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アイドル(告知事項あり)

掲載日:2026/03/31



時計の針が二十三時を指している。

人によりまだ仕事している時間。人により睡魔と戦っているこの時間。

キャリアが腐りかけているアイドル、小嶋えるるは一人事故物件で配信の準備を行なっていた。

アイドルとは現代の魔法少女である。汗だって宝石に変えて、自分を煌めかせてみせる。自分を信じてくれる人をその笑顔で癒して見せる。まさに無敵で不可能を可能にする存在。


そして魔法少女は、いつだって正体がバレてはならない。


夜半過ぎの都内某所。笑える程寒い。ここからはスキャンダルによって、化けの皮が剥がれたアイドルの時間。

しかし電脳空間の主役は、カメラ前の小嶋ではなく、この空間自体である。

本日は当該チャンネル「事故物件泊まります(たまに泊まりません)アイドル」で随一の再生回数を誇る「お泊まり回」。つまりは事故物件でアイドルが寝泊まりする様を世界に放つ。都会の片隅で小嶋えるるは、ライブ動画配信を開始した。


「ふわゆらー。みんなの地縛霊、えるるんだよー」


地縛霊を自称するアイドルなど如何なものかとも思うが、所属しているグループのコンセプトなのだから仕方ない。画面に向かい一声上げると、再生数が膨れ上がる。


「ふわゆらー」

「ふわゆらーBBA」

「今日も夜更かし頑張れBBA」

「ふわゆらー今日も心霊現象期待」

「えるるん 今日も配信ありがとう」

「産まれてくれて  ありがとう」


気怠い視聴者からの返答の中に、心無い言葉が混じる。二十二歳にして随分ないいわれようだがはもう慣れてしまった。視聴者が小嶋のことをBBAと呼ぶのはいつものこと。チャンネルが開始された時にはに既ににBBAと呼ぶ人間はいた。

本当はこの胸のモヤつきも、今日仕事があまり上手くいかなかった悔しさもビールでも飲んでを癒したい。しかしファンを裏切ってしまった自分には、飲酒禁止もババアと呼ばれる事も甘受しなければならないと感じていた。


画面から見えるのは、非常に簡素な居室である。築年数十五年、七畳半の1K。見るからに薄そうな煎餅布団と無個性な白い小机。机の上にはコップにはデカフェのコーヒーで作ったカフェラテ。動画の恒例の流れで机に置かれているお茶請けのクッキー紹介。気絶する程甘い外国のチョコチップクッキーだった。

当たり障りのない仕事の話。スキンケアのお話。


ゆるい生活を吐露したところで、突然背面のドアゆっくりギィぃと声を上げた。音を追うように小嶋が振り返ると同時に、薄く開いたドアの隙間から、ちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっちゃっと小さな獣のような足音も聞こえ始める。足音は軽く、どこか愉快そう小嶋に近付く。


来た。


音を追うように目線を動かす。

足音と気配が小嶋の足元まで来ると、すぐさま机の上のカップが淵まで移動し床に落ちた。幸いカップは割れていないが、カフェラテが床に地図を描いている。


「みんな聞いた?と言うか見た?今日も来たよー。まじで勘弁してくれよカフェラテ入れ直しじゃん」


少し間があって、一気にコメントが溢れた。


「違う えるるん そうじゃない 心霊現象起きてんのよ」

「心霊現象慣れしてるwwwwwさすがwwwwwカフェラテくらい入れ直せwwwww」

「おめでとう」

「俺、なんか子供の泣き声聞こえたかも」

「ワイも」

「私は一瞬えるるんの隣に小さい女の子見えたよ」

「おめでとう」


カップが一人でに床に落ちたのも事実。ここが事故物件であるのも事実。事故物件に付随した心霊現象が起きる確率測定不能。視聴者が小嶋が感じている物以外の事象を感じている。はたまた全くの嘘か。小島にはそれが判別できない。しかしこの場所は元々ホスト狂いであった女性が、担当ホストを刺殺した後自身も自殺したいわく付きの部屋であった。


小嶋は霊を見たことがない。だが何故か特殊な心霊現象に遭遇することが多い。

キッチンから雑巾を持ってきて、床を拭こうとすると、小嶋が持つの特殊能力が発動する。

床にぶちまけられたカフェラテだったが、全て醤油に置き換わっていた。香ばしい香りが床から舞い上がるのを感じる。


なんで?


今まで何度自分で思ったことか。小嶋は唯一遭遇する超常現象が、珍妙心霊現象であることを約束されたアイドルであった。

事故物件に住む計画が持ち上がって約一年。初めて配信をした日から約半年。本日も小嶋えるるは、事故物件泊まります(たまに泊まりません)アイドルを生業として生きている。





ちょうど一年前の如月。

肌寒い公園のベンチに、白昼うつ伏せで寝ている不審者がいた。小嶋えるる(本名佐藤よしこ)である。ものの数時間前全てを失った女は、横たわるベンチの隙間から列をなす蟻をじぃっと見る。


「お前は偉いな。仕事をしていて」


と。そう呟くと、小嶋の両目からポロポロ涙が溢れてきた。


小嶋は妙ちきりんな心霊現象に遭遇する以外は、多少要領と容姿が良い凡庸な女性である。

平凡の中に一滴墨を落とすような人生。それに似た事象。ある日小嶋は都内で買い物をしている時に、中年男性からスカウトされた。芸能人を夢見る生活を送ってはいないが、特にやりたいこともなく何となく気が向いたので後日事務所の社員との面談約束を取り付けた。


当日は事務所にある一室で、三人の男性と対面した。自分に声をかけてきた年齢五十代の男性以外は、三十代から四十代と予想されるスーツ姿の男性たち。ダンスや歌も経験が無い小嶋は心配していたが、いきなり着席しての面談が始まった。内容もアルバイトでの面接に近いような内容が続く。


「自分の性格について、どう思いますか?」

「良くも悪くも執着がないところだと考えます。くよくよすることもありますけど、それではあまり事態が好転するとは思えないので。はい。割り切りは早いですね。」


アイドルなのに、普通に就職活動しているみたいだな、と小嶋は感じていた。

でありながら最後に自分に直接声をかけた男性が、明確に小嶋の人生を変えた。


「最後に。あなたは心霊体験をしたことがありますか?」

「おっと話が変わってきたな。」


詐欺か宗教団体への勧誘か。警戒心が急激に跳ね上がる。


「私はね、物語が好きなんだよ。特に怪談。怖い話がね。何かほら浪漫があるじゃない?見えないものとか不思議なことってさ。だからね、霊感強い女の子とか集めてさ、アイドルやったりしたら、何か起こるんじゃないかなと思ってね。合宿とかしたらポルターガイストとか起こっちゃったりしたりしてね」


たはーっと笑いながら、思考を語る中年は気持ち悪いなと思いつつ、心霊現象なら身に覚えがある。「夜中足元に髪の長い女の人がいたと思ったら、」という鉄板トンチキ話を話したところで無事合格となり事務所の所属となった。

後程候補生たとの練習に参加すると、本当に全員心霊体験があると言う。そして例のスカウトマンこそ、当事務所の社長の木村ということがわかった。


そうして誕生したのが、現在小嶋が所属している女性五人組のアイドルグループ「Fuwa yuraふわゆら」。コンセプトは神秘体験のように会えたり会えなかったりする、霞のように儚い彼女。世は大怪談時代。デビューシングル「ふわふわゆらゆらしている何か」を提げて業界に殴り込み。パフォーマンスや歌よりも、平場での心霊体験を語るアイドルたちと話題になった。小嶋も妙ちきりん心霊体験の数々でバラエティで時の人となる。


しかして登るのも早ければ、転がり落ちる速度も驚く程早かった。

きっかけもまた凡庸な話。

週刊誌から「夜の街を彼とふらゆら!? 心霊アイドル未成年飲酒」という記事が出てしまった。


問題は飲酒ではない。小嶋が既に成人していたにも関わらず、未成年として売っていたことが炎上の理由となった。おまけのように彼氏がいたこともガソリンを注ぐ。ちなみにこの年齢詐称が、配信でのBBAと呼ばれる由来だ。


下降し始めれば、そこからの転落の速度は早い。

食感ふわゆらなソフトグミのCMは放映中止となり、自身は無期限活動休止。。人生初のライブイベントは勿論不参加のため、小嶋えるる(17歳、本当は21歳)のグッズ販売も販売中止。

金の呼ぶ商品が、借金を舞い込むコンテンツとなってしまった。加速度的に違約金が増えてしまい、金額を見ただけで心臓が止まるような額まで膨れ上がった。


それなりに、それなりに。程々にとやっていたつもりだが、費やした時間に比例していつの間にかアイドルとして生きることに本気になっていた。

自分とファンに魔法をかけて、笑顔を貰うのが好きだった。ダンスもボーカルレッスンも辛いだけではなかった。汗まみれでも、宝石に慣れていた日々は宝物だと思う。全てを失うとはこういう感覚なのか。ただ目から水が溢れ、声を上げることも出来なかった。


芸能事務所など四捨五入するとヤクザ。四捨五入しなくてもヤクザである。

アイドルは事務所職員たちにとって、同等の尊厳を持った生き物ではなく商品であった。傷んだ商品は売ることができない。女性は陽の当たる場所で、笑顔と虚像を武器に出来なければ、日陰に入るしかない。値引きされ売られるか、否が応にも肌を晒して生きるしかない。

週刊誌が発売され、対応が落ち着いて改めて事務所にはじめて呼び出された。


面接当日に居た三十代の男性斉藤は、マネージャーになった。今までダンスもボーカルレッスンもしたことない自分を、絶えず励まし舞台に押し上げてくれた人だ。その斉藤に「グラビアの仕事来てますよ。勿論それ以上も。」と言わせてしまった自分の軽率さに嫌気がさす。また涙が込み上げてきた。

まだ意思を聞いてくれるだけマシか。件の社長が「それとも」と言葉を続ける。


「それとも事故物件住みますか?」

「いや、そうはならんやろ」


何言ってんだコイツ。

何でも木村は趣味で事故物件を複数所有していると言う。実際浪漫が生まれる瞬間に立ち会いたいが、やはり怖いものは怖いと。なら機会があれば、身近な存在に請け負ってもらいたいと。


何言ってんだコイツ。

そもそも事故物件に住まう件については、既に芸人の大先輩がいるであろうに。なんなら動画サイトにアイドルが事故物件に住むミニドラマもある。

性的な売り出しを打診されることは予想できていたが、心霊的な要素を出されるとは考えが至らなかった。逆に混乱をする。「考えさせてください」と事務所を飛び出し、事務所ビル隣の名前の知らないベンチで転がるに至った。


だが兎にも角にもお金も仕事もない。ギブミーおちんぎん状態である。損失が大き過ぎて、逆に自分のすべき事が理解出来ない。

夢で腹は膨れないし、何より今とても寒い。こんなんじゃ涙も凍って風邪を引いてしまう。

少し冷静になると、自身の生活を晒した週刊誌にも腹が立ってきた。いやわかるよ。年齢偽っていたのは本当に悪かったよ。女性アイドルは処女性を感じさせるのも大事じゃん。成人超えたら厳しいじゃん、儚くて消えそうなんて。何なんだよ「夜の街を彼とふわゆる」てちくしょう。やかましいわ。

小嶋はベンチにうつ伏せになったままで、スマホを起動させる。そのまま斉藤に連絡し、仕事を受けることにした。港区の小さな公園で、事故物件泊まります(たまに泊まりません)アイドルの誕生した。


仕事に同意してからの事務所の動きは早かった。まずはルールを決める。


一、各事故物件の居室のうち、いずれもリビングルームに設置した定点撮影機器設置。原則として二十四時間継続して配信するものとする。


二、安全管理上の観点から、各事故物件の所在地、建物名、間取りその他当該物件を特定し得る情報は、これを公表しないものとする。(※しかし出演者本人が宿泊、およびライブ配信している場所は紛れものく事故物件である)


三、出演者本人が出演するライブ配信は、安全管理上の観点から、事前の予告なく実施するものとする。なお、出演者の体調不良その他の事由により配信を中断し、又は終了する必要が生じた場合には、その可否及び時期は運営スタッフの判断によるものとする。


四、宿泊を伴う配信を実施する場合において、当該物件内に寝室その他の就寝に適した区画が存在するときであっても、出演者は、定点撮影機器が設置されたリビングルームにおいて就寝するものとする。


五、本配信の視聴は、視聴者本人の判断及び責任において行うものとし、視聴に起因し、又は関連して生じたいかなる損害、不利益、体調不良、精神的不調その他一切の事象についても、当チャンネル及び運営事務所は何らの責任を負わないものとする。


ルールは動画配信サイトの概要にも記載。

要は複数の事故物件を日替わりで二十四時間ライブ配信。本人出演する場合は、その映像に映り込む形で行われる。


元々計画されていたように、準備は整った。小嶋えるるの「事故物件泊まります(たまに泊まりません)アイドル」のチャンネルを開設した。


「社長、なんか用意周到ですね」

「前からやってみたいことだったからね色々構想は練ってたよ。でも君で良かった。君が良かった。君あんまり霊の存在を気にしてないでしょ」


自身の超常現象に対する考えとしては幽霊や心霊現象に対しては、実際飲み物が溢れたとの実害はあるが、実際カフェラテは入れ直せば良いし、死んでないしいいやとの思う図太さはある。

心霊現象に対して、小嶋はある特異的な体質を持っていた。


配信は毎回滞りなく進む。何かしらの面白味のある心霊現象が起き終わる。

稀にライブ配信をしていたのを忘れて、キャミソールにホットパンツで出ていくと投げ銭が増える。直接的な「性」を売りにしてしまったことを反省するが、借金が減る音がしたのでよしとした。


配信のスケジュールは、事務所がランダムで予定を組んでいる。

小嶋のスケジュール共有アプリには「自殺(ライブ配信)」「一家心中(動画撮影)」など物騒な件名が並んでいる。物件名にして欲しい。

当初は事務所側も何も起こらなかったら、隣の部屋で待機しているスタッフが電気を消したり、音を鳴らしたりすれば良いと思っていた。


予想に反して意外と心霊現象が起きている。

小嶋のフィルターを通すため「肉じゃが作ったら、鍋いっぱいのカオマンガイが出来た」「ネイルチップが中を浮いている」「就寝中に額に冷えピタを張られる」などのトンチキ心霊が現象が起こる。

中でも空中から突然冷えピタが哀れ、小嶋の額にシンデレラフィットした動画はいまだにSNSを沸かせている。

そこで今までえるるんが言ってたことって本当だったんだな、と信者たちが増えてお布施が増えた。


「えるるん。今日も配信ありがとう。素敵なものが産まれるといいね」






霊障とは、幽霊や妖怪など科学的に検証を出来ていない存在が、人間へ身体的・精神的に影響を及ぼす現象である。


小嶋はエキセントリックな心霊現象を目撃、体感するのみの人間。実害はないし、特に身体症状に現れてはこない。と思っていた。


「なんか えるる太ってね?」

「わかる 腹出てる 管理甘」

「えー。痩せ過ぎだったから今ぐらいがちょうどいいよ。抱き心地良さそうo(`ω´ )o」

「きも」

「どんな時にも 産まれてくれて ありがとうだよ」


きっかけは視聴者の言葉だった

容姿を晒して生きる上で、身体的管理は行っているつもりであった。

確かに玄関にある姿見で自分を見ていると、一年前より下腹部が前に出ていると感じる。しかし体重や体脂肪率などは大きく変化していない。


「えーみんなわかっちゃったの凄い!実は昨日、久々にメンバーとラーメン食べっちゃったんだよね。美味しかったー。あとでインスタ乗せるね。…そんなに浮腫んでるのかな?」


頬を摘みながら上目遣いで、定点カメラに近付いてみる。私の瞳の奥を見て見てと言わんばかり。反則ではあるが、意識を逸らせとばかりにアイドルを遂行する。


「いっぱい食べる君が好き」

「ちゃんと運動しろよデブ」

「黙れハゲ荒らしは下がれ」

「えるるん成長期なの?」

「こいつもうすぐ閉経する」

「えるるんが育ったいる」

「そうだね えるるが育っているね ありがとう」

「閉経発言のチー牛4んでー」

「今日も生きててありがとう」

「今日も素敵なことがうまれたね」


感謝も込めてくれる視聴者に報いるために体重管理、健康管理にいっそう励むことにした。

しかし心意気と反して腹は膨らみ続け、実体重も増え始めた。


少しの怒りと、焦燥感。そして恐怖。


微細な精神症状が、日々身体的な症状に移行し始める。いくら寝ても疲れが取れない。だるい。顔面の赤みが取れず、絶えず引き出物が出現する。体重増加に対してはダンスレッスンを増やし、仕事の後ランニングをするが一向に体重が減らない。仕事を増えてきたこともあり、身体的な活動量は増加しているはずなのに。


ここひと月は更に身体症状が悪化の一途を辿った。身体のだるさが異常ではない。


今日も今日とて疲れた体を事故物件に放り込む。本日泊まる事故物件は唯一配信の画角内にベッドが設置しており、ベッドで寝られることができる。

ここの元の住人は単身赴任をしていた、三十代の男性であった。激務でシャワーにも入れず、発狂し叫びながら自らベランダから飛び降りたらしい。彼に連れて行かれないようにしなければ。


斉藤が気を使い、本日夕暮れ時に小島を部屋に送った。早めに休んで欲しいとの気遣いが見えるが、の部屋は事故物件である。小嶋は部屋に入ると同時に、二十四時間配信の画角に滑り込む。


「ふわゆらー。今日はちょっと早いよー。みんなが最近えるるんの体調を気にしてくれるから、今日は早めに寝る予定。でーもお腹が空いちゃってるので、少し自炊しちゃいます。今宵のおかずはお前だサラダチキン」


まだ軽い口調を保てている。大丈夫だ。チャンネルも登録者数も増えてきている。今は少し疲れて、ストレスが溜まっているだけ。仕事があるのは嬉しい事だし。応援してくれる人のために頑張らないと。と自分に言い聞かせながら夕飯を作った。鶏胸肉を塩麹につけ、鍋に放り込む。軽く熱して放置している間に、自身は風呂に入る。このところシャワーばかりであったが、久しぶりに湯船に浸かった。


体がほぐら少しだけ前向きに慣れたかと思ったが、自作したサラダチキンがが全てマドレーヌに変わるという心霊現象で全て無になった。


あ、これ許せない。どうしようもなく許せない。じわじわと怒りの火が燃え上がっていく。何故疲れているのにそんなことをするの?誰がやったの?しかもマドレーヌなんて脂肪と砂糖の塊を私に食べさせるの?また体重が増えるよ。どうしてくれるのまた仕事がなくなったら。

普段では軽く流せるこの現状に、震えている。珍妙心霊現象は精神が安定していたからこそ向き合えていた現象だったのかもしれない。かろうじて視聴者の目があるという認識は飛ばなかったため、「サラダチキン失敗しちゃったよぴえん。不貞寝する」と言い寝支度を始める。

布団に潜り込む前に、画面の外でマドレーヌを一つ一つ、流しに叩き付けて捨てた。


腹部圧迫の影響か頻尿。便秘も治らず、肌荒れが治らない。加えての体重増加。目に見えてアイドルが崩れているのを感じる。

睡眠は取れている。むしろ寝過ぎている。仕事中も注意力散漫になった。バラエティもうまくいかない。

下肢の浮腫も目に見えてひどくなる。脹脛を母指で押すと跡がついた。こうなれば悪いのは心臓か腎臓か。


先日大きな仕事が決まった。ゴールデンタイムのバラエティに久しぶりに出演できるのだ。体調などは崩していられない。

駆け込んだ近隣のクリニックでは、血液検査でも異常は見られなかった。膨らむ腹部は後日他院で腹部エコー、CT を行なったが、異常所見は見られないとのこと。便秘による腹部膨満感が原因だろうと、下剤だけだされて終わった。


ただ腹部エコーの画像を見た際に、小嶋の頭には天啓に似た光が降りてきた。


「私、妊娠しているかも」


本日は小嶋はシェアハウスだった物件に泊まる。二階建ての一軒家を改築して出来た物件で、一階は文具店を営んでおり二階にある六つの部屋が複数人に貸し出せれていた。


部屋の引き戸を開けて早々に、JR山手線浜松町駅の発射メロディが鳴ったので血圧が上がるのを感じる。もうその姿が視聴者に晒されていると言うのに、苛立ちを隠せないでいる。

視聴者に挨拶もせずに雑に荷物を床に置く。不意に自身を写した姿見を見て絶句した。


髪は艶がなくなり、額には吹き出物が三点ほど出来ている。ワンピースからは下腹部飲みが、ぽっこりと出ているのは明らかだった。太ったのではなく妊娠?アイドルの私が?まず身に覚えがない。今日は断続的に腹痛があり、調子が悪い。今私の体はどうなっているの?


頭に巡る言葉の渦から抜け出せずにいると、背後からちゃっちゃっと獣の足音がした。物件は移動してもこの犬みたいな音はついてくるな。何かに縋りたくて、音の方に右手を伸ばす。


「痛っ」


瞬間手に鋭い痛みが走る。

まず確認出来たのは、およそ日常では見ることのない大量の血液。

そして獣の歯形もついていた。


「どこだよ姿見せろ」


全神経が右手に集中する。血が飛び散るのも構わず、右手で床を叩きまくる。見えない獣を叩き殺すために。

いつも一緒にいてくれたじゃん味方じゃなかったの?怒りと悲しさが混ざり、自分の中で膨れ上がる。巨大となった感情を体外に発露するように床を叩き続ける。

結局事務所でライブ配信を気にしていた斉藤が部屋に来るまで、小嶋はおいおいと泣きながら床を叩き続けていた。


病院に駆け込むと、小嶋は治療室へ。斉藤のみ医師に呼び出された。


「小嶋さんのご家族の方でしょうか」

「いえ。…仕事の上司と部下のような関係です」

「そうですか。では彼女のご家族に至急連絡をとってください。おそらく彼女は入院になるでしょう」

「そんなに傷口の状態が悪いのですか」


一瞬間があり、医者が言いにくそうに口を動かす。


「右手の噛み跡、どうみても人間の歯形です」


斉藤は息が詰まるのを感じた。


「小嶋さん本人は犬に噛まれたと繰り返しています。しかし小嶋さんの傷口は犬の咬傷ではない。自分で噛んだのか、人に噛まれたのを隠しているのか我々にはわからない。だが明らかに精神的に混乱している様子も見受けられる。家族の同意があれば入院加療可能です」


斉藤はライブ配信で、いきなり右手を痛がり、やがて床を叩き始める本人を見ていた。

斉藤が医師に経緯を説明しようか迷っていると、小嶋が制止する看護師を振り切り部屋に入ってきた。


「小嶋さん、これは抗生剤ですよ。何かに噛まれたなら点滴しましょう」

「お前らのことなんて信用できるかこっちは妊娠してるんだよ」


医師と看護師が目配せをしている。素人目に見ても、小嶋は正常ではない。


混沌を極めた場に、突如木村が来院した。


「小嶋はね、私が面倒見るからね、このまま帰すよ」


誰もが耳を疑った。斉藤も流石にそれはまずいと思い治療を推進するが、木村とそして小嶋は受け入れなかった。

医療従事者を蔑ろにしての離院。今後当院を受診しても治療は受けられない、との念書にサインしてのことだった。

病院から事務所へ向かう。


「事故物件に住んでから体調が悪いそうだな」

「見てわかるでしょ配信も見てるんだからわかるでしょ。犬が噛んだんだよ。しかもお腹も膨らんできて、ほら今も中からお腹を蹴ったの」


小嶋は力の限り叫ぶ。声量を大きくすれば伝わると思った。一しきり叫ぶと、腹痛に耐えられずその場に蹲る。社員たちはかわいそうな目でこっちを見てきた。木村を除いて。


「医者は原因不明。脂肪でもなければ空気でもないと。大変だったね。無理を押し付けたからね。小嶋には色々負担がかかったのだろう。妊娠したと思う程度に」

「思うじゃない、何かが私のお腹にいるの」


小嶋の主張は変わらなかった。しかし次の小嶋の一言に誰もが耳を疑った。


「何かが腹にいるなら、それ産んじゃえば?」

「何を言ってんの社長」

「生まれてくる物、そのまま受け止めるのが生まれてくる世界にいるものの役目。それが赤ん坊だろうとこの世ならざるものだろうと。どうせなら事故物件の集大成として、出産映像配信しない?」


この男が発している言葉の意味が何一つ理解出来なかった。


不意に小嶋の腹痛が強くなる。先程から、小嶋が疼痛を訴える回数が頻回になってきた。まるで妻の出産時に似ていると斉藤は思った。


「本当に陣痛ならもうやばくないですか?痛みの間隔狭くなってません?」

「なら急いでどこかの事故物件に向かうぞ。事故物件で出産。泊まりますアイドルの集大成。素晴らしいな、えるる。撮るぞ出産を」


小嶋は涎を撒き散らしながら、ただ力の限り周りの人間を睨むことしかできなかった。






存在しない胎児の出産を中継。スタッフたちは「どの画角から取るか」「果たして何が産まれてくるのかわからないが、医者か助産師を呼ぶ必要はあるのか」「このチャンネルはおそらくこれで無期限中止となるそのあとはどうするか」などよもや正常とは限らない話が頭上で繰り広げられているが、今の小嶋の耳には何も入って来ない。


何かを産み出そうとする腹部疼痛の、何と力強いことか。断続的に続く子宮の収縮運動に、全身から冷や汗が溢れ出てくる。抵抗のため、手を握りしめていたため、右手の歯形のついた場所から再出血をしている。痛みを逃すことを目的として、左手にゴムボールを握らされたがあまり意味はない。と陣痛のせいで、小嶋は車内で二回ほど嘔吐した。


事務所で産むことが決まった後の記憶は曖昧だ。気がつくと小嶋は、何度か訪れた一家心中のあった館のリビングに寝かされていた。煎餅布団に転がされ、それからいく人もの人間が頭上で何かしらをしている。その中に社長が懇意にしているお祓い師、知り合いの伝手で捕まった医師もいるらしい。布団の周りを大量のタオルやガーゼが取り囲む。右腰部にはタライが置かれ、臀部下には処置シーツがこれまた大量に引かれていた。

気の遠くなる回数の陣痛を味わった後、股の間にぬるりという感覚が伝い、目に見えて黒いモヤが広がった。


「今のが破水か」


木村は子供のように飛び跳ねて自身の高揚を表現している。

小嶋は痛みで布団の上をのたうち回るので、長いこと男性二人が必死に抑え込まれていた。


「いだぁい いだい 痛いよお」敵なしの笑顔が消えてしまった。


「いだぁい いだい 痛いよお」女性、男性、子供、老人。小嶋以外のあらゆる人種の声が重なっていく。


「いだぁい いだい 痛いよお」それは臨唱となり、部屋中に増幅して響いた。


穴を押し出し、裂けているのがわかる。

腹部全体が収縮し、異物を押し出す。


何かが出て腹が凹む。


誰彼ともなく「産まれたぁ」との声が聞こえた。


かくして事故物件提示サイト一つの不可解な投稿がされる。

「アイドルが何かを出産。その行方は要として知れない」と燃えた。





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― 新着の感想 ―
完全にアイドルちゃんをモノとして消費し、しゃぶり尽くす。 コンテンツとして。 しかも安全圏から。 普通にジャンルホラーでいんじゃない?
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