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神供の村

 青嵐馳せる山の裾、いくつもの森を越え、川を渡ったかたほとり、地図にものらない端っこに、その村はあった。

 旭光にきらめく朝もやの中、焼け落ちた社を眺め、ともよは深く、息を吸った。そうすると肺腑いっぱいを冷たく澄んだ透明な粒が満たし、一身が芯から清められる気持ちがした。

 辺土の村の、さらに奥まった土地にあるこの社は、雷火に呑まれた十八年前の一日より手付かずのまま打ち捨てられ、まるで結界に守られるかのごとく神妙な静謐の下に横たわっている。積年の風雨に晒され風化した黒焦げの残滓は、消えゆくばかりの命運を嘆ずるための心もない。

 父も焼けた。母も焼けた。

 ともよは自身を育むはずだった家の前に立ち、無辜の瞳で顔も知れぬ両親を思った。この場所で、まだ名前すらない赤ん坊だった自分だけが生き延びた意味を、何度となくその身に言い聞かせてきた。

 囀る一羽のひばりが舞い上がり、共に、最期の一日がはじまった。




*




 みずいろの空気を切り分けるように、丘の下から駆けてくる小さな影がある。あれは隣の家のたいちだろう。村には他に子どもがいない。だからたいちは見分けなくても見分けがつくし、探さなくても常にどこにいるかがわかる。

 たいちは、ともよがどこにいようが必ずすぐに見つけてしまう千里眼の持ち主だ。きっとあの身軽な体ではしこく駆け回り、大人たちの邪魔をしながらも懸命に探してくれているのだろう。村で一番歳の近いともよの後を、たいちはいつもひよこのように付いて回っていた。


「ともよーっ!」


 息を切らし、まだ華奢といえる肩を揺らしながら、たいちは有り余る元気を溢れさせたような笑顔を見せる。つられて、ともよも笑みを返した。


「よっす!」

「おはよう、でしょ? あとともよじゃなくて、お、ね、え、さ、ん。……どうしたのよ、こんな朝はやく。水汲みは終わったの?」

「うるせえなあ、ともよは。今日は休み! 珍しく母ちゃんが遊んできていいってさ! なあなあ、今日は遊べるんだろ? 昨日も一昨日も、その前だって、ともよ仕事してないって知ってるんだからな!」


 掴まれた腕を力いっぱい揺すられて、ともよは苦笑混じりのため息をもらした。結局だれも、たいちに本当のことを言えなかったのだ。


「人聞きの悪い……。言っておきますけど、決して怠けたわけじゃありませんからね」

「えー、そうなん? じゃあ何? 何何何?」


 無理もない。この濁りのない瞳でまっすぐに見つめられると、自分は本当に正しいのかという不安に駆られ、言葉に詰まってしまうのだ。真実を告げられない大人たちの気持ちもよくわかる。正しさはいつも卑怯者だ。深い霧に紛れ、逃げるように隠れては歪み、人を惑わせる。

 だが、決心は鈍らない。努めて軽く、ともよは口を開いた。


「あのね、言おうと思ってたんだけど。姉さんお嫁に行くの」

「え……?」


 たいちの、熱を持っていたはずの笑顔が刹那に凍り、とけるように変わっていく。戸惑いと衝撃から、やがて怒りへと。


「……なんだよそれ、急に。嘘だろ? だめだよ!」

「ごめんね。ずうっと前からもう決まってるの。明日、姉さんすごく遠くに行かなきゃならない」

「明日?」


 呆けたように目口を開け放し、たいちは虚空に魂を飛ばした。徐々に光を取り戻せども、その瞳に宿るのは、やはり怒りの色だった。


「なんで? なんで黙ってたんだよ?」


 呟くように言う。小さな世界の絶望を、その身に映して。


「……俺が……俺がかわりにもらってやるから……行くなよ!」


 うつむいて搾り出された感情の吐露に、ともよは、はっとした。視界がいつしか潤んでいた。きっとそれはいつまでも顔を上げようとしないたいちも同じなのだろう。

 最期だというのに。最期だからこそ。眠っていたはずの心が揺れた。

 だが、許されない。許さないし、許されるはずもない。ともよは心を殺し、黙って首を横に振った。下を向いていたたいちにも伝わるように、力強く。

 やがて、たいちは握りこぶしを微かに震わせ、不意に地面を蹴ると、


「ともよのバーカ! どこへでも行っちまえ!」


 声の限りに怒鳴り散らし、勢いよくきびすを返して走り去ってしまった。


 残された清かの空気は何事もなかったかのように黙して語らず、ただ時を凪がしている。ともよはひとり空の青を見上げ、朱に染まる目じりを風に冷やした。我知らず浮かぶのは、なぜか笑みだった。


「……びっくりした。不意打ちだわ」


 小さい小さいと思っていたけれど、たいちもいつの間にか一人前の文句を口にするようになっていたのだ。

 やはり、これでいい。ともよはふっと目を閉じた。先を見られないことはとても寂しいけれど、哀しいだけの別れではない。たいちの、そして村人のこれからを守ることができるのは、自分だけなのだから。




*




 玄関の木戸を音も立てずにそっと引き、寝室のやよいを起こさないために気配を消して、忍び足で家に入る。自分の存在はもはや無いものとすることが、せめてもの孝行になればとともよは思う。

 心労から床に伏した養母と、数日前から仕事を抜けたともよの穴を埋めるため、養父はとうに畑へ出ている頃だ。しかしそのせいじもまた、壮健であるとは言いがたい。頬の肉は削げ、小麦色の肌が今や病人のように浅黒く変わり果ててしまっている。

 無理を押して倒れでもしなければいいのだが。そう案じるほかにすべのない自分を恨めしく思いながらも、寝室の扉がしっかり閉じていることを確認して、ともよは台所へ向かった。


 野菜の切れ端で作ったスープだけの簡素な朝食を済ませてから、二人分の米を炊く。それから今日はどうしようか。頬杖をついて考えた。

 機織り手伝い、鶏小屋の掃除、畑の雑草抜き……どれも昨日までに断られている。最後まで村の役に立ちたいと思っていたけれど、村人の心を泡立ててしまうならば姿を見せるべきではないのかもしれない。

 最善は家の中でじっとしていることか。それではついでに、たいちの好きなくるみがたくさん入った大きなパンを焼こう。腕をまくり、ともよは立ち上がった。


 生地を相手に打ち込むことで思考を止めてしまえれば。そう思っていた。

 しかし、力を込めて捏ねるほどに心はぱかりと傷を開き、その隙間を埋めるように取り留めのない思考が生まれる。

 私はいい。覚悟を決める時間は充分にあったから。対して村人はどうだろう。当人ほどの意識もかなわず、唐突にやってくる逃れようのない罪悪感と共に日々は続いていく――。

 もし自分が残される立場ならばと考えて、ともよは思うのだ。それは正に生きながらにして永劫身を焼かれるに等しい拷問ではないだろうかと。


 ふと眺めた窓の外には穏やかな風が舞い、飽和した陽光の中を酩酊したように蝶が泳いでいた。ぼんやりと目を奪われて、思いばかりが空にたゆたう。


 あれは、ともよがたいちと同じ歳の頃のことだ。しわだらけの手のひらをともよの小さな頭に被せ、光の潰えた瞳からぬるい涙をぽたぽたこぼし、長は言った。

 ――ともよ、お前は神の花嫁だ。あと季節が十も巡れば、かわほり様のもとへお前をおくらなければならない。どうか、どうかわざわいからこの村を護っておくれ――。

 その本来の意味するところまで理解が及ばずとも、長から伝わる深い哀しみは不吉の匂いをはらんでいた。そして成長するにつれ深まる確信は、沁みるようにともよの心を染めていったのだ。


 最初はただ喪失感。きらめくような幸福を亡くし、それまでの自分を亡くし、一度は村人への信までもを亡くした。

 次に悲壮感。自身を哀れむ日々が過ぎると、村人の声なき嘆きがより烈しい痛みとなりともよを苛んだ。

 やがて耐え忍ぶ日々の終わりには、じっくりと覚悟を育てた。はじめは辛く思えた本当の両親の話さえも、この頃には糧となっていた。

 そしてそれから時の満ちた今、ともよの胸は静かの決意を宿している。


 贄となるため生まれ、贄となるため生かされた。雷火に呑まれながらも、きっとこの村を護るためだけに。ならば、使命を全うしよう。他人と比べれば短くも、確かに幸福だった日々。与えてくれた村に、恩返しがしたい。それは底からの本心であり、ともよの悲願だった。

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