六、ここに最初に来る理由
健渡はわからなくなった。
「だって、ガイドブックだけ見たらよくないことみたいに書いてるのに、店員さん、『恩人』って言ってたんでしょ?」
深矢子の通訳がデタラメでないのなら、そういうことだった。
頭を抱えた健渡を見て新介が笑う。
「お前がさっき言ってたあれ、ちょっと違うんだよ」
「さっき言ってた……どれ?」
「ピックが異世界旅行の最初の場所に推奨されてる理由だよ」
何て言ったかと聞かれて、健渡は自分が言った言葉を思い出しなぞった。
『異世界に関わるとき、どこまでがいいことで、どこまでがよくないことなのか。そういうことをまず、この世界を見て判断しろってことなのかな』
それが、違うのだという。
「加減を学ぶためなんかじゃない。ここに最初に来るのは、テーマを決めるためだ」
「テーマを決める?」
眉根を寄せる。すると絶妙なタイミングで、深矢子がガイドブックの表紙を指差した。
『夏休みの自由研究におすすめ! 七つの世界を巡る、異世界旅行記制作コース』
新介は特に『旅行記』という文字に限定して指を向けると、にやりと口角を上げた。
「ピックに来て英雄の丘を見て、ガイドブックにちらっと目を通して。それで感じることは、まあ、人それぞれ違うだろうな」
『異世界交流に翻弄された』という表現を鵜呑みにしてこの世界を良くない例として基準に据える者。
そんな事情なんて気にせずに「すごい!」「きれい!」とはしゃぎ、単純に楽しもうとする者。
自分が思い描いていた『異世界らしさ』を探す者。
逆に、異世界の中に紛れている自分たちの世界の物に興味を持つ者。
「お前はどう思った?」
新介はまっすぐに健渡の目を見た。
健渡は、しばらくはにらみ返すようにしていたが、新介の瞳を見ているうちに何かに気がついて、視線を島の方へと移した。
明るいうちに見て回った島の風景が思い出される。それはとても違和感のあるもので、ガイドブックのこの世界についての記述が正しいように思えた。
だが、この世界の住人と話をしてみれば、ガイドブックや健渡の感想とはまったく違うものが出てきた。
健渡はガイドブックをぺらぺらとめくった。
「なんか、おじさんの術中にはまっているみたいで嫌だなあ」
そう言ってから、健渡はガイドブックの冒頭、目次のページを開いた。異世界旅行記制作コースに含まれている七つの世界の名前と、それらが何ページ目に記載されているかが表示されている。
ピックについて、健渡が読んだのは最初の数ページだけだ。
「ちゃんと見てみたいと思ったよ。ここに書いてあるだけじゃわからないから、それぞれの世界をちゃんと見て、俺たちの世界と同じとこ、違うとこ、どれくらい関わっているか、それがいいことなのか悪いことなのか、誰かが書いたことに惑わされずに自分の目で確かめてみたいと思った」
できればもう少し異世界らしい体験もしたいけど、と付け加えると新介は「俺もだ」と言って笑った。
「それじゃあ、健渡くんの旅のテーマは?」
「異世界を自分の目で見る、かな」
言ってみると、すがすがしさの中に幾分かの悔しさが混じる。旅の初めに新介が言った「自分の目で見て確かめろってことよ」という言葉が思い出されたからだ。
別にそれに影響されたわけじゃないからなと自分自身に言い訳をする。幸い、新介がそこをつついてくるようなことはなかった。
「『自分の目で見る』かあ。シンプルだけど奥が深くて難しそうだね」
深矢子が言う。
「何言ってんだ。壮大で立派で何かカッコイイじゃないか。絵日記じゃなくて自由研究の旅行記なんだから、それくらいでなくちゃ。なあに、俺の甥っ子なんだから、ちょちょちょいっとやっちまうだろ」
新介は『俺の』を強調して言った。
健渡と深矢子は顔を見合わせて大きなため息をこぼした。
「健渡くん、わからないことがあったら私に聞くのよ」
こちらはこちらで『私に』を強調して言う。
健渡は二人の顔を順に見た。面倒な大人たちだなと思ったら、自然と笑みがこぼれた。そんなに嫌な気分ではなかった。
俺だ、私だ、と言い合う二人をよそに、リュックから取り出したノート。
テーブルに広げると、先程のウェイターに視線を送った。彼が席に来て「何か?」というような表情を見せる。
健渡は二人の大人をたしなめて、そして言った。
「テーマが決まったからには、しっかりやらないと。ピックのことを知るためにまずは店員さんに話を聞きたい。深矢子さん、頼んでくれますか? それから、明日『英雄の丘』を見学し直そう。もっとちゃんと見たいんだ」
「通訳くらいならいくらでもするけど……」
「またあそこを見るのか?」
新介は照明に照らされた島を指差した。
「俺が今日見たのは『モンサンミシェル』だったからね。今度は『英雄の丘』を見るんだ」
「そういうことなら、私は賛成」
深矢子が小さく挙手をする。
「いや、別にいいんだけどさあ、あそこ、坂と階段だらけだから、結構体にくるんだよなあ」
ぼやきながらも、新介も最後には手を挙げて了承した。
「それじゃあ、まずは――」
健渡は深矢子に通訳を頼む。
「『あなたの住む世界のことを俺に教えてください』」
健渡の質問を受けとめたウェイターは、気持ちのいい笑みを見せ、自らの胸をどんとひとつ力強く叩いてみせた。




