ひろしまこくらながさき
【3】
人生の道――それは国道42号線のように、まっすぐな道ばかりではなかった。
子どもの頃、私たちは「新2号線」「新第2号線」と呼んでふざけていた。その道が、父にとっては人生そのものの象徴だったのかもしれない。
私は本当は1963年12月29日生まれのB型だ。
しかし父の事情で、1964年、東京オリンピックの年に生まれたことになっている。昔は出生届が数か月遅れても許されていた。母の生まれた時など、年の暮れに生まれた子を翌年1月1日生まれにしてまとめることも珍しくなかった。だから母の誕生日は昭和8年1月1日。私は「B29」なのである。
昭和38年といえば、坂本九の“SUKIYAKI(上を向いて歩こう)”がアメリカのビルボード誌で1位に輝いた年だ。
涙がこぼれないように上を向いて歩こう――その歌詞は、戦争という時代を乗り越え、さまざまな体験の中で涙をこらえて生きてきた人々の心の琴線に触れた。日本人だけでなくアメリカ人の心にも深く響いた。
音楽の力とは、人の心を柔らかくつなぐ何かなのだと、子どもながらに感じた。
1985年8月12日、日本航空123便墜落事故が起き、520名もの命が奪われた。著名人もその中にいたという。同級生もいた。痛ましい事故だった。その中に坂本九の姿もあった。
私は思った。九は、アメリカに恐れられていたのではないだろうか、と。
1945年、昭和20年の夏。広島市、長崎市に原爆が投下された。元々の第一目標は小倉だったという話もある。その結果、数多くの命が奪われた。落とした側の心に痛みがなかったはずがない。
原発の問題も同じように、日本が実験台にされたという思いを抱かせる出来事だった。しかも二発も。いつか仕返しされるのではないかという恐れが、人々の心の奥に残った。自然か人為か――いつか報いを受ける何かが起こるような予感。罪の重さを感じる怖れが、どこかにあった。
父の名前は「博士」と書いてヒロシ。
その娘が私、マコ。
ヒロシマ・コクラ――名が先。
「来ら」というのは方言である。
2026年1月21日。
誰も見つけられなかった危険人物――それが私、マコなのである。
私の夢は客室乗務員になることだった。
1980年代頃、日本に来て人気を博したユダヤ人の数学者は、危険人物を探す人物だった。しかし私はどこにも見つけられないほど、地下深く沈んでいた。
そして思い返す数字――42。
「42」という数字は、日本では「死に」とつながる語呂として恐れられることもある。だが同時に、人生の節目や旅路の象徴でもある。
父が歩んだ42歳という年は、単なる年齢を超えた人生の分岐点だったのかもしれない。
そして私は今、自分自身の道を歩もうとしている。
父が見たもの、父が信じたもの、そして父が抱えた問い――それを胸に秘めながら。
父が道の先に見たものは何だったのか。
そして、私がこれから進む「42」の道の先には何が待っているのか――。
私はふと立ち止まり、問いかける。
父は本当は、何を信じて歩き続けていたのだろうか。
父が歩んだ四十二年という時間。
それは、ただの年齢ではなかったのかもしれない。
迷い、背負い、誰にも見せない不安を抱えながら、
それでも家族の前では強くあろうとした背中。
黙って煙草をくゆらせていた横顔。
あの沈黙の奥に、どれほどの思いが渦巻いていたのだろう。
私はまだ、父の人生を知らない。
父が何に怯え、何を守ろうとし、
何を信じて歩き続けたのかも知らない。
道は続いている。
父が歩いた道の先を、
いま、私がたどろうとしている。
国道の標識のように、
人生にも行き先を示す印があればいいのにと思う。
けれど現実は、分かれ道の連続だ。
立ち止まるたび、胸の奥が静かに問いかける。
あの日、父の心には何が見えていたのだろう。
あの選択は、誰のためのものだったのだろう。
そして――
私は、どこへ向かおうとしているのだろう。
――第4話へ続く




