神託
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ホラズム王国暦一九八八年、秋。
後に歴史家によって「神なき時代の黎明」あるいは「理性の暁」と呼ばれることになる一連の動乱は、一枚の羊皮紙に記された神託から、その荘重にして血塗られた幕を開けたのである。
絶対的な権威とは常にその根拠を人智の及ばぬ領域に求めるものだ。ホラズム王国において、それは「神」であった。建国以来、実に千年の長きにわたり、王権すらもその下に従属せしめる唯一絶対の存在。
その神の言葉を告げる神官長の口が開かれた日、王都アスターナは熱狂とそして底知れぬ戦慄に包まれた。
「神は最も清浄なる魂を欲しておられる。二百年に一度、王国に繁栄を約束する大いなる祝福のために。選ばれし生贄、すなわち『神の花嫁』として、イセリナ・セレ・フォルティスを召される!」
大神殿の祭壇から放たれる神官長アウレリウスの朗々たる音声は、広場を埋め尽くした万余の民衆の耳朶を打ち、ある者には神の栄光として、ある者には抗い難い運命の宣告として響き渡る。
イセリナ・セレ・フォルティス。
清らかな美貌と慈愛に満ちた心根で知られるフォルティス公爵家の令嬢であり、そして何よりも、このホラズム王国の次代を担うべき王太子ハリスの、ただ一人の婚約者であった。
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この神託は事実上の死刑宣告に他ならなかった。神の花嫁とは冬至の日に神前でその命を捧げることによって、神の恩寵を王国にもたらすとされる、最も神聖にして最も残酷な儀式の主役を意味する。
民衆の一部は熱に浮かされたように神の名を叫び、ひれ伏している。だがその声に交じって、明らかに困惑と恐怖の囁きが交わされているのを玉座にあってすべてを見下ろす男は聞き逃しはしなかった。
ホラズム国王カーマイン。四十年の半ばを過ぎ、その容貌には凡庸さと疲労の色が濃く、国政の大部分を宰相と神官長に委ねてきた──いわば凡君として知られる人物である。まあこの辺はホラズム王国の歴代の国王たちに倣う所が大きい。
どうにも不思議な事に、ホラズム王国の王は凡君ばかりなのだ。まあ一部を除くが。
"凡人王"アルドリック(「常識的に考えろ」と王太子は言った。参照)
"無能王"ユージン(同上)
"平凡王"エミール(「畜生、死にたいな」と王太子は言った。参照)
"太陽王"エドワード(「愛してるよ」と第二王子は言った。参照)
"凡愚王"ユベール(「何でも言って良いのですか?」と公爵令嬢は言った。参照)
目立つ所でこの辺だろうか。エドワードは万能の天才と謳われていたが、その弟の出来は良くて並といった所である。あるいは、その弟にこそホラズム国王たる血が濃く流れていたのかもしれないが。
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「陛下、神の御心にございます」
隣席で勝ち誇ったような薄笑いを浮かべる神官長アウレリウスを一瞥し、カーマインは無表情に頷いた。
しかしその仮面の下で、いかなる激情が燃え上がっていたかをこの時、誰が予想しえたであろうか。政治とは畢竟、感情を隠蔽する技術の謂でもある。
衝撃は王太子ハリスの許に最も苛烈な形で届いた。白亜の東宮はたちまちのうちに若き王子の怒声と絶叫の響く場所に変貌する。
「馬鹿な! 神が、神がイセリナをだと? 何の権利があって! 父上は、なぜこれをお許しになったのだ!」
ハリス・ユスティス・フォン・ホラズム。十八歳。白銀の髪と空色の瞳を持つ、物語の王子をそのまま写し取ったかのような青年は、しかしながら、その血の気の多さと理想主義的な情熱によってしばしば廷臣たちを困惑させる存在でもあった。
彼は神託という絶対の権威に対して、愛という個人の感情を盾に真正面から戦いを挑まんとしていた。およそ、無謀の極みと言えよう。
「イセリナは渡さない。絶対に。共に逃げる。この国を捨ててでも、彼女を守り抜いてみせる」
恋人の手を握り締めそう誓うハリスの姿は、悲劇の主人公としてまことに絵になる光景であった。
彼の目に映るのはただ愛する女性の涙に濡れた顔。国家の安寧も、王族としての責務も、二百年にわたる伝統の重みも、彼の視野には入らない。
あるいは意図的に排除していたのかもしれない。
後に、ある歴史家は彼のこの言動を「計算を欠いた青春の暴走」と断じたがしかし、この暴走こそが巨大な歴史の歯車を動かす最初の小さな一押しとなったこともまた、紛れもない事実なのである。
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一方、カーマイン王は表向き神託を敬虔に受け入れる姿勢を崩さなかった。彼はフォルティス公爵を召し出し、丁重に弔意に似た慰撫の言葉をかけ、儀式の準備を滞りなく進めるよう教会に命じた。その一連の所作に誰もが「やはり我らが王は、神を恐れる善良なる凡君だ」と安堵し、あるいは侮蔑した。
だが、夜。
王が一人きりで執務室の蝋燭の灯りに向き合う時、その貌から凡庸な君主の仮面は剥がれ落ちる。そこにいるのは、冷徹な思索に没頭する一人の統治者であった。彼の胸中には神と、その代理人を自称する教会組織に対する千年分の澱のように溜まった不信と、静かだが底知れない怒りが渦巻いていた。
息子と息子の愛する娘を救うのだ、と。
そして何より、この神という名の見えざる圧制者から我が王国と民を解放するのだ、と。
──そのために、為すべきことはただ一つ
前代未聞のそして最大級の瀆神行為──すなわち、「神殺し」であった。
権力者が真に覚醒する契機は二つある。
一つは、自らが手にした権力の無限の可能性に気づく時。そしてもう一つは、その権力をもってしても抗い得ぬ、より巨大な権威の理不尽さに直面した時である。
国王カーマインの場合、それは明らかに後者であった。彼の覚醒は王宮の地下深くに眠る、埃を被った古文書室から始まった。
公式の歴史書が勝者のプロパガンダであるとすれば、編纂されなかった記録や、禁書として封印された文献にこそ、しばしば真実の断片は隠されている。カーマインは神託が下された夜から数日、公務を宰相ラザールに任せきりにし、この巨大な知の墓場に籠っていた。
彼が求めたのは過去の「神の花嫁」に関するあらゆる記録。
千年という長大な歳月の前にほとんどの資料は散逸していたが、それでも執念の調査は、あるおぞましい法則性を彼の前に浮かび上がらせた。
「……これか」
カーマインの指が黄ばんだ羊皮紙の一節をなぞる。
建国初期、神への捧げ物は収穫された穀物の初穂であった。それが数百年を経るうちに最良の家畜へと変化した。ここまでは良い。どこの国でも似たようなことはやっている。
だがここからだ。五百年前、人の命が要求されたのだ。 "凡愚王"ユベールの時代から数えて二百年後といったところである。
最初は罪人であった生贄がやがて平民の娘となり、そして二百年前にはついに貴族の血を引く乙女が選ばれた。要求は千年という時間をかけてゆっくりと、しかし確実にエスカレートしていった。
「邪神教団の事もある」
カーマインの目が細められる。昨今、辺境では邪神教団が暗躍しており、ここ数百年の王国の歴史は血塗られた闘争の歴史でもあった。彼らは疫病を撒き、村を焼き、人々を恐怖に陥れる。王国がその討伐にどれほどの血を流そうとも、神はただ沈黙を守り、何の奇跡も示しはしなかった。全能にして全知、そして慈悲深いはずの神が、なぜ邪教の跋扈を許し、その一方で何の罪もない乙女の命を要求するのか。
論理的な思考の果てに、結論は自ずと導き出される。
神、あるいはそれに類する存在はいるのだろう。ホラズム王国は世界的な大凶作の際にもほぼ影響を受けなかった。大陸全土に「黒き死」と呼ばれる疫病が蔓延した時にも、ホラズム王国では病は広がらなかったのだ。
少なくとも、そういう時代は確かにあった。
だが昨今はどうだろう。この百年、二百年、三百年はどうだろう。
いまやホラズム王国にも病や凶作は極々平然と襲い掛かってきている。他国に比べてその被害が大きいというわけではないが、それでも神の庇護は失われていると考えても良いだろう。
「失われたか、あるいは衰えたか。もしくは──」
狂ったか。
少なくとも今現在の神は民を守らない。邪教も滅ぼさない。ただ奪うだけだ。
──ならばそのような神は、王国にとって不要。いや、有害でさえある
「民と家族を守る」。それは彼が王冠を戴いた日に立てた、唯一にして最大の誓いであった。その誓いを阻むものが神であるならば。
──殺すべし
カーマインの両眼が爛と輝いた。
神を殺せるか、という疑念がないでもない。だが、カーマインの、本人にもはっきりとは認識しえぬ深く冷たい部分は“殺せる”と囁いている。
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カーマインの思考は絶対的な信仰を持つ者から見れば狂気の極みであり、無神論者から見ればあまりに当然の帰結であった。
この恐るべき決意を王は腹心中の腹心にのみ打ち明けることにした。王国宰相ラザール。そして、軍務卿ブレンダン。いずれもカーマインが即位する以前からの旧知の臣下である。
翌日、宰相執務室。
窓の外では平和な王都の営みが続いているが、室内には主君の言葉によって、にわかに氷のような緊張が張り詰めていた。
「……陛下。今、何と仰せに?」
ラザールは怜悧なことで知られるその顔から血の気を失わせていた。彼の知性は王の言葉の意味とその結果を瞬時に計算し、そのあまりの巨大なリスクに慄然としたのである。
神殺し。それは王国の社会構造そのものを根底から破壊する行為に等しい。
「聞こえなかったか、ラザール。私は、神を殺すと言ったのだ」
カーマインは古文書から導き出した自らの論証を、冷静に、しかし揺るぎない確信をもって語って聞かせた。神託のエスカレーションの歴史。邪神教団に対する神の沈黙。そして、教会組織が神の名の下に蓄積した富と権力。それらはすべて、神がもはや絶対の守護者ではないことを示唆していた。
「神が衰えている、あるいは狂っているとお考えですか?」
ラザールの言葉に、カーマインは頷く。
「そうだ。そして、そのことを教会も知っているはずだ。特に神官長は。神の声が聞けるのだからな。更に言えば、神の加護なるものが機能していないことも当然把握しているはずだ」
「……つまり、イセリナ嬢は」
「……教会は常々、我々に神への信仰を求める。その動きは昨今より大きくなっている。つまりそれは、信仰が神にとって必要なものだからではないか。より強い信仰を、より大きい信仰を求めなければならない事情があるからではないか」
「なるほど、すなわち糧食のようなものですな」
筋肉質な巨体を持つ軍務卿ブレンダンが口をはさむ。
「うむ。信仰が神を生かすのならば、新たな信仰は新たな神を創りうる。我々が、より民のためになる、慈悲深く、理性的な神を創造し、人々の信仰をそちらへ移すことができたなら……古い神は、力を失い、自ずと消え去るだろう。これこそが我が『神殺し』の計画の骨子だ」
ブレンダンが難しい顔をしてカーマインに言った。
「それは、内乱へ繋がりかねませぬ。いや、必ずや繋がるでしょう。千年続いた信仰は、民の骨の髄まで染み渡っております。教会には神に命を捧げることを至上の栄誉とする狂信的な騎士団も存在する。軍事力で、果たしてそれを抑え込めるかどうか」
現実的な軍人である彼は、計画の観念的な部分よりも、それが引き起こす物理的な破壊と混沌を懸念していた。
「だからこそ、軍事力の行使は最後の手段だ、ブレンダン」
カーマインは静かに応じる。
「我々が仕掛けるのは、剣や槍による戦争ではない。思想の戦争だ」
ラザールとブレンダンは、互いの顔を見合わせた。彼らの主君がこれほどまでに雄弁かつ壮大な構想を抱く人物であったとは、今日まで気づかずにいた。あるいは、この凡庸を装った王はこの日のために、その鋭利な牙と爪を隠し続けてきたのかもしれない。
狼狽はやがて畏敬へと変わり、そして最終的には危険な計画への加担を決意させるに至る。
それは王の揺るぎない覚悟と緻密な論理に説得された結果であると同時に、彼ら自身もまた、現在の神と教会の在り方に少なからず疑問を抱いていたからに他ならなかった。
およそ大いなる変革とは、一人の指導者の狂気じみた情熱と、それを支える少数の理性的かつ有能な実務家の存在なくしては成就しえないものである。ホラズム王国における「神殺し」という未曾有の大事業は、この日、この密室において、確固たる意志を持った三人の男たちの共謀によってその第一歩を踏み出したのであった。