停滞したプロジェクト
バスを降りると、幾重にも連なったビルを見上げた。私の所属する会社だ。何週間ぶりだろう。見慣れた景色に特に感慨はない。これまでも長期出張は年に一、二回のペースであった。だから今日だって、そのくらいの懐かしさだ。
天気は晴れ。ビルの屋上のさらに上、白い雲が何列か棚引いていた。仕事が一つ片付いて、昨日久しぶりに自宅に戻ったばかり。できれば今日は休みたかったのだが、運の悪いことに上役から連絡が先にきていた。いや、先手を打った呼び出しに違いない。いつものこと、上役の常套手段だ。
「九時五十五分きっかりに来てくれ。」
簡潔極まりない指示、その中途半端な時間が私を憂鬱にさせる。おそらく十時ちょうどから会議があるか、新しいプロジェクトが開始されるのだろう。いずれにしても、私が状況把握する前に渦中に放りこむつもりなのだ。新しいミッションを断ったことは一度もなかった。事前に情報が多い方が私としては助かるのだが、今回もそうはさせてくれない。上役が無駄な一手間を使っている。だから、また面倒な話なのだろう。
オフィスの二階、久しぶりに大きなエレベーターとの再会だ。あっという間に目的階まで上がるとドアが開いた。勝手を知ったフロアを進めば、すぐに自分のデスクに着く。
「よお、久しぶり。」
私が席に手をかけたタイミングで、背後から声がかかった。話しかけてきたのはコオオルだ。
「どうも、コオオルさん。お元気そうで。」
「やっと落ち着いたんだって。今日からこっちかい?」
「はい、前の件はとりあえず引き継ぎもして、さっぱりしました。」
「いやいや、ようやくミヤマさんが帰ってきてくれて、よかったよ。」
コオオルはここ数年同じ部署で、気心の知れた職場の先輩だ。そのまま久しぶりにコオオルとの雑談が始まる。
「あんたの顔を見れて嬉しいさ。すぐ忙しくなるだろうがな。」
「忙しく、ですか。まあ、そうかもしれません。今日からは別の仕事だと言われてまして。」
「ウィルダイスさんから?」
それが私の上役の名前だ。
「はい。あの人が厄介ごとを見つけて、いくつかあるカードから一番手頃なのを選ぶ、そんな感じなんでしょうね。」
「また他人事みたいに。」
「会社がうまく回っているなら、それでいいです。」
「新しい件って、まだよく知らないんだろう?」
「はい、全く。」
「そうか、じゃあ俺の口から言うわけにもいかないな。」
独り言のようにコオオルは言って、そして話題を変えて話しかけてくる。
「ナギのやつは長期休暇だ、療養のな。」
「そうなんですか。知りませんでした。」
「おかげでプロジェクトの進捗が怪しくなっている。やつがやってたのは、ほら、データリンクさ。」
「データリンク?」
データリンクとは大型データシステムを構築する案件だ。データシステムはその目的によって性能が大きく異なる。蓄積重視なのか、取り出しやすさが重要なのか、さらに千差万別なデータの形によっても種類は様々だ。その中でもデータリンクと呼ばれるシステムは独自性が強く、現在、社内で動いている大型案件の一つである。
「データリンクに誰が参加しているかは知らなかったです。ナギさん、よくないんですか?」
「命に関わるわけじゃないそうだ。いわゆる『疲れとストレス』さ。プロジェクトがうまくいってないから、それと関係はありそうだけどな。」
「ナギさんはずいぶん真面目ですからね。それならしっかり休んだ方がいい。」
「それに異論はないさ。でも、プロジェクトは誰かが引き継がなきゃいけない。」
私の次の仕事と関係あるのか。そうは思ったが、あれこれ考えてもしかたない。具体の指示や連絡は何もないからだ。
「まあ、なんとかなるんでしょう。中止にする判断がないなら、より優先度の低い仕事の人員からヘルプに入る、いつだってそうですから。」
「まあ、そうだな。でも、リーダー不在のプロジェクトに途中参加なんて、割り振られた方はたまったもんじゃない。」
「そうでしょうね。割り振られる方にとってはクジ引きと同じです。」
「クジかカードゲームか知らないけどな。そんな呑気に言ってられるのも、今日までかもしれないぜ。」
「コオオルさん、なにかご存じなんですか?」
「すぐに分かるさ。ウィルダイスさんに呼び出されただろ。」
私が加わる新しいプロジェクトを、暗に教えてくれているのだろう。そして、コオオルもたぶん巻き込まれている。
「あとナナミさんって知っているよな?」
「もちろん知ってますよ。前にプロジェクトで一緒だったこともあります。」
ここ数年はたまに挨拶を交わす程度の仲だ。最初に彼女と出会った頃と変わらず、今もウィルダイスの元で働いているはずだ。
「その辺とこれから顔を合わせることが多くなるさ。」
「コオオルさんもナナミさんも十時に呼び出されているってわけですか。」
「ははは。俺たち二人はもう二週間も前から足をつっこんでいるさ。まあ、あんたの出番待ちだがな。」
「変なこと言わないで下さいよ。」
「まあ、そういうことだ。」
コオオルはそう言って私の席から離れていった。自分が言うわけにいかない、というわりには随分と情報をくれたものだ。だからと言って、今、私に何か出来るわけではなかった。
久しぶりに本社でのデスクワークだ。散らかった資料をまとめて身の回りを整理、出張中にたまった雑務処理に、稼働システムを確認するルーティンワークもしなくてはならない。作業をしつつ時間を見計らう。
私はせめてもの抵抗に、九時五十一分きっかりに上役の席へ行った。二階上にあるフロアの一番奥がウィルダイスの席だ。フロアの突き当たりまで進むと、その姿を発見した。大柄で品の良い身のこなし。そして声の大きさが見かけの上品さを上回っている。
「お、来たな。まさか今日はのんびりしようなんて思ってないよな。」
ウィルダイスはそう言って笑った。この人は相変わらずだな、私は意識の外で確かめる。
「新しい業務内容について、早めにその中身を確認したいです。」
お互い言葉のやりとりは簡潔に行いたい。だからウィルダイスも、すぐに新しい仕事の話を始めた。
「データリンクのプロジェクトだ。ナギが入院しちまってな。でもリリース時期は変えられない。なんとかしてくれ。」
朝のコオオルとの会話を思い出す。やはりか、別に驚くことじゃないな。
「なんとか・・、はい、まずはいろいろ確認してみます。」
「ああ、このあと、進捗確認のミーティングがあるから、それに参加したらいい。状況が分かるだろう。」
会議開始は十時から。これも予想どおりだ。だからってあまり嬉しくはない。
「コオオルとナナミが二週間前から合流している。追加ヘルプだ。三人でうまくやってくれ。」
ふと気がつくと、わきにコオオルが立っていた。
「コオオルさんと一緒なら心強い。」
私がそう言うと、コオオルが横を向いて言葉を返す。
「いやいや、ウィルダイスさんの最終手段はミヤマさんだって、皆知っている。私はその手伝いをするだけさ。もうすぐリタイヤだしな。」
リタイアまであと二、三年、本人がそう言い出してからもう何年たったのだろう。私よりずっと年上なのは知っているが、年齢までは覚えていない。
「ナナミはどこだ?」
ウィルダイスがそう言うと、コオオルが答える。
「会議の司会役ですから、もう先に会議室で準備中ですよ。」
ナナミはずっとウィルダイス直属で仕事をしている。おそらく今回も監視役を兼ねてのプロジェクト参加だ。
コオオルは私に向きを変え、笑って言う。
「ナナミさんも始まって二週間で、もうだいぶ余裕がない。」
「そうなんですね。」
きっと私もすぐそうなるのだろう。諦めに似た感覚で、私の心の中は平穏なままだ。
「まあ、さっさと行ってくれ。」
私たちに興味をなくしたのか、ウィルダイスはぞんざいに言うと、視線を自分の手元へ移した。これで話は終わりということだ。
「会議はどこで?」
コオオルに聞く。
「上の階、3番の会議室だ。もう移動した方がいい。一緒に行こう。」
「はい、そうですね。」
上役へ簡単に退席の挨拶をすると、私とコオオルはそのまま上の階へ向かった。