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最後の贄

 ◆


 ホラズム王国暦一九八八年、冬至の日。


 王都アスターナの中央に聳える大神殿。その正面に広がる大理石の広場は、夜明け前から集った万余の民衆によって埋め尽くされていた。吐く息は白く、人々の顔には期待と恐怖と、そして何より抗い難い運命を前にした一種の宗教的昂奮が浮かんでいる。


 彼らはこれから執り行われる神聖にして残酷な儀式の目撃者となるべくこの場にいた。


 広場を挟んで二つの勢力が冷たい冬の大気の中、静かに対峙している。


 一方は大神殿の階段に整然と布陣する教会騎士団「神罰の槌」。漆黒の全身鎧に身を固め、その手には神の威光を体現するかのような長大な戦斧が握られている。彼らの背後には神官長アウレリウスが緋色の祭服をまとい、絶対者の代理人としての威厳をみなぎらせて仁王立ちになっていた。


 対するは、広場の入り口を固める国王カーマイン率いる王室近衛軍。磨き上げられた銀の甲冑は冬の弱い光を反射し、その規律正しい隊列は王権の強大さを無言のうちに示している。そしてその軍勢の前面には、聖職者とも学者ともつかぬ、純白の衣をまとった一団──「理と慈悲の御子」の信奉者たちが、武器を持たず、しかし揺るがぬ決意を瞳に宿して佇んでいた。


 それは軍事力と軍事力の対決であると同時に、神話と科学、信仰と思想、そして千年続いた過去と、まだ誰も見ぬ未来との間の最終戦争の始まりに他ならなかった。


 午前九時。大聖堂の鐘が儀式の始まりを告げる重々しい音を響かせ始めた。その音を合図にカーマイン王がただ一人、馬を駆って両軍の中間点まで進み出る。


「静まれ!」


 玉座にある時の凡庸な君主の面影はそこにはない。朗々として、しかし鋼のような硬質さを帯びた声が広場に響き渡ると、あれほど騒がしかった民衆の喧騒が一瞬にして静まった。全ての視線が馬上の一人の男に注がれる。


「我が愛するホラズムの民よ。諸君らは今日、神の御業を見るためにここに集った。二百年に一度の祝福、そのために一人の乙女の命が捧げられる儀式を見るために」


 カーマインはゆっくりと民衆を見渡した。その声に非難の色はない。


「だが私は問いたい。我らが信じる神とは、それほどまでに無力な存在なのか、と。全能であるはずの神が、なぜ我々人間の助けを、か弱き乙女の命という生贄を必要とするのか。神が我々を愛しているというのならば、なぜ最も純粋な愛の姿であるはずの、若き二人の絆を無慈悲に引き裂こうとするのか!」


 それは民衆が長年抱きながらも、神への畏怖ゆえに決して口にすることのできなかった根源的な疑問であった。ざわめきが波のように広がる。カーマインの言葉は偽神教団が各地で撒いてきた「理性の種」に、今まさに水を注いでいたのである。


「神が真に我らの庇護者であるならば、邪教の蔓延を許しはしないはずだ。疫病に苦しむ民を救うはずだ。しかるに神は沈黙し、教会は祈りを強いるのみ。その一方で、最も罪なく、最も美しい魂を贄として要求する。これが、諸君らの信じる正義の姿か!」


 その言葉に、大神殿の階段上からアウレリウスの雷鳴のような怒声が応えた。


「神への冒涜だ、カーマイン! 貴様は王冠の重みに狂ったか! 神の御心は人智の及ぶところにあらず! その深遠なる思慮を疑うことこそ、最大の罪であると知れ!」


 神官長は両腕を天に突き上げた。


「見よ、民よ! 神は怒っておられる! この瀆神の王の言葉に耳を貸せば、王国には神罰が下るであろう! 大地は裂け、空は火を噴き、我らは永遠の闇に閉ざされるのだ! 今こそ我らは、最も清らかなる魂を捧げることで神の怒りを鎮め、再びその御加護を乞わねばならぬ!」


 アウレリウスの扇動は、千年の長きにわたり人々の遺伝子にまで刷り込まれた、根源的な恐怖を巧みに刺激した。民衆の一部は顔を青ざめさせ、その場にひれ伏して祈りの言葉を唱え始める。カーマインの「理性」の光も、アウレリウスが操る「恐怖」の闇の前には、いまだ脆弱であったと言えよう。


 広場の空気は再び神への畏怖に支配されようとしていた。カーマインの計画は、民衆の心という最後の砦を打ち破れぬまま、頓挫するかに見えた。


 ──その時であった。


 ◆


 歴史の膠着状態を打破するのは、計算され尽くした戦略ではなく、一人の人間の計算を度外視した情熱であることがしばしばある。


 大神殿の側面、堅牢に閉ざされた扉が内側から轟音と共に破壊された。中から現れたのは返り血と泥に汚れながらも、その空色の瞳に凄まじい光を宿した王太子ハリス。その腕には、純白の儀式用の衣をまとったイセリナが、固く抱きかかえられていた。


 ハリスは軍務卿ブレンダンが率いる少数の精鋭と共に、王妃ヨハンナからもたらされた秘密の通路の情報を元に大聖堂内部への潜入に成功していたのである。母の裏切りが結果として息子を助けるという皮肉な構図がそこにはあった。


 広場のすべての視線が突如として現れた悲劇の主人公たちに釘付けになる。民衆の間に、驚愕と、そして安堵の混じった声が上がった。


「ハリス様と、イセリナ様だ!」


 アウレリウスの顔が、怒りと憎悪によって醜く歪んだ。


「愚かな王子めが……! 神の生贄を汚すか! 者ども、あの二人を捕らえよ! 儀式を執り行うのだ!」


 教会騎士団が動こうとしたその瞬間、イセリナがハリスの腕から離れ、民衆の前に一人で歩み出た。彼女の顔に涙はなく、ただ凜とした決意だけが満ちていた。その小さな手が掲げたのは神官が彼女に渡そうとした黄金の毒杯。


「私は、これを飲みません」


 静かだが広場の隅々にまで届く、透き通った声であった。


「私は神の道具ではありません。王国に繁栄をもたらすための、物言わぬ生贄でもありません。私は、イセリナ・セレ・フォルティスという、一人の人間です」


 彼女はハリスを振り返り、その目に絶対の信頼と愛を浮かべた。


「そして私は一人の人間として、愛する人と共に生きたいと願っています! もしその願いが神の御心に背くというのなら、私は喜んで神に背きましょう! 神の祝福がなくとも、私たちは自らの手でささやかな幸福を築いてみせます!」


 その言葉が引き金となった。


 それは神の視点ではなく、どこまでも個人の、人間の視点に立った公然たる人間宣言であった。


 その宣言に民衆の心の中で最後の何かが砕け散った。千年間、神の御心のままに生きることが善とされてきた世界で、初めて「個人の幸福」という、あまりに魅力的で、そして危険な思想が光を放ったのである。人々は神に祈るのではなく、苦難の中で愛を貫こうとする若き二人の姿に、自らの未来を重ね合わせた。


 同情は共感へ。共感は、熱狂的な支持へと昇華する。


 その瞬間、民衆の信仰が巨大な潮流となって旧い神から離れていった。集合的無意識という大海から神という名の巨大な幻想が、その存在基盤を根こそぎ引き抜かれたのである。


 不気味な地響きと共に、大神殿そのものが揺れ始めた。民衆が悲鳴を上げて見上げる先、尖塔の頂上に鎮座していた巨大な神の彫像、その慈悲深いとされる顔に一本の亀裂が走った。


 神とは人々の信仰心が生み出した巨大な精神エネルギーの集合体であったのかもしれない。そして今、そのエネルギー供給を絶たれ、実体を失いかけていた。


 要するに、神は死にかけていたのである──いや、殺されかけていた、というべきか。


 ◆


 自らが信じる神が目の前で崩壊していく。この悪夢のような光景を前に、神官長アウレリウスの精神はついに臨界点を超えた。彼の信仰はもはや神を救うためのものではなく、自らの世界が崩壊するのを認めないための、狂気じみた最後の抵抗と化していた。


「おお……おおお、神よ! まだです、まだ終わりませぬ! この不敬なる者どもの血を捧げれば、必ずや御力は……!」


 理性を失ったアウレリウスは祭服の裾を翻し、祭壇から儀式用の短剣を掴み取ると、全ての元凶であるハリスへと猛然と襲いかかった。それは神官ではなく、一匹の獣の動きであった。


 ハリスはイセリナを庇い、身構えた。しかし長距離の逃避行と潜入作戦によって彼の体力は限界に達しており、狂信者の凶刃を避けることは到底不可能であった。


 閃光が走る。だが、ハリスの身体を貫いたのは刃ではなく、彼を突き飛ばす強烈な衝撃。


「父上!?」


 ハリスの目の前には、彼を庇うように立つカーマインの背中があった。そしてその胸には、アウレリウスが握る短剣が柄まで深く突き刺さっていた。


 カーマインは民衆の心が完全に神から離れたことを見届けた後、最後の仕上げのために息子の許へ駆け寄っていたのである。アウレリウスが必ずや()()すると見込んで。王が自らの命を賭して次代の王を守る──これほど雄弁な王権神授の否定、そして人間による国家統治の宣言はなかった。


 確かにカーマインはハリスを神を殺す為の駒とした。しかし、その計画の最終最後には、自身もまた駒となる事を決定づけていたのである。


「……ぐっ……」


 カーマインの口から鮮血が溢れる。だがその瞳には不思議なほどの満足感が浮かんでいる。彼はゆっくりと息子を振り返った。


「ハリス……これで、終わりだ……」


 その言葉を肯定するかのように、天を突く轟音が鳴り響いた。


 大神殿の神像が、ついにその形を保てなくなったのである。亀裂は像全体に広がり、まるで千年の涙を流すかのようにその両目から砂礫がこぼれ落ちた。やがて壮麗であった神の貌は無残に崩落し、胴体が砕け、四肢がもげ落ち、最後には原型を留めない瓦礫の山と化した。


 千年にわたりホラズム王国に君臨した神は、物理的に、そして完全に「死んだ」。


 その象徴的な光景を前に教会騎士団の兵士たちは戦意を喪失し、その場に膝をついた。彼らが命を賭して守ろうとしたものは、今やただの石くれに過ぎない。分かるのだ、彼らには。真に神を信仰していたからこそ、その信仰の源が滅んだことが理屈ではないもっと深い根源的な部分で分かる。


 アウレリウスは崩れ落ちた神像と、カーマインの胸に突き立てた短剣を呆然と見比べ、やがて甲高い絶叫を上げて精神の崩壊に至った。


 神の死と共に教会の権威は完全に失墜した。ホラズム王国における神権政治の時代は国王カーマインの血を最後の生贄として、その幕を閉じたのである。


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ストーリーとしてつながっているわけではないですが、時系列的には上から順番に。最初と最後だと1000年以上開きがある感じ

あっぱっぱーな王太子が存在しない世界線の話
「「常識的に考えろ」と王太子は言った。」

情けない王子が頑張る話。
男らしくない感じの王子がフラつきながらも最終的にはまあ良い感じに収まる感じ。
ハピエン。
「「畜生、死にたいな」と王太子は言った。」

ホラズム王国第二王子のリオンは、何かにつけて兄であるエドワードと比較されていた。
無能ではなくとも相対的評価によって無能だとされてしまう事は往々にしてある。
そうした日々を過ごす内、リオンは自信を失っていき、やがて自身の存在意義にも疑念を抱くほど心を病んでしまう。
しかし彼の心を慰撫してくれる者はいなかった。
婚約者であるイザベラにせよ、兄であるエドワードにせよ、両親でさえも。
そんなある日、リオンはクラウディアという平民の娘と出逢う。
二人の白かった関係は、月が次第に満ちていく様にゆっくりと色づいていく。
ジャンルとしては異世界恋愛ホラーハッピーエンドざまぁ駆け落ち心中リィンカーネーション系です。
「「愛してるよ」と第二王子は言った。」

王太子ユベールはポンコツだった。
彼は完璧公爵令嬢アルミナに劣等感を抱いていた。
しかし彼女も彼女で──
「「何でも言って良いのですか?」と公爵令嬢は言った。」

千年続く神の加護が衰えゆくホラズム王国で、王太子ハリスの婚約者イセリナが「神の花嫁」として生贄に選ばれてしまう。
愛する者を失いたくないハリスは彼女と共に王都から逃亡。
一方、凡庸な王と思われていた国王カーマインは、息子たちを救うため、そして王国を神の軛から解放するため、前代未聞の計画を密かに進めていた。
神権と王権、信仰と理性、千年の伝統と新しい時代の狭間で、それぞれの思惑が交錯する。
果たして若き恋人たちの運命は、そして王国の未来は。
「「神を殺す」と王は言った。」
+注意+

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