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第1話 太陽と太陽




「よし。みんな集まったし、勉強会を始めようか!」


 三好の一声で勉強会メンバーはハンドブックを手元に用意する。先週は自己紹介やお互いを知るための雑談の時間を設けたため、ハンドブックの序文を読んだところで終わってしまっていた。勉強会の時間をまるっとたっぷり使えるのは今日からだ。


「発掘は、土を掘って中に埋まっているものを取り出すことがメインだと思われがちだけど、本当に大切なのは出てきたものを細かく記録することなんだ」


 そう言いながら三好は何冊ものスクラップブックを机の上に並べた。


「もちろん、遺物自体も大切なんだけど、その遺物が、どの位置から、どんな風に、どんな順番で出てきたかもかなり重要なんだよ」


 表紙の厚紙はどれも白茶けて薄く砂の膜がついたようになっている。中の紙もべこべこのよれよれだ。相当古い資料なのか、と興味本位で表紙を見た榎田が驚きの声を上げた。


「え、これまだ4年前の?しかも全部同じ月じゃないすか」

「そう!これはひと月分。アンクレナイ遺跡の発掘作業中にみんなでとったメモをまとめてあるんだ」


 一冊手にとった草壁がぱらぱらとめくる。遺跡全体を写した写真や発掘されたものの素描、遺跡の断面図などさまざまな情報が凝縮されていた。草壁につられて青柳と榎田も冊子を手にして中身を見た。すごいでしょ、と自慢げな三好の言葉に二年生組はこくこくと頷く。それを見て、満足げに胸を張ると三好はにかっと笑った。


「この通り、発掘に必要な能力は忍耐力とメモ魔であること!そしてもうひとつ、体力だ!」


 力拳を作ってみせると、シャムスがすかさず横から口を挟む。


「三好はへなちょこに見えるけど、意外と体力ある。でも日焼けしない日がないから、お肌はぼろぼろ」

「シャムス、余計なこと言わなくていいから……」


 そんなに?と気にして自分の頬をペタペタと触る三好を置いて、杉崎がシャムスの顔をまじまじと見る。

 

「シャムスも同じ環境にいたのにお肌綺麗だよね」

「く、悔しいけど……確かに……」


 無遠慮に杉崎に頬を摘まれてもシャムスは抵抗せずじっとしていた。その柔らかできめ細やかな肌を、青柳が顔を歪めて観察している。

 

「アルガンオイル塗ってるからかな。アシャクールは男も女もみんな塗る」


 もともと気候に順応してて肌が丈夫なのもあるけど、と言いながら席を立つと、教授室の奥から何かを持ってきた。


「デーツも肌にいいのかもしれない」

「デーツ?」

「日本語だとナツメヤシ。わたしたちがよく食べるおやつなの。ナッツと一緒に食べるとおいしいんだよ」


 そう言いながらシャムスは杉崎と青柳の手のひらにデーツとミックスナッツを乗せた。


「なんか……あの……」

「陽子ちゃん、それ以上何も言わないでよ?」


 初めて見る食べ物に青柳は身構えている。茶色いかりんとうのような見た目だ。言いたいことはわかる、と思いながら杉崎は言葉を制す。シャムスが口の中に放り込んだのを見て、ふたりは意を決して口の中に入れた。


「ん~~~!おいしい!」

「本当だ!ナッツ合う!」

「栄養補給もできるし、お腹に溜まるし、休憩時間になるとみんなで食べる。美容にもいい」


 へぇ!と女性ふたりが目を輝かせているのを見つつ、三好が両手を打つ。


「はいはい、デーツおいしいけど脱線しないで~話戻すよ」


 冊子のひとつを手にとると、全員が見えるように大きく広げる。そこには「アンクレナイ遺跡(Ancrenai Ruins)」と書かれていた。


「今日は僕が発掘を担当しているアンクレナイ遺跡について話そうと思うよ」


 アンクレナイ遺跡は、ベェル・エルの首都シェイラとアディール王国国境のちょうど中間点にある。炭素年代測定によって主にA.D.400~500年頃の遺跡であると判明した。東西に門を構え、城壁に囲まれた城塞都市だったようだ。遺跡の調査はベェル・エル政府の管理の元、ラバフとNGOが協力して行なっている。そこまで三好が説明すると、元気よく榎田が手を挙げた。


「はい!ラバフって何ですか?」

「ラバフは、ラトエル教の社会主義的な共同体のことだよ」


 その質問に答えたのは茂木だった。三好がこくりと頷く。


「そう。ラバフの人たちは個人資産を持たず、働いて稼ぐ人、家事をする人、それぞれの役割をみんなで分担して生活してるんだ」

「独自で疑似通貨を作って、毎月みんな同じ金額を分配しているんですよね」


 草壁が小さな声でぼそぼそと呟くと三好が何度も頷いた。


「草壁くん、よく知ってるね。さすが国政学科の学生さんだ」


 褒め言葉に反応することなく、草壁は小さく会釈して口を噤んだ。隣に座っていた榎田が腕組みをして感嘆を漏らす。


「は〜〜〜みんなが得意なことだけをして生活できると思うと、そういうのも有りっすね」

「確かに合理的だけど……みんなが怠け者だったら成立しませんよね?私だったらサボっちゃうかも」


 榎田と青柳が顔を見合わせる。確かに、と呟く榎田に青柳が、そうでしょ、と返す。ふたりのやりとりを見て同意するように茂木と杉崎も笑った。


「子供や高齢者、障害がある人、病気や怪我で一時的に勤労ができない人を除いて働かない人はラバフにはいられない。そこはとってもシビアなんだ」


 三好も笑いつつ、徐々にその表情を真面目に切り替えていく。


「だからこそ、きちんと勤労する人のことはいくらでも受け入れる。その信条を活かして僕たちアルケーに協力してもらっているんだ」


 ARCHE(Alliance for Restoration of Cultural Heritage and Education)は、通称アルケーと呼ばれている日本発の国際NGO団体だ。戦乱地域に近く、比較的平和が保たれているベェル・エルに本部を置いており、難民や戦災孤児の保護と社会復帰のための教育を行っている。

社会復帰と簡単に言っても人によっては言語学習や資格習得が難しい場合もある。そんな人々が社会復帰できるよう、ラバフの協力のもと、遺跡発掘を勤労としてラバフの一員となる道も用意しているのだ。ラバフの人々は共同体の存続のため、共同体のあり方を尊重する者であれば難民や孤児を積極的に受け入れてくれる。見事な互恵関係を作り出したアルケーをベェル・エル政府は評価していた。だからこそ、ベェル・エル大学院を卒業後、アルケーに所属していた三好がアンクレナイ遺跡の発掘を担当することをベェル・エル政府が許可したのだ。


「日本が作った団体だったんですね。知らなかったぁ」

「え、知らなかった……?」


 青柳がスマホで検索してしみじみと呟くと、草壁が眉間に皺を寄せた。軽蔑するような視線で見つめられ、青柳は身を縮めた。おそらく国際政治学科の学生は知っていて当たり前のことなのだろう。己の無知を突きつけられているようで青柳は居心地が悪くなった。その空気を知ってか知らずか、俺も知らなーい、と笑う榎田のおかげで空気が緩んだ。


「発掘の様子はWorldTubeにもあげてるんだけど、見たことある?」


 タブレットで動画アプリ――WorldTubeを立ち上げてアルケーのチャンネルを開く。全員が見えるように自立式のカバーでタブレットを立てると、すいすいと画面を撫でて投稿一覧の中から動画を探し始めた。


「最近は動画あげてないんすね?」


 全部4年前で止まってる、と榎田が笑うと、三好は弱ったように眉尻を下げて頭を掻いた。


「痛いところ突かれたな。実は撮るのはできるんだけど、編集はできなくて……今までアルケーとラバフの人たちがやってくれてたんだよね」


 帰国してからも国内の発掘現場に顔を出したりしているためネタはあるものの、そういう事情で投稿ができていないのだという。一覧の中でもっとも新しい動画を探し出してタップする。

 動画はアンクレナイ遺跡の中に入っていくところから始まった。アルケーやラバフの人々が発掘をしている様子や半截の断面、出土したばかりの遺物が映る。ある程度真面目な説明が終わると、発掘に従事している人々の自然体な姿に変わった。ベェル・エル人も日本人も紅茶を飲みながら談笑している。発掘中の真剣な顔つきとは違って朗らかな様子で、つかの間の休憩時間を楽しんでいるようだ。最後にカメラがぐるんと回ってヘルメット姿の三好が映る。にこにこと笑いながら手を振って、そこで動画は終わった。


「ねえ……三好センセーの格好、ちょっともっさりしすぎだと思わない?」


 動画の向こうとはいえ、発掘を身近に感じて高揚した空気を払うように杉崎が冷ややかな声を出した。その言葉に2年生組は先ほどの動画を思い返そうと視線を宙に投げる。


「えっ、いやいや!普通だってば!みんなだってこういう格好するんだからね!」

「いや、前も言ったけど割烹着着てるの三好センセーだけじゃん?」

「た、確かにそうなんだけど、割烹着ってすごく便利なんだよ?向こうに割烹着がないだけで、あったらみんな着てるよ!」


 ポッケついてるし、手首がゴムでしまると砂入ってこないし、とぶつぶつ言いながら口を尖らせる。その様子に一同の中から少し笑いが起こった。


「割烹着は置いといて、服装はすごく大事。日差しもあるし、土や砂埃だらけだからすごく汚れる」


 シャムスの言葉に気を持ち直して、三好は動画の中の人々を指差した。


「特に西アジアの発掘は日を遮るものがないから、日除けと日焼け対策は必須なんだ。ほら、こうやってヘルメットに巻くウレタンのつばなんかもあるんだよ」


 ベェル・エル人の中には白い布を基調とした民族衣装のようなものを着ているだけで何も被っていない人もいるが、日本人はしっかりヘルメットを被っている。


「暑そうなのにみんな長袖なんですね」


 画面の向こうから伝わってくる暑そうな天候をものともせず、日本人ベェル・エル人ともに全員長袖だ。青柳が何気なく気づいたことに三好は嬉しそうな顔をして頷いた。


「そうなんだ。ヘルメット、長袖長ズボン、軍手は必須。使っている道具や出土したものによる怪我も結構あるからね」

「おしゃれとは程遠い。みんな三好みたいになる」

「発掘におしゃれは必要ないからいいの!」


 三好とシャムスの夫婦漫才のようなやりとりを聞き流しながら動画を見ていた草壁がコメント欄に目を留める。そこには都市伝説じみたことで盛り上がっている視聴者のやりとりがあった。


――テト煉瓦ってオーパーツなんじゃね?


「この、テト煉瓦って何ですか?」


 雑談に片足を突っ込んでいた他の面々の視線が草壁に注がれる。一気に注目を集めてしまったことに驚いて、草壁は目を見開いてから俯いた。


「その単語、陽子ちゃんが三好先生に告白したときに聞いた気がするなぁ」

「榎田くん、告白のことはいいから……!」

「ふふふ、いい質問だね」


 三好はにんまりと笑いながら段ボールの中から布に包まれたものを取り出す。布をゆっくりと開くと、手のひらほどの大きさの煉瓦が現れた。焼き締められた薄茶色の煉瓦の表面には、ピンクや緑、白、青色などさまざまな色の小さな石がいくつも埋め込まれている。


「これがテト煉瓦だよ。欠けて鋭利になってるところがあるから、触るときは必ず軍手をしてね。あ、みんな軍手持ってきた?」


 三好がそう言いながら軍手をはめると、一同は肯定の返事をしながらそれぞれ軍手を取り出した。


「これは僕が実際にアンクレナイ遺跡で発掘したものだ。こうやって光を当てると、いろんな色の石が埋め込まれているのがわかると思う」


 ライトを取り出して当ててみると、その光を拾って混ぜ込まれた石がキラキラと輝いた。本当だ、と溜め息を吐くように2年生組が声を揃える。


「テトはベェル・エルの言葉で宝石のことなんだよ」


 シャムスの解説にその場にいた皆が納得した。宝石煉瓦という名がふさわしい代物だ。


「トルマリン、ゼオライト、アパタイトが含まれているんだけど、周辺にそういった石が採れる場所は見つかってない。まぁ、アンクレナイは交易路上にあったから、宝石や鉱石が流れてくる可能性はある」


 でも、と一拍置いてから三好が楽しげに目を細める。


「商隊が運んできた貴重な宝石たちを、粘土に混ぜ込んで焼くと思う?」


 その言葉がなんともミステリアスな雰囲気を孕んでいて、テト煉瓦について知っている茂木と杉崎も思わず息を飲んだ。


「さらに興味深いことに、このテト煉瓦はアンクレナイの建設より100年以上前に作られていることがわかってるんだ」

「つ、つまり……どういうこと?」


 ごくりと生唾を飲み込んだ榎田が首を傾げる。それを見て茂木がわざとらしく前につんのめった。


「つまり、商隊が運んできた宝石を使ってアンクレナイで作られたんじゃなくて、宝石が採れるようなどこか別の場所で100年以上前にすでに作られたものが持ち込まれた可能性がある、ってことだね」


 ずれた眼鏡の位置を直しながら苦笑して答える。


「そうなると……テト煉瓦って何なんだろう」


 青柳の言葉に導かれるように一同は目の前に置かれたテト煉瓦をじっと見つめた。途端にテト煉瓦が光り輝いて見えてくる。中に埋め込まれた宝石と同じ、色とりどりの光が自分たちの顔にてらてらと当たって光っているように感じた。


「そう。この煉瓦はどこからきたのか、なぜ宝石が混ぜ込まれることになったのか」


三好が教授の顔から夢見る少年の顔になる。


「ロマン、あるでしょ?」




 ☼ ☼ ☼




 テト煉瓦の話が終わると、早速実習になった。粘土質の土の中に石を埋め込んで乾かしたブロックと竹べら、手ぼうきが配られ、実際に石を掘りだしてみるという実習だった。皆、三好が用意した割烹着を着て作業をした。

 青柳は三好に会えるということで思い切り可愛い服を着てきていた。胸元にリボンをあしらったとろみ素材の白いブラウスに、ペールピンク地の花柄スカートという、それはそれは可愛い組み合わせ。しかし、それらは割烹着に覆われてしまって、三好にはあまり見てもらえずに勉強会の時間が終わってしまった。


(三好教授にアピールできなかったなぁ……)


 勉強会を終えた帰り道、一人暮らしをしている家までの道をしょんぼりしながら歩く。青柳の頭に思い出されるのは、自らも割烹着を着て楽しそうに竹べらの使い方を語っていた三好の姿だ。そもそも三好は割烹着を着る前の青柳を特別注視している素振りもなかった。


(三好教授は可愛い服とか女性にあんまり興味がないのかも……?)


 他の勉強会メンバーの姿も思い返す。皆、動きやすいシンプルな格好をしてきていた。同じ女性の杉崎はネイルもしていなかった。先週の顔合わせのときは、綺麗なフレンチネイルをしていた記憶があったのだが――


(私だけ取り組む姿勢が違うなぁ……)


 自分だけが色恋に浮かれて、不真面目な気がしてくる。


――え、知らなかった……?


 草壁の突き刺すような軽蔑の眼差しが頭をよぎって、青柳は鞄の持ち手をぎゅうと握り締めた。


 青柳陽子の夢は子供の頃から変わっていない。「お嫁さんになること」だ。

 多くの女の子が一度は通る道だろう。そして、成長するにつれて世界が広がることで違う夢を抱き、忘れていく。

 成長して世界が広がっても青柳の夢は変わらなかった。子供の頃は可愛いウェディングドレスを着ることを夢見て「お嫁さん」がいいと言っていたのかもしれないが、成長するにつれても夢が変わらなかったのは青柳の冷静な自己分析からだった。いいや、冷静な自己分析というよりは諦めに近いのかもしれないが――


(私には家事っていう平凡な特技しかないもんなぁ)


 働くビジョンも特にない。周りの友達が大学に行くと言っていたからそこそこに受験勉強を頑張った。三好に出会ったオープンキャンパスだって、行ける大学ならどこでもいいと、たまたま合格圏の大学だから足を運んだだけだ。レールが敷かれている高校までとは違う、自分で考えなければいけない大学に戸惑いながらも、何とか大学生をしている。時がきたら適当に就職して、適当に出会った誰かと結婚して、専業主婦になるのが自分にとっては一番幸せなのだと青柳は思っていた。だからこそ、男性受けの良い可愛い服を着て、ネイルをして、自分という商品を魅力的に見せようとしてる。

 青柳は土と砂埃で汚れたネイルを見て溜め息を吐いた。三好への一目惚れは本当だが、あくまでも非日常だ。この好意が叶えばいいとは思っていない。青柳にとって三好は、自分のつまらない人生を少しだけ変えてくれる「推し」なのだ。


「あーあ、三好教授のお嫁さんになれたらいいのに!」


 軽い気持ちでそんなことを言えるのは、現実として捉えていないからだ。もやもやする気持ちを吐き出すようにぽつりと口に出した。

 それが、いけなかった。


「おい。誰だよそのミヨシって」




 ☼ ☼ ☼




時を少し遡って、勉強会終わり――


「あ、陽子の」


 教授室の鍵を閉める前、忘れ物はないか最後の見回りをしていたところ、シャムスがテーブルの下にピンク色のポーチが落ちているのを見つけた。いつもそのポーチからリップクリームを出しているのを見ていたシャムスは、すぐにそれが化粧ポーチだとわかった。


(陽子おしゃれだから、なかったら困るかも)


「シャムス、もう閉めるけど何かあった?」

「陽子がお化粧ポーチ忘れてる。届けてあげなきゃ」


 シャムスの手の中のポーチを見て、似たような色のスカートを履いていた女学生を思い出す。明日は週末。女性が出かけるのに化粧が必要なことは一応知っている。届けてあげなきゃ、というシャムスの言葉に、三好は同意を込めて頷いた。


「青柳さんのお家は知ってるの?」

「うん。前に教えてもらった。大学から歩ける距離」

「そうか。なら届けてから帰ろう」


 連れ立って部屋から出ると教授室の鍵を閉める。


「一応連絡入れてみる」


 メッセージアプリを開いて青柳に連絡してみる。が、通用口まで来ても既読にならなかった。


「急いだら追いつくかもしれない」

「よし、じゃあタクシー拾って……って、ちょっと待ってシャムス!走るの!?」


 僕追いつけないよ!?と叫ぶ三好の情けない声が通用口にこだまして、警備員たちが苦笑いした。




「陽子、いた」


 全速力で走った甲斐あって、シャムスは青柳にあと10mというところまで追いついた。追いついた、が、青柳の様子がおかしい。


「や、やめて!やめてください……ッ」


 誰かと揉めているようだが、その相手は建物の陰に隠れて見えない。誰かに腕を引かれているのか、青柳はどんどん雑居ビルの間に引きずり込まれていく。金曜の夜は繁華街に人が集中して、住宅地近くは人気がない。誰も気に留める人がいなかった。


「だっ、だれか……!」


 青柳の声が不自然に途切れ、ビリッと布が裂ける音が聞こえる。シャムスの紫色の瞳の奥で、瞳孔がきゅっと絞られて細くなった。


「誰なんだよミヨシって!なぁ、陽子ちゃん!」

「あ、あなたこそ誰ですか!?」


 青柳は破られてあらわになった腕を背後に隠しながらじりじりと後退りする。目の前の男には見覚えがある。ここ数週間、家や大学の近くをうろついていた男だ。つけ狙われている気がしていたものの、まさか接触はしてこないだろうと高を括っていた。今までの経験で培った勘がそう言っていた。こうやって男に迫られたり襲われたりすることは、今が初めてではない。初めてではないにせよ、やはり怖いものは怖い。震える声を張り上げる。


「それ以上近づいたら、警察呼びますから……!」


 その言葉に逆上した男が掴みかかってきた。


(ぎゃー!これで逃げてくれるような男じゃなかった!)


 心の中で後悔しながらぎゅっと目を閉じる。そのとき――甘いような辛いような香りが鼻をくすぐった。

ぐえっ!という男の呻き声に薄目を開ければ、その視界に男はいなかった。代わりに誰かが青柳の前で仁王立ちしている。樺茶色の長い髪の合間で揺れるゴールドのフープピアス。よろめきながら立ち上がる男に、綺麗な回し蹴りを食らわせた褐色の脚。


「しゃ、シャムス……!?」


 シャムスは振り返ることなく、鼻血を出しながら後退る男をどんどん壁に追い込んでいく。片手で胸倉をむんずと掴むと、壁に擦りつけながらゆっくり立たせ、そのまま足がつかないほど持ち上げてしまった。


「陽子に何したの?」


 紫色の双眸が冷たく男を見上げる。


「ねえ、何しようとしたの?」


 さらに上に持ち上げると、重力で男の首元が締まっていく。男が顔を真っ青にして震える声を捻り出す。


「お、俺は、陽子ちゃんのことが、好きなだけで……」

「好きなのにひどいことしたの?」


 ちらりと振り返り、青柳のブラウスの袖が破れているのを確認すると、シャムスは男を引き寄せて左手で一発頬を殴った。


「好きな人にはこんなことしない。好きな人の可愛い服に、こんなことしない」


 振り返ったシャムスの目は、いつもの穏やかなものとは違っていた。男の顎先から血がとめどなくぽたぽたと垂れている。シャムスから滲み出る迫力に気圧されながらも、青柳はシャムスに近づいてその腕を掴んだ。


「シャムス……私はもう、大丈夫だから……」


 そんな青柳をシャムスは冷ややかで揺るがない目で見つめる。


「それは大丈夫っていわない。わたしは許さない」


 もう一発殴ろうとシャムスが振り被ったとき、ばたばたと駆けてくる音が聞こえてきた。


「シャムスやめろッ!ダメだッ!」


 飛び込んできたのは三好だった。シャムスの目の前に飛び込んで視界を遮りながら、男の胸倉を掴んでいる腕に触れる。


「これ以上殴ったらこの人は死ぬ。わかるだろ、シャムス」


 低く穏やかに諭すように言われて、やっとシャムスは三好の目を見た。鋭い視線が緩み始める。少し目を見開くとゆっくりと手を離して男を解放した。

 110番通報をしてから警察官が現場に到着するまでの間、三好はシャムスの腕を掴んだまま離さなかった。


 男は暴行未遂ということで連行されることになったが、シャムスは過剰防衛だと厳重注意されることとなった。被害者である青柳は袖を破かれているのみなのに対して、男は鼻を骨折して顔面が血塗れだったからだ。


「お姉さんも、あんまり隙のある格好しないほうがいいよ?この辺、夜は一本裏道入ったら物騒なんだから」


 警察官が呆れたように言うのを聞いて三好は眉をぴくりと動かした。今どき聞かない理不尽な物言いだ。


「いや、それは違うんじゃないですか?」

「先生はもう少し先生らしい格好してください。間違えて逮捕するところでしたよ」

「う……」


 己のシャツとスラックスのよれよれ具合を見れば、警察官がそう言うのも仕方ない。そう思うと三好は何も言えなくなって頭を掻いた。


「可愛くてふわふわな服を着て何が悪い。そういう服を着てるから襲われてもいいんだなんてこと、ない」

「シャムス……」


 男をパトカーに乗せる警察官の背中を睨むようにしてシャムスが呟く。それは青柳にとって心を救ってくれるような言葉だった。


「変なことするやつが悪いんだから、陽子はこれからもかわいいでいい。わたしは陽子のかわいい、大好きだよ」


 青柳の見開いた瞳をぐるりと涙が覆う。


(違う。違うの――警察にそう言われても仕方ない。実際、私は男の人にモテたくて、そういう服を着てるんだもん……!)


 見つめてくるシャムスの目があまりにもまっすぐで、青柳は唇を噛み締めて俯いた。


(でも、そんなこと言われたら、嬉しくないわけないじゃん……)


「うう、どうせなら……三好教授に助けられたかった……」


 照れ隠しに青柳は減らず口を叩いた。


「三好はへなちょこだから無理」

「うん。僕はへなちょこだから無理」


 シャムスと三好は示し合わせたかのように同時に首を横に振った。

 

「さっきのを見て気づいてるかもしれないけど、シャムスたちアシャクール族は普通の人間より筋力も体力もあるんだ。家畜を抱えて長い道のりを移動するからみたいなんだけど」


 家までの道を3人で歩く間に三好が話し出した。さっきの、と言われて青柳の脳内には男を軽々と片手で持ち上げていたシャムスの姿が思い出される。あのときは呆然としすぎて気にならなかったが、確かに尋常ではない力のはずだ。

 

「え、アシャクール族……?シャムスは、ベェル・エル人ではないんですか?」


 青柳の言葉に隣のシャムスがこくりと頷く。頷いたまま俯いてしまった。


「アシャクール族はベェル・エルとアディール王国の国境付近に住んでいる遊牧民なんだ。特別に越境権を認められていて、独自の文化を形成してる。ベェル・エルともアディールともルーツが違うんだよ」


 ベェル・エルでも幻の遊牧民と呼ばれているんだ、と嬉しそうに話す三好と、少し陰を帯びたシャムスのコントラストが青柳は少し気にかかった。


「ここが私の家です。もうここまでで」

「大丈夫じゃない。部屋に入って鍵かけるまで見てから帰る」


 安アパートの外階段の下で別れようとした青柳だったが、シャムスの気迫に押されて言葉を飲み込んだ。助けてもらった手前仕方なく外階段を上がっていくとシャムスは当たり前のようについてきた。三好は階段下で待っている。

 さて鍵を出そうというところで手が震えていることに気づいた。


(あ、あれ……?)

 

 今になって恐怖が襲ってきたようだ。破れた布地が素肌を撫でたことで記憶が蘇る。


「何かあったら、わたしが守るから」


 震える手が握られ、甘くて辛い香りと温もりに包まれると手の震えがぴたりと止まった。シャムスが青柳をぎゅうっと抱き締めている。

 

「わたしの強さは、守るためにあるから」


 優しく、静かで、でも覚悟の決まった声色――至近距離で視線がかち合う。キラリと光った光彩が、まるで宝石のようだった。

 

「怖くなったらいつでも連絡して」


 青柳が部屋に入るとシャムスはひらひらと手を振った。ドアを閉めて鍵をかけ、チェーンをするとドアの向こうの足音は遠ざかっていった。

 ゆっくりとその場にしゃがみ込むと、青柳は膝に顔を埋めた。シャムスの優しさに照らされた自分の浅はかさが恥ずかしくて、そして、どうしようもなくほっとして、ぽろぽろと涙が止まらなかった。




 ☼ ☼ ☼




 授業中、青柳は机の上に置いたスマホの画面に指を滑らせていた。講義を聞き流しながら検索していたのは「アシャクール族」という単語。検索しても検索しても、そういう遊牧民がいることに触れる古いサイトは見つかるものの、詳しいことは書かれていない。「アシャクール」で検索すれば、もしかして、のあとに違う単語が続く。青柳はがっかりしてスマホの画面を閉じた。

 海外のサイトには情報があるかもしれないが、そういえばスペルもわからない。シャムスのことをほとんど何も知らないのだと思い知らされた。


――陽子、わたしと友達になって


(私のことを守るために一生懸命になってくれた人のこと――友達のこと、私、何も知らないんだ……)


 いつのまにか青柳の中でシャムスのことをもっと知りたいという気持ちが生まれていた。三好への下心で飛び込んだ発掘や考古学の世界だが、その学習でシャムスのことも知れると思えば気持ちの入り方が変わってくる。


「陽子、授業終わったよ?」


 隣で講義を聞いていたシャムスに肩をつつかれた。純粋な紫色の瞳を見て、青柳は意を決したように唇を引き結ぶ。

 

「私、ずっとお嫁さんになるのが夢だったの」


 突然始まった話に目をぱちくりさせるも、シャムスは何も言わずに膝の上に手を置いて聞く体勢になった。

 

「他のみんなと違って特にやりたいことなんかなかったから、いい大学に入って、いい会社に入って、いい人を見つけて結婚して、専業主婦になればいいやって考えてた。それしか、私にはできないって諦めてた」


 口にすれば余計に自分の情けなさを実感する。青柳は膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締めた。

 

「お嫁さんになりたいって夢も、三好教授のことが好きなのも嘘じゃない。けど……今は、純粋にシャムスと考古学に興味が出てきたの」


 すう、っと息を吸い込むと、シャムスの目を見てから勢いよく頭を下げた。


「私、もっとシャムスのことが知りたい!今からでも、友達になってください!」


 垂れた頭からさらりと髪が流れ落ちる。綺麗に手入れされたボブヘアの間から赤く染まった耳が覗いているのを見て、シャムスは目を見開いた。

 

「やだ」

「えっ」


 予想外の返答にバッと顔を上げた青柳の目の前には、下瞼を押し上げるようにして嬉しそうに目を細めるシャムスがいた。

 

「陽子はもう友達だし」


 ふん、と鼻を鳴らしてからシャムスは膝の上で握り締められていた青柳の手をとる。

 

「うまれてはじめて友達になってって言われた。嬉しいから、親友に昇格」


 繋いだ手をぶんぶんと振りながら頬を上気させる様子がなんだか可愛らしくて、青柳は小さく笑いを漏らした。


「わかった。親友になろう」


 青柳がそう答えると、表情に乏しいながらもシャムスが嬉しそうに口元を緩める。その口元はすぐに引き締められ、ふと真剣な顔になった。

 

「ひとつ訂正したいんだけど、専業主婦になる夢も立派な夢だし、家事ができることも立派な能力だよ」


 シャムスの言葉に今度は青柳が目を見開く番だった。教室を出入りする学生たちのざわめきが聞こえなくなる。

 

「陽子の部屋、すごくきれいだった。ちゃんと生活してる人の部屋だった。わたしも三好も家事ぜんぶ苦手だから、尊敬する」


 取るに足らない自分の能力を肯定してくれた。凡庸だと思っていた特技を個性だと、言葉に出して認めてくれた。 


「陽子の特技、いつか絶対に誰かを助けられる」

「ありがとう……シャムス」


 握り締めた手がより一層温かく感じた。




「ということで、私、自分のできる範囲でベェル・エルとアディールのこといろいろと調べてみました!」

「経緯はちょっとよくわからないけど、その知的好奇心はすばらしいね」


 勉強会の日、元気よく言い放った青柳に茂木はぱちぱちと拍手した。


「アンクレナイ遺跡のある場所のことだし、知っておいて損はないね。僕も当たり前のことすぎて国の話をするのをすっかり忘れてたよ」


 聞かせてくれるかな、と三好に微笑まれると、青柳はより一層やる気をみなぎらせて両目に炎を燃やした。


「はい!じゃあ、ベェル・エルと隣国アディール王国のプロフィールや宗教について発表します!」


 ベェル・エル(Veil El)は約5万平方キロメートルの国土に1,100万人が住む国だ。首都はシェイラ。主な産業は、ハイテク産業、IT産業、医薬品、農業、観光業で、アメリカやヨーロッパ諸国の後ろ盾を受けて安定的に成長している。世界的にも信徒が多いラトエル教を国教に据えている。ラトエル教とは、唯一神エルを信じ、救いを求める一神教だ。日本国内にもいくつか教会がある。戒律はそこまで厳しくなく、アメリカやヨーロッパから影響を受けて比較的緩めの信仰生活を送っている。共和制政治を行い、大統領がトップだ。


 一方、ベェル・エルの西にあるアディール王国(Kingdom of Adeal)は、9万平方キロメートルの領土に1,300万人の国民が住んでいる。アディドという街が首都だ。石油、繊維、皮革、植物油、製粉、食品、建築材料、鉱石を主な産業としている。国教は、ベェル・エルと同じ唯一神エルと預言者ディルトナを信じる一神教――エルトーナ教だ。他のエルトーナ教国を統べる存在でもある。アディール家の血族が代々王座に就き、絶対君主制を布いている。


「と、まぁ……ネットの知識まとめただけなんですけど」


 恥ずかしそうに尻すぼみにそう言うと、真っ先に榎田が手を叩いた。 


「陽子ちゃんすげー!わかりやすい!」

「いや、こんなの常識では……」


 榎田に褒められてまんざらでもない顔になった青柳を見て、草壁が呆れたように目を眇める。

 

「周辺諸国のことならまだしも、遠い国のことって興味ないと調べないものよ?国政さんたちはエリートだから感覚が違うか」


 杉崎がにやにやしながらそう言うと、草壁はふいっと顔を背けた。


「よく調べられてるね!ありがとう、青柳さん」

「でも、シャムスの一族についてはあんまり情報がありませんでした……」


 至極残念そうに青柳の口から漏れたその言葉に、シャムスの表情が一瞬強張る。シャムスの一族って?と興味津々な榎田を見て、三好は立ち上がった。


「アシャクール族についてはあまり研究が進んでないから、ネット上には情報がないかもしれないね。他の遊牧民と違って、あまり接触を好まないんだ。僕が知ってることを少し説明するね」


 スクラップブックを一冊取り出すと一同の前に広げる。そこにはシャムスと似たような容姿の人々が映った写真が何枚か貼られていた。女性は青い布を肩から斜めにかけ、男性は同じような青い布を頭からすっぽり被っている。皆、青や紫の瞳を興味深そうにこちらへ向けていた。


「まず、シャムスたちアシャクール族は信仰対象がベェル・エルともアディールとも違うんだ。ベェル・エルとアディールでは唯一神エルが信じられているけど、アシャクール族は独自の宗教でシークァっていう谷にいるとされている神を崇めていて、谷を聖域と見なしてるんだよ」


 話しながら三好は床に両膝をついて屈んだ。そのまま床に耳を当てる。


「祈るときはこう、地面に耳や額をつける。こうやって神様を探すんだって」


 聖域は決まっているのに不思議だよね、と三好は笑いながら立ち上がった。へぇ、と感心したように呟く榎田の両隣で青柳と草壁はノートにペンを走らせている。

 

「シークァに入ることは許されない」


 和やかなその場には不釣り合いなほど冷たい声色でシャムスが呟いた。その場にいた全員が声の主を見つめる。


「何があっても、そこに立ち入ってはいけない。たとえ、そこに死にそうな人がいても、規律は規律だから」

「そんなに厳しいんだ……でもそういうところにはみんな入らないようにするんじゃ」

「絶対って、ない。何かの事故で谷に落ちたりすることもある」


 青柳の言葉に被せるように強い口調で答える。シャムスの気迫に青柳はびくりと肩を震わせた。


「……人の命より大切な宗教って、何なの?わたしは宗教なんか信じない。祈りの力なんか存在しない。神話なんかない。全部、現実的な答えがあるはずだと思ってる」


 そう言うと、シャムスは教授室を出ていってしまった。扉が閉まる音が虚しく室内に響く。


「何かいけないこと、言っちゃいましたかね……?」


 心配そうに青柳が振り向くと、三好が両手で頭を抱えてげんなりしていた。


「いや、青柳さんは気にしなくていいよ。まだ整理ついてなかったか……僕が無神経だった」


 ふわふわとした髪が心なしか萎びて見えるほど気落ちしているのがわかる。シャムスが出ていったドアを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「シャムスは、母親をシークァで亡くしてるんだ。助けられたはずなのに、宗教の規律のせいで助けられなかったってずっと恨んでてね……今はもう故郷の宗教が受け入れられなくなってる。宗教はルーツでもあるから、僕は嫌ってほしくないと思ってるんだけど……無理もないね」


――人の命より大切な宗教って、何なの?


 日本に法律で定められた国教はない。日常の中に溶け込んでいる宗教はあるものの、シャムスたちの宗教とは違う次元のものだろう。すべてを理解するのは難しい。

 

「もしかして、シャムスが日本に来たのって、それが原因ですか?」

「一族の中にいづらくなっちゃったみたいで、族長に託されたんだ」


 榎田の問いに、三好が力なく笑って答える。宗教に母親も居場所も奪われたのなら、恨む気持ちもわからなくはない。一同はしんみりと押し黙った。

 

「人を過剰に守ろうとするのも、お母さんに何もできなかった歯痒さからなのかな……」


 あの夜、返り血を浴びながらも守ってくれたシャムスの背中を思い出す。青柳は、そう呟きながらもう一度ドアを見つめた。




 ☼ ☼ ☼




8年前・シークァ――


 月明りに照らされた谷の底に倒れ込んだ人物はピクリとも動かない。シャムスは背後から近づいてきた足音に弾かれるように振り向いた。その足音がよく知る人物のものだとわかれば、その服に縋りつく。


「アーシファ!お母さんが……ッ!お母さんを助けて!アーシファ!」


 ぼろぼろと溢れる涙が、谷底に吸い込まれていく風に浚われる。必死に叫ぶシャムスを静かに見つめてから、アーシファは感情のない声で言った。


「ここは聖域だから入れない。リオラは救えない」


 月光を背に負ったアーシファの表情は読み取れない。ただ、温度のない声がシャムスには恐ろしく感じた。


「入ってはいけないところに入ったのだから、その罰だ」


 後ろに控えていた男たちがシャムスの両腕をとって谷から引き離そうとする。精一杯の抵抗をしても、10歳の子供が大人ふたりの力に敵うわけもない。


「お前のせいではない。これは運命なんだ、シャムシール」


 砂塵の上に跡をつけながらずるずると引きずられていく。懸命に振り返り、戻ろうとするシャムスをアーシファはついに抱え上げた。どんどん谷から遠ざかる。


「いやだ!助けてよッ!どうして助けてくれないの!」

「シャムシール、良い子にしなさい」


 腕の中でじたばたと暴れるシャムスが煩わしくなったのか、アーシファは抱き込む手に力を込め、声を低くした。冷たい視線にひゅっと喉を鳴らしてシャムスは身を縮める。


「わたしは……シャムシールじゃない……」


――シャムス!わたしのかわいいシャムス!


 記憶の中でリオラが優しく微笑みかける。


 「お母さん……ッ」


 シャムスの声は虚しく風に巻き取られていった。




最後まで読んでくださってありがとうございます!

キャラの印象や気になった場面など、教えていただけたらとっても励みになります。

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