《焔の邂逅》
昼下がりの陽光を浴び、ルクシアとミリアは森の奥の修練場から戻る道を辿っていた。
いつもと変わらぬ帰り道。乾いた落ち葉の匂いと、木々の間を縫う微かな風の音。
しかし――。
「……煙?」
ミリアが足を止め、眉を寄せた。ルクシアも視線を上げた。
遠く、空の一角が黒く滲んでいた。
「屋敷の方……!」
ルクシアの声が震えた。次の瞬間、二人は駆け出していた。枝を掻き分け、足を絡ませながら、森を抜ける。
視界がひらけたその先で――屋敷が、赤黒い炎に呑まれていた。
ルクシアの膝が崩れた。彼女の瞳は開かれていたが、何も見ていない。
灰と炎が風に舞い、彼女の銀髪を赤く染めた。
「ルクシア様!」
ミリアはすぐに抱きとめるが、ルクシアの体は石のように硬直し、冷たく震えていた。
――そのとき、炎の向こうに、ひとつの影が浮かび上がった。
黒いフード、仮面、揺れる黒布。燃えさかる赤を背に、静かに佇むその影。
それは――影の一人。
「……!」
ミリアの眼に怒気が宿った。
ゆっくりとルクシアを地面に横たえると、立ち上がり、影の者を睨み据える。
ミリアは腰の剣を抜く。今まで誰にも見せたことのない――鋭く、狂気に似た憤怒の表情。
(たとえ、誰であろうと――許さない…)
駆け出した。剣を振るう。影は軽やかにそれを受け流す。火の粉が舞う中、火花が弾ける。
だが――なにかを感じ取ったミリアはすぐに跳び退き、短剣を自身の胸元に当てる。
「祈りの言葉など、いらない……私はもう唱えた。怒りで!」
叫ぶように、そして――喉の奥から、獣のような音を吐き出した。
その声と共に、ミリアの体内から黒紫の渦が放たれ、唸るように凝結する。
それは異形の影、音を纏った存在――ミリアの妖精。
一方で、影もまたその口元から呻きのような音を漏らし、禍々しい音塊を吐き出す。
異形と異形がぶつかり合う。地面が割れ、空が震える。
「やれ!! 引き裂け!!」
ミリアの叫びに応じて、彼女の妖精がさらに凶暴化する。
怒りが、剣よりも強く響く祈りとなり、音となって妖精に宿る。
二つの妖精は激しくぶつかり合う。
それは音となる。二つの音が交じり合うことなくぶつかり合う。
あたりの空気はその音の衝撃で大きく揺れる.。
木はたわみ、折れる。土はえぐられ飛び散る。
やがて、影の妖精は忌まわしい音を残してその場を後にした。
遠くへ退いていく影を見届けた後も、ミリアはその場に立ち尽くしていた。
「……ルクシア様……もう、誰にも……触れさせません……」
振り返ると、ルクシアが倒れたまま、目を閉じていた。
ミリアはその傍に膝をつき、震える手でそっと彼女の髪を撫でた。
火の粉が舞う空の下で -ミリアの頬に一筋の涙が伝った。
《約束と、芽吹く狂気》
燃え盛る屋敷の裏庭。黒煙が空を焦がし、焼けた木々の匂いが風に溶け込んでいた。
剣戟と咆哮の余韻が、まだ空気の底に微かに残っている。
ルクシアはまだ倒れたままだ。衝撃と記憶の重さに囚われ、眠るように目を閉じている。
その傍に、ミリアがしゃがみ込んでいた。頬に血がついていた。辺境伯の、最期の言葉を受け取ったあの瞬間から、彼女は一滴も涙を流していない。
――「ミリア、お前は……いい子だった。もっと……一緒に……いてやれたらな……ルクシア様を……頼んだぞ……」
老いた騎士の最後の声は、炎の音に消されそうになりながらも、確かにミリアの胸に刻まれた。
そのときの彼女の返答は、迷いのないものだった。
「お任せください。辺境伯様。私が……ルクシア様を守ってみせます。あなたのように。」
そう言った彼女の瞳には、涙も悲しみもなかった。あるのは、研ぎ澄まされた刃のような確信。
辺境伯の亡骸を見送ったあと、ミリアは立ち上がった。
その顔に浮かんでいたのは、どこか満ち足りたような微笑みだった。
「……これで…ルクシア様は私が守るんだ…」
ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟いた。
ゆっくりと振り返り、倒れているルクシアを見下ろす。
ミリアの黒い瞳が、大きく見開かれる。瞳孔がほんのわずかに開き、そこに映るのはルクシアただ一人。
「ルクシア様……あなたは、私だけを見てください。私だけを、頼ってください……」
その声は、優しく、囁くようでいて、どこか不穏だった。
焔に照らされるその横顔は、美しくも、奇妙な静けさを帯びていた。
まるで――先ほどの、影のアニマとそっくりだった。
あの時の敵が、燃え盛る炎を背に立ち尽くしていた姿。
今のミリアは、その構図をなぞるように、闇の輪郭を帯びていた。
ルクシアの髪にそっと手を伸ばす。触れる指がかすかに震えていた。
しかし、それは感傷の震えではなかった。昂ぶりの、歓喜の震えだった。
「ルクシア様……私は、あなたのすべてを守ります。あなたの傷も、過去も、これからも……」
そして、誰にも聞かれない声で、ぽつりと続けた。
「……他の誰にも、触れさせない…そしてもう一度あの歌を…」
風が吹き抜け、ミリアのショートカットの髪を揺らした。
彼女の背後では、屋敷の残骸が崩れ落ち、空を焦がす焔が新たな舌を伸ばしていた。
――その姿に、どこか一瞬、「影」が重なって見えたのは、きっと気のせいではなかった。




