九、無垢なる獣
「健渡、どうだ? ようやく異世界らしくなってきただろ」
新介が言う横で、健渡は海に現れたそれをただじっと見つめていた。
老婆が沖を指差した。広い海原のどの辺りを指したかは正確にはわからなかった。健渡と新介と深矢子。同じ方向を向いているが狙いを定めた地点は微妙に違っていたようだ。
最初に見つけたのは新介だった。
ありゃ何だ、と興奮気味に声を上げた。
「波しか見えないよ」
「あっちの小島の方?」
すぐには見つけられなくて、健渡と深矢子は視線を大きく左右に動かした。
どちらが早かったか。
「あ」と声が重なった。
穏やかに波立った海面の一部がこんもりと盛り上がった。何かが水面を押しのけて空へと這い出ようとするような、そんな動きでそれは始まった。
どろりと、鈍い色を映した海面が動く。
間もなくして黒い塊が海面に出た。
それはきっと全身からすればほんの一部分なのだろう。しかし広い海原の中にあってもそれは十分に大きかった。ぬらっとした肌を持ち海獣のような印象を与えるが、見える範囲はどこもかしこも影のように黒く、目だとか口だとか鱗だとかといった健渡の知識で思いつきそうな生物らしい要素は見られなかった。
すぐには『無垢なる獣』というものと結びつけられなかった。
「あれが神話の獣っていうやつ?」
「結構デカいな。大きさ的には鯨とかそんな感じか?」
「鯨って種類によって大きさが全然違うよ。どれのこと言ってるの?」
「あれだ、あれ、あの大阪の水族館にいるやつ」
「おじさん、それ鮫だよ」
「あ! ジンベエザメか。じゃあそれだ。鮫。あれくらいの大きさじゃねえか?」
「俺、そこに行ったことないから」
テレビなどで見た覚えはあるが、そんなものでは実感がわかない。新介の言うとおりジンベエザメの大きさなのか。それとももっと大きいのか小さいのか。
「あの島くらいない?」
健渡は沖にある小さな島を指した。
「距離は二キロ。大きさは、ここから見えている側で言うと端から端までで三キロくらいよ」
深矢子が会話に加わる。
「いやいや、そんなにデカくはないだろ」
「私が間違って覚えているとでも?」
「いや、そっちじゃなくてよ。あっち」
新介が指を差す。
その動きとほぼ同時、黒い塊が動いた。それは鯨や潜水艦が急浮上したようなそんな動きをした。
頭を突き出す。一時的に大きく姿を現した胴体はオベリスクのように立ち上がり一瞬静止した。
「あり得るな。でももしアレが島と同じだけの大きさだとしたら、まずいぞ」
「何がまずいって――」
健渡の言葉を遮って、大きな音が鳴った。大量の水が弾ける音だ。起き上がっていた獣の体躯がパタンと倒れたようだ。
動作自体はゆったりとしたものだった。
しかしそれなりに大きなものが浮上し、立ち上がり、その勢いを殺しきれないまま水面に倒れ込んだらどうなるか。
獣の周囲で立ち上がった水飛沫。水面は大きく上下する。その動きが海原に伝播していく。
「波が来るぞ!」
「え? この高さなら大丈夫でしょ」
「いや、わかんねえぞ。深矢子、どうする?」
「それがね……」
慌てる新介とは対照的に、深矢子は落ち着き払ってそこにいた。
「『まったく問題ないからおとなしく見てなさい』っておばあちゃんが」
老婆は笑顔のままこくりと頷いた。
「問題ないって? あれが?」
「そうみたい」
言っている間にも獣が起こした波は高く大きくなりながら英雄の丘へと迫ってくる。
「『八十年前もそうだったのよ。無垢なる獣がもうたまにしか現れなくなっても、英雄の加護は続いているの。それでね、それが起こるときにはとってもきれいなものが見られるのよ。ほら、始まるわ』」
老婆が言った。
三人は顔を見合わせた。
「とは言ってもなあ」
新介が渋い顔で顎を撫でる。
波の音が響いたせいか、街の人たちがぞろぞろと家から出始めた。
丘の高いところ低いところから人の声が聞こえてくる。それらは大波と獣の姿を見つけると、わあっと大きな声を上げた。上げはしたが、逃げろ逃げろと叫ぶようなテンションの言葉は聞こえてこなかった。
どちらかと言えば、無垢なる獣の登場を待って期待に胸を膨らましていた新介のような、そんな態度で波の動きに注目していた。
「『みんなも見るのは初めてよ。だけど私や他の老人たちがいつも言って聞かせていたからねえ。ほら、誰も怖がったりしないでしょ? 英雄は無垢なる獣だけじゃなく、波からも私たちを守ってくれるから』」
深矢子が訳し終えると、絶妙なタイミングで空から光が射した。はじめは一本の筋だけだった。それが二本、三本とどんどん増えていく。曇天の空から放たれた矢のように降り注いで、島の周囲を囲むように遠浅の浜に突き刺さった。
八十年前と同じだと老婆は言った。
「『無垢なる獣が暴れて四度の大波が起きたらそれで終わり。英雄の力の前ではどうにもならないって理解して、おとなしく帰っていくわ。無垢なる獣とはそういうものよ』」
島を取り囲んだ無数の光の柱に大波がぶつかる。
ゴオォンと大きな音。衝撃で光の柱が震えているようだった。あちこちで、次々に音が鳴って、街の中に届いた。その音には不気味な要素など欠片もなく、神殿の柱の間を吹き抜ける風のように威厳のある音色で鳴り響いた。
大波が当たって音が鳴る。
柱に当たった衝撃で波はあっけなく打ち砕かれた。凶暴な水の塊であった大波は細かな水の粒となって辺り一面に盛大に飛び散った。
その飛沫がふたたび光の柱に触れる。
一つ一つの水滴が光に照らされて虹色に輝いた。それは風に乗り人々のいるところまで飛んできた。
老婆は広場にたどり着いた滴に手をのばすような仕草を見せた。空中できゅっと手のひらを握り掴む。それを健渡の前に持って来てゆっくりと開いた。老婆の手の中には虹色に輝く石の欠片があった。
「『持って行きなさい』って」
健渡は老婆と視線を合わせた。
「いいんですか?」
深矢子が通訳すると老婆は満面の笑みで応えた。
「『あなたの旅が幸福で溢れますよう』」
老婆が捧げた祈りの言葉に呼応するように、宙を舞っていた虹の滴がキラキラといっそうの輝きを放った。
英雄が守る島は虹色の輝きに彩られた。
「健渡、どうだ? ようやく異世界らしくなってきただろ」
新介が言った。口もとは笑っているが、目の前のことに圧倒されているように見えた。
「『異世界らしい』の定義がわからないけど」
だけど、すごいや。
健渡は小さく言った。爪先から頭の先までぶるっと何かが駆け抜けた。
何がどうなれば『異世界らしい』のかはよくわからなかった。
だけど健渡は今、自分は異世界にいるんだと昨日よりは実感できていた。
そうなると、やはり前日の自分の行動が悔やまれて仕方ない。
モンサンミシェルと同じだと決めつけずもっといろいろなものに目を向けていたら、もっといろんなものに出会えたかもしれないのだ。
「他の日程を変えればもう少しこの世界を楽しめるけど、どうする?」
深矢子の提案に健渡は即答した。
「いや、予定通り次のところに行きましょう」
「いいのか? 旅行記書くにはちょいと物足りないんじゃないか?」
新介が意地悪な言い方で言った。
それでも健渡は異世界ピックでの滞在延長の提案を断った。
「旅行記にはそのまま書くよ。見た目で判断してちゃんと観光しようとしなかったこととか、それで後悔したとか。自由研究なんだからむしろそういうのの方がいいんじゃない」
「大人のウケがってことか?」
「まあそんなところ」
言うと新介がフンと笑った。
「さすがは俺の甥っ子だ。それじゃあこの調子で次に行くか!」
ガシッと健渡の肩を掴む。
「その前におばあさんに挨拶したいんだけど」
健渡は新介の手から逃れて辺りを探す。
無垢なる獣が姿を消し海が穏やかになると、光の柱も虹色の滴も霧散するように消えてしまった。
それくらいから、老婆の姿を見ていないような気がする。新介に尋ねても深矢子に聞いても「言われてみれば」と同じ答えが返ってきた。
「どこの誰だかもわからないしなあ」
健渡は困って頭を掻いた。
もらった石をじっと見つめていると、声をかけてくる者があった。
「『あら、その石』って言ってる」
声をかけてきたのは街に住んでいる女性だった。年は深矢子と同じくらいに見えた。深矢子は実際の年齢より若く見えるらしいから、その女性は三十代くらいなのかもしれないと健渡は思った。
その女性が奇妙なことを言う。
「『その石、おばあちゃんがくれたんでしょ? もう、私たちには滅多に姿を見せてくれないのに。知らない人にはいつもお土産まで渡してるんだもの。困った人ね』」
愚痴のようなことを言いながら女性は嬉しそうに笑っていた。
「本当にそう言ってるのか?」
新介が眉をひそめる。
「言ってるわよ」
深矢子は不機嫌そうに返した。
「滅多に姿を見せてくれないとか、それってアレだろ。アレ系だろ」
「何系よ?」
「異世界っていうより、ホラーだろ」
「そういうジャンル分けをリアルでするのやめた方がいいよ、おじさん」
健渡は言ってため息をついた。
「俺はホラー系は苦手なんだよ。お前は何ともないのか?」
ぶるぶる震えながら健渡の体を小突く。
「何ともないよ。だってここ、異世界だろ」
「それ、関係ないだろ」
「何があったっておかしくないってことだよ」
健介は言って、虹色の石をぎゅっと握った。
そうしてから女性と向き合った。
次に会えたときには、ニホンから来た少年が心から感謝していたとそう伝えて下さいと頼んで握手を交わした。「そういうとき、こちらではこうするのよ」と言った彼女は健渡の体をしっかり抱きしめたあと、躍るように、トントントンと短いステップを踏んだ。
「『あなたの旅が幸福であふれますように』」
虹色の滴に負けない輝きの笑顔で、一行に餞の言葉をくれた。




