくくちびるを引き結び、こぶしを握りしめる。と、やおら右半身を引いて、腰の回転に乗せ、ブレラの鳩尾に一撃を食らわせた。

 全く持って想定外の衝撃に、さすがのブレラも為すすべがない。体を折って激しく咳き込むと、混乱に数歩よろめいた。


「お、おまえな……」

「話聞けって言ってんのよ! だから、このあたしが、これからもあんたを必要とするって言ってんじゃない!」


 目をむくブレラの袖を捕まえて、がくがくと揺さぶり、ともよは思いの丈を吐き出す。


「話せばいいって言ったじゃん。生きてればどうにでもなるんじゃないの? きっかけなんてなんでもいいの。化け物だろうがなんだろうが」


 奥歯をぎゅっと噛みしめて、感謝を、苛立ちを、喜びを、痛みを、憧憬を、力任せに叩きつけた。


「あたしの望みは、あんたなんだから!」


 息を切らせて、再びふたりの視線がかち合う。ともよの瞳には、あの夜空を彩る星が瞬いていた。諦めていた、消えかけていた、命の灯火が、瞳から瞳へと燃え移る。揺るぎない壁は砕け散り、名も知らぬ怒涛の感情がなだれ込む。

 ブレラはぽかんと呆気にとられた後、一瞬のこみ上げる衝動を押し込めて、そして最後には、にっこりと無邪気な笑顔を見せた。


「おまえは本当に、でたらめな奴だな」


 ともよは震えるくちびるをへの字に引き結んで、こらえ切れず息を詰めた。体の芯が烈々たる熱を抱え、凍てついた胸のつかえを溶かしていく。押し込むように、ブレラの胸へとつむじを当てた。

 ためらいがちに、しかし少しずつ切に抱き寄せられる安堵のぬくもりは、露しずくに洗われた若草の香りがした。




*


*


*




 青嵐馳せる山の裾、いくつもの森を越え、川を渡ったかたほとり、地図にものらない端っこに、その村はあった。

 旭光にきらめく朝もやの中、焼け落ちた社を眺め、ともよは深く、息を吸った。そうすると肺腑いっぱいを冷たく澄んだ透明な粒が満たし、一身が芯から清められる気持ちがした。

 一羽のひばりが舞い上がる。

 季節はなお重なっていく。

 最初で最後の花嫁は、今日もとなりに、こぼれるような笑顔を向ける。

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