人と神
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ホラズム王国がその長き歴史において依存し続けた守護神の力は目に見えて衰え始めていた。かつては豊穣と勝利をもたらした神の加護は薄れ、王国は今や、内外の危機に静かに蝕まれつつあった。この神の黄昏という未曽有の国難に対し、二人の男が全く異なる方法で王国を救おうと立ち上がった。
一人は、神官長アウレリウス。彼は乱世によって人々の信仰心を極限まで煽り、その精神的エネルギーを捧げることで、弱り切った神の力を再び呼び覚まそうとしていた。そのためには邪神教団のような混沌さえも計算のうちであった。
そしてもう一人は、国王カーマイン。彼は、もはや国を守る力のない老いた神に見切りをつけ、神への依存という精神的軛から民を解放し、人の「理性」という新たな神を据えようと画策していた。彼の事業は、比喩ではなく、文字通りの「神殺し」であった。
カーマインの壮大な計画は、二つの戦線で同時に開始された。人心掌握のための各地での実演と、旧き神の権威を失墜させるための王都での情報戦である。
その最初の実験場に選ばれたのが、邪神教団の残党が撒いた疫病によって絶望の坩堝と化した、辺境のナーヴァス村であった。教会が派遣した祈祷師たちの儀式は、衰弱した神の力を反映するかのように何の効果ももたらさない。村が死の静寂に包まれかけた頃、純白の衣をまとった一団が到着した。彼らの胸に輝くのは聖印ではなく、天秤と薬草をかたどった銀の徽章。カーマインが組織した医師団、「理と慈悲の御子に仕える者」であった。
彼らの行動は、祈祷に時を費やす聖職者とは全く異なった。直ちに病人の脈を取り、症状を観察し、井戸水の汚染度を測定する姿は、神の使いというより職人の集団に近い。
「祈りは捧げぬのか?」
痩せこけた村長の問いに、医師団の長エリアス──後にカーマインの「新しき神」の初代司教となる男は、穏やかだが確信に満ちた声で応じた。
「我らが仕える御子は、祈りよりも行動を、嘆きよりも知恵を尊ばれます。この病は、神の罰ではない。水に潜む見えざる毒が原因です。理を解き明かし、それを取り除くことこそが、真の救済なのです」
エリアスたちは清潔な水と食料を分け与え、薬草を調合し、煮沸した湯で病人の体を拭き、栄養価の高い粥を与え続けた。それは奇跡ではなく、当時望みうる最高の医学知識と公衆衛生に基づいた、極めて合理的な処置の連続であった。
数日後、事態は劇的に改善する。高熱の子供たちは熱を引き、死の淵をさまよっていた老人たちは意識を取り戻した。村人たちの不信は驚愕へ、そして熱狂的な感謝へと変わった。彼らがひざまずいたのは、沈黙を守る旧い神の祭壇ではなく、自らの手と知識で命を救った白衣の集団に対してであった。
「ナーヴァスの奇跡」の報は、計算通りに尾ひれをつけられ王国全土へ伝播した。吟遊詩人は歌う。「教会が見捨てし地に、新しき光が差した。その御名は『理』、その御業は『慈悲』」と。これは、無力となった旧き神に対する、カーマインの思想戦における最初の、そして決定的な勝利であった。
この成功を足掛かりに、カーマインの教団は各地で診療所や孤児院を設立した。彼らは天上の玉座から民を見下ろすのではなく、最も苦しむ人々のただ中へ入り込み、その生活を物理的に支えた。信仰とは観念ではなく、日々の糧であり、病を癒す薬である。この単純明快な事実こそが、千年の伝統を誇る巨大教会の足元を根底から腐食させる強力な酸となったのである。
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民衆への浸透(軟策)と並行し、カーマインは教会権威への直接攻撃(硬策)に着手していた。王都アスターナの酒場に、教会の腐敗を告発する怪文書が出回り始めた。十分の一税が神官たちの贅沢に消えているという具体的な内容は、王宮内部からのリークを強く示唆していた。
民衆の怒りは、くすぶっていた教会への不信感に火をつけた。神官長アウレリウスはこの事態に激怒し、カーマイン王の許へ乗り込んだ。彼の怒りは、単なる権威失墜への恐れからではなかった。神の力が衰え、国の守護が揺らいでいるこの時に、民の信仰心を削ぐことは、王国そのものの命脈を絶つに等しい裏切りであった。
「陛下! これは神聖なる教会への許しがたい中傷! そして何より、今まさに御力を失いつつある神にとどめを刺す、悪魔の所業にございます! 黒幕を捕らえ、火刑に処すべきです!」
しかしカーマインは心痛の面持ちで応じる。
「神官長、気持ちは察するが、民の口に戸は立てられぬ。もしこれが事実無根であるならば、会計帳簿を公開し、潔白を証明なさればよい」
それは悪魔的な提案であった。帳簿が腐敗の温床であることは、アウレリウス自身が誰よりも知っている。彼は王の凡庸な仮面の奥に、冷徹な害意を感じ取り戦慄した。この王は、神の衰弱を知った上で、全てを破壊しようとしている。
ここに国王と神官長の対立は、誰の目にも明らかな権力闘争として顕在化した。アウレリウスは説教壇から王を「神の秩序を乱す不敬の徒」と断罪し、民に不服従を煽り始めた。彼にとって、邪神教団による混乱さえ、民の不安を煽り、最終的に神への信仰を強めるための「必要悪」であった。しかし、王による理性的な侵食は、信仰そのものを根絶やしにする「真の悪」であった。
対するカーマインは「王国の法の下では、聖職者も平民も等しい」と宣言し、教会の治外法権を剥奪する法令を公布する。
王権と神権。千年にわたり王国を支えてきた二つの柱は正面から衝突し、ホラズム王国を巨大な思想的内乱へと引きずり込んでいった。民衆も貴族も、そして軍も、いずれ来たるべき日に、衰えゆく旧き神と、生まれようとする新しき神の、どちらを選ぶのかという過酷な選択を迫られることになる。
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歴史の転換期において、個人の運命は時代の象徴、あるいは悲劇の生贄として舞台に引きずり出される。王太子ハリスとイセリナの逃避行はまさにその典型であった。カーマインの情報操作により、彼らは「神の非情に抗う、愛の殉教者」に祭り上げられたが、その日々は過酷で泥臭い現実の連続であった。
偽名を名乗り、平民として暮らす中で、彼らは王宮の壁の内側からは決して見えなかった王国の実情を肌で知った。重税に喘ぐ農民、酷使される労働者、そして教会の高価な祈祷に頼るしかなく、なすすべもなく死んでいく人々の絶望。それは、神の加護がもはやこの国の隅々まで届いていないという、動かぬ証拠であった。
ある夜、ハリスは高熱の幼子を看取り、慟哭する母親の声を薄い壁一枚隔てて聞いた。その声は、彼の理想主義的な正義感を、痛みを伴うものへと変質させた。
「イセリナ……私は何も知らなかった。この国の民が、これほどまでに苦しんでいたとは。神の御加護は、一体どこへ消えてしまったのだ……」
イセリナは汚れた手でそっとその頬を包んだ。
「いいえ、ハリス様。私たちは雲の上から地上を見ていただけ。けれど今は違う。この大地に立ち、人々の痛みを感じることができる。たとえ神が我らを見捨てたとしても、我らは互いに支え合えます」
苦難は二人の絆を、淡い恋心から、過酷な現実を共に乗り越える「戦友」のそれへと鍛え上げていた。
しかし、神官長アウレリウスは、この逃避行を許さなかった。彼は、弱り切った神への信仰を取り戻すための「劇薬」を求めていた。業を煮やした彼は、自らの私兵である狂信的な騎士団「神罰の槌」を解き放つ。教会の教義のためにはいかなる残虐行為も躊躇しない、いわば教会の暗部そのものであった。
ハリスたちが潜む町に、不気味な黒い騎馬の一団が現れた。指揮官の騎士バルドゥスは、酒場にいた二人を見つけると、鉄面皮に歪んだ笑みを浮かべた。
「見つけたぞ、神を裏切りし王子と、国を惑わす魔性の花嫁よ。その罪、自らの命をもって贖うがいい」
抵抗は無意味だった。ハリスは歴戦の騎士たちの前に倒れ伏し、イセリナは悲鳴と共に荒々しく馬上へ引きずり上げられる。薄れゆく意識の中、ハリスは己の無力さを呪い、そして神の代理人を名乗る者たちへの、燃え盛るような憎悪を感じていた。
愛する者を守るという誓いは、無残に砕け散った。数日後、一命を取り留めた彼の心に宿っていた光は消え、代わりに復讐の黒い炎が燃え盛っていた。
「王都へ戻る」傷の癒えぬ体で、彼は決意を告げた。「イセリナを救い出す。そのためならば、悪魔にでも魂を売ろう。たとえ、その相手が父上であったとしても」
若き王子の青春はこの日終わりを告げた。愛と理想の逃避行は、憎悪と絶望を胸に王都へ帰還する、復讐の旅へと姿を変えたのである。
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一個人の悲劇は、国家全体の動乱の触媒となった。イセリナの捕縛は、王国に燻る対立の火種に決定的な風を送り込んだ。貴族社会は明確に二分される。
一方は、神の権威こそが王国の秩序の根幹だと信じる保守派貴族たち。彼らは神の衰弱を肌で感じているからこそ、カーマインの改革を、国の守護を完全に失わせる自殺行為と見なしていた。彼らにとって、イセリナを生贄に捧げることは、神の御心を取り戻し、国家の安寧を維持するために支払うべき、やむを得ない犠牲であった。神官長アウレリウスは、この保守派を巧みに取り込み、反王権の一大勢力を形成しつつあった。
もう一方は、王の改革に未来を見出す革新派貴族たち。この筆頭に立ったのが、イセリナの父、フォルティス公爵であった。娘が捕らえられたという報は、彼から冷静さを奪い去った。彼は領地で兵を挙げ、公然と国王への支持を表明し、王都へと軍を進め始めた。
「もはや神も教会もあるものか! 娘を不当に拘束する者どもは、すべて我が敵である! 我は、国王陛下の忠実なる臣下として、正義の剣を振るう!」
フォルティス公爵の決起は事実上の宣戦布告となり、王国は内乱寸前の危機に陥った。
さて、いかなる動乱の時代も、歴史の裏には異なる論理で動く者たちがいる。ホラズム王宮においてその役を担ったのは王妃ヨハンナであった。彼女は、夫が単なる教会改革に留まらない、実在する神そのものへの反逆という恐ろしい計画を立てていることに気付いていた。千年の信仰の中で育った彼女にとって、それは冒涜の極みであり、愛する息子ハリスをその計画の駒にしたことは許しがたいことであった。
彼女の論理は国家や神学ではない。夫と息子、家族を破滅から救いたいという、母として、妻としての願いであった。
「陛下は狂ってしまわれた……。神の怒りを買えば、ハリスも、この国も滅びてしまう。誰かが止めなければ」
ヨハンナは皮肉にも夫が打倒しようとしている相手、神官長アウレリウスと密かに接触することを決意する。彼女は侍女を介し、取引を持ち掛けた。
「王の計画を阻止するために協力する。その代わり、息子とイセリナ嬢の命の保証を。生贄の儀式は中止していただきたい」
それは、絶望的な状況下で母がなしうる、ぎりぎりの賭けであった。彼女は夫を裏切ることで、息子を救おうとしたのである。この善意から発した行動が、やがてカーマインの計画に致命的な綻びを生じさせることを、この時の彼女は知る由もなかった。
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策謀が策謀を呼ぶ中、物語の引き金となったイセリナは、王都の大神殿の塔に幽閉された。アウレリウスにとって、彼女は堕落した王権を失墜させ、神の権威を再確立するための、最後の、そして最も強力な切り札であった。
彼の計画は冷酷にして壮大であった。冬至の日、大神殿の広場で、万余の民衆が見守る中、生贄の儀式を強行する。それは単なる処刑ではない。民衆の熱狂、恐怖、そして祈りを一つに束ね、それを捧げることで、弱り切った神の力を蘇らせようという、一世一代の賭けであった。
王が軍を動かせば、神に刃向かう反逆者として断罪できる。王が黙認すれば、婚約者一人救えぬ無力な王として権威は地に堕ちる。いずれに転んでも、神の権威は復活し、勝利は教会にある。アウレリウスはそう確信していた。
その頃、満身創痍の王太子ハリスが、王都の秘密の門をくぐっていた。父の執務室へと向かう彼の瞳には、かつての理想主義ではなく、絶望と憎悪の硬質な光が宿っていた。
父と息子は再会した。カーマインは息子の姿とその瞳の変化を見抜き、ただ静かに口を開くのを待った。
「……父上」
ハリスの声は乾ききっていた。
「イセリナが捕らえられました。助けてください。彼女を救い出すためなら、私は何でもします。この命さえ、捧げます」
それは反抗的な王子の姿ではなく、愛する者を失い、己の無力さを骨の髄まで味わった一人の男の悲痛な叫びであった。
カーマインはゆっくりと立ち上がった。彼の壮大な計画において、息子の逃亡さえ計算のうちだった。しかし、イセリナの捕縛と、アウレリウスが仕掛ける大規模な儀式は、計算外の危険な変数であった。神官長は王が最も望まぬ形で決戦の時と場所を指定してきたのだ。もはや水面下での思想戦は許されない。
息子の懇願はカーマインの計画を、否応なく最終段階へと移行させる引き金となった。それは剣と血が雌雄を決する、公然たる戦争の始まりを意味していた。
カーマインは息子へと向き直った。その凡庸な仮面の下に隠されていた真の王の貌が、初めてその一端を覗かせる。
「ハリスよ。お前は、この国から神が『完全に』消え去る覚悟があるか」
その問いの意味をハリスはまだ完全には理解できない。しかし彼は、父の目がもはや凡君のものではないことだけははっきりと悟った。
「イセリナが助かるのであれば、私は……神であろうと、殺してみせます」
その答えを聞き、カーマインの口元に満足とも苦渋ともつかぬ、微かな笑みが浮かんだ。
ホラズム王国暦一九八八年、冬。
神を殺す王と、神を殺す覚悟を決めた王子。二人の意志が一つになったこの日、歴史の歯車は最後の加速を始め、王国は血塗られた夜明けへと雪崩を打って突き進んでいくのであった。