八、座ったときには、もういたよね?
人の姿がない参道。城壁の上から眺めた海。濃くなったり薄れたりする霧と曇天の空。湿り気を帯びた石畳の敷石にはよく見れば不思議な紋様が刻まれていて、ときどき呼吸するように明滅した。それは光が灯ったり消えたりというような変化ではなく、色の濃淡が入れ替わるようなそんな変化だった。
そういった目についたいろんなものを健渡は写真に収めた。
『カメラ』を使うのは初めてだった。
今どき写真はスマホで撮る。両親も動画用のカメラは持っていても、写真を撮るためのカメラは持っていなかった。このカメラは新介が用意したものだ。
「異世界撮るのに、まさかスマホのアプリってわけにはいかないだろ」
と新介は言う。
その発言の直後に
「あ、でもアプリで加工した異世界の写真ってのもいいかもしれないな」
と前言を覆すようなことを言う。
「よし。両方で撮っておけ。資料はいくらあってもいい」
「今、資料って言ったよね」
「あ? アレだよ、アレ。旅行記を書くための資料だよ」
何を勘違いしたんだと言う新介の声はわずかにうわずっていた。
「何と勘違いしたと思ってるか知らないけど。俺、そんなに撮らないから。こういうの得意じゃないし」
健渡は自分の手に収まっているミラーレス一眼を見た。
スマホ以外のカメラで撮る初めての写真が異世界のものになるとは思いもしなかったし、まさか『神話』なんてものを撮影するはめになるとはあまりに予想外だった。
「それで、ここからその獣とかいうやつを見られるの?」
辺りをぐるっと見回した。
城壁の道を進み狭く急な階段を登る。メインの通りから登ってくる道と合流する手前、向かって右手、海側に向かって突き出したような広場がある。くたびれたベンチがぽつんと一つあるだけの、小さな広場だ。健渡たちはそこに立って獣の登場を待っていた。
「観測ポイントってやつ? 過去にここから見たって記録が残ってるらしいぜ」
「記録が残ってるらしいって、それいつくらいの話なんだよ」
どうも雲行きが怪しくなってくる。
「最近だと八十年前くらいだったかなあ」
深矢子が言った。九十年だったかな、百年まではいってなかったような、などと数字がどんどん増えていく。
「怪しすぎるでしょ」
健渡は大きなため息をこぼした。
一方で新介は、ふざけるような様子もなく真っ直ぐに沖の方を見つめていた。しっかり期待しているのだ。少年のように目を輝かせて獣が姿を現すと信じ待っている。
健渡はその様子を一枚撮った。
「おい。肖像権ってのがあるんだぞ」
「許可を取ればいいんだろ」
「何に使う気だ」
「何にって、さっきから俺は何のために写真を撮らされてるんだよ」
「……旅行記に載せるつもりか」
「かもね」
「あれか? 巻頭か巻末のスペシャルサンクス的なやつだな? 『とても頼りになる伯父さん』みたいな肩書きなら許すぜ」
「『神話を信じて疑わない純真無垢な伯父さん』の方がいいんじゃない?」
言うと新介は「何をぉう」と腕まくりをする。
「馬鹿にしてるわけじゃないよ。おじさんのそういうところ、一周まわってうらやましいと思ってるから」
「一周まわらないとどういう反応になるんだよ」
「甥っ子にそこまで言わせる?」
「おう。お前、ちょっとそこに座りやがれ」
新介がもう片方の袖もくるくるとまくり上げた。その行動に健渡はさらにため息を重ねた。
ふうっと息を吐くと、寝不足も手伝ってか体の力が抜けてしまった。「そこに座れ」と言われたしちょうどいいかと思いベンチの世話になる。健渡はストンと落ちるようにしてベンチに腰を下ろした。
その様子を見ていた二人が突然ぴたりと動きを止めた。落ち着きのない瞬きを何度か繰り返したあと、顔を見合わせた。
「いつからいた?」
「わかんない。え? 新介はいつ気がついたの?」
「あいつが座ったときに」
「座ったときには、もういたよね?」
「でも座る前にはいなかったぞ」
「座る態勢に入ったときにも、まだいなかったよね?」
そんなやりとりがあって、視線はこちらに向けられた。しかし健渡の視線と新介たちの視線とはぶつかることがなかった。二人は健渡の方を見てはいたが健渡を見てはいなかった。
新介と深矢子の視線は健渡の隣に向いている。
いつからいた?
二人の会話を思い返した健渡は全身を強張らせた。今さら右手側に気配を感じた。そちら側にあった霧がいつの間にか形を変えていたような、そんな儚い変化を皮膚が感じた。
ゆっくりと顔をそちらに向ける。
どこかで嗅いだことのある匂いがした。懐かしい感じがするけれど得意ではない匂いだ。どこで嗅いだかと考えると、祖父母の顔と、田舎にある母の実家の風景が浮かんだ。田舎の匂いというのだろうか。それとも老人の住まいに漂うあの独特な匂いというのだろうか。そういう匂いが不意ににおった。
老婆がいた。
くたびれたベンチは大人が三人ほど並んで座ることができる幅だった。そのベンチの真ん中に近い辺りに健渡と、老婆が座っていた。
同じクラスの男子と比べてもどちらかと言えば小柄な方に分類される健渡。老婆の体はそれよりも一回りほど小さく見えた。椅子に腰掛けているから詳しいことはわからないが、たぶんそれくらいだ。服装を見る限り、この島の住民のようだった。
背中を大きく湾曲させ座る老婆は、彼女も今気がついたような素振りで健渡を見つけ、まず驚いた顔を見せた。それからまったく間を空けず、皺だらけの顔を笑顔に変える。
何か話かけてきたのだが、健渡にはわからなかった。
すぐに深矢子を見る。
深矢子はまだ困惑していた。しかしすぐに添乗員の顔に切り替え、現地の言葉で老婆に話しかける。
話し始めは少し声がうわずっていた。
二言三言やりとりがあって、深矢子がこちらを向いた。
「ええと、どこから来たのかとかそういう話があって」
「ばあさんにも『どこから出てきたの』って聞いて見ろよ」
新介が言う。深矢子は「え、こういう場合はなんか聞かない方がよくない?」と新介の指示を拒絶する。
そんなやりとりを尻目に、老婆は健渡の手をとり嬉しそうに何か言った。
「『また見に来たの?』って聞いてる」
「また?」
「誰かと間違ってるみたい。たぶん違うって言ったんだけど。『でもアークヴォから来たんでしょ?』って」
老婆がじっとこちらを見ている。
問いに対する答えを待っているのだと察知して、健渡は首を縦に振った。
アークヴォというのは健渡たちが住む世界のことだ。異世界と交流するに当たって便宜上付けられた名前らしい。
だから異世界の人に対し自分がどこから来たか説明するときには『アークヴォ』という単語を出したあとに国名を伝えるのだと、そんなことがガイドブックにも書いてあった。
老婆の言葉の中に『ニホン』と聞き取れるものがあった。老婆は言ってからやはり健渡の顔を見つめて回答を待っているような素振りを見せる。
「日本から来たか聞かれてます?」
念の為深矢子に確認してみると
「そんなとこ。『日本人でしょ?』って」
深矢子からはそんな答えが返ってきた。
健渡はもう一度頷いてみせる。老婆はいっそう笑顔になった。健渡の手を握る皺だらけの両手にはぎゅっと力が込められた。
老婆は深矢子に向かって何かをいろいろと話し始めた。ときどき身振り手振りを加えたりする。その都度健渡の手は解放されるのだが、ひとつ会話が終わると、そこが定位置だとばかりにまた捕らえられる。
老婆の話が終わると、深矢子は困ったように笑った。
「昨日のレストランの人と一緒みたいよ。『あのときの子でしょ?』って」
「ああ。橋の建設に関わった人の子どもっていうやつですね」
またかと厄介に思いながらも、それ程にその子はこの世界の人と親しくしていたんだなと思わず感心してしまう。
「『しばらく通っていたけど結局見られなかったものね』って言ってる」
「見られなかったって、もしかして」
「パハマナンス」
老婆が言った。
「ぱは……?」
「パハマナンス。日本語に訳すなら『無垢なる獣』ってところかな。さっき話した神話に出てくる獣の呼び名よ」
深矢子が言うのとほぼ同時、老婆は立ち上がり沖を指差した。
「『あなたたちは運がいいわ。こんな天気の日には無垢なる獣がやって来る。ほら、あの辺を見ておいて』」
輪唱のように、老婆の言葉に重なるような勢いで深矢子が訳した。
「来るって、なんでばあさんにそんなことわかるんだよ」
新介は信用していないようだった。しかしいくらか期待はしていたようで、その視線は老婆が指した方向を探っている。
健渡もベンチから立ち上がり沖を見た。
大まかな方向はわかるが、範囲が広すぎる。どの辺りを注視していいかわからず、あっちこっちと視線を巡らせた。
早朝から立ちこめていた真っ白な霧は、だいぶ薄くなっていた。霧の白よりも曇天の鈍い色合いの方が強くなってきて、昨日は青く輝いていた海原が泥の沼のように見えた。
この景色なら何かが現れてもおかしくないと思えた。
「本当に出てくるのかな」
健渡はごくりと唾を飲み込んだ。
隣に立った老婆がきゅっと健渡の手を握る。
「『良かったわねえ。今度こそ見られるわよ。無垢なる獣はやって来る。だって八十年前もこんな景色が広がっていたもの』」
驚きのあまり絶句した三人を見て、老婆は誇らしげに笑った。




