五、君たちの世界では当たり前ではないのかい?
正直なところ、神殿を見学している間は感動よりも何よりも違和感が健渡の中に蔓延っていた。
こちらの時間では、そろそろ日暮れのころらしい。
神殿見学コースの途中にある広いテラスに出ると、日はだいぶ傾いていた。
「夕暮れまで同じだ」
健渡は言って笑った。
揶揄するつもりはなかったが、そんな口ぶりになってしまっていた。
長い神殿建設の歴史の中でもかなりあとの方に作られたというこの石造りのテラスは、それでも十分に年季が入っていて、今までどれだけの人が踏みしめたのか、敷き詰めた石のタイルはところどころが欠けたり抜けたりしていた。
健渡と同じ世界から来た人々や、それ以外の世界の住人と思われる風貌の人々、そしてこの世界の人々が、この広いテラスに一緒に立って空を見ている。
そういう風景は、いいなと素直に思えた。
しかしやはり異世界旅行というものには、肯定的にはなれなかった。
「どうだった?」と尋ねた深矢子は、言ってすぐに笑った。
「顔を見て察してもらえればと」
健渡は愛想笑いなどしなかった。
景色を見ていたときの顔のまま深矢子の方を向いた。
「予想通りだったわ。ね」と深矢子と新介は顔を見合わせる。
「ああ、期待通りだ」
新介は深矢子と同じような表情をしていたが、選んだ言葉は別だった。
日没を待たずに一行は対岸へと戻った。
今はレストランのテラス席からモンサンミシェル、もとい『英雄の丘』を眺めていた。
「異世界旅行の始めの地にちょうどいいって、こういうことだったんですね」
健渡は最初にもらったガイドブックのページをめくりながら言った。そこには、この『ピック』という異世界の中でもとりわけ『英雄の丘』に触れ、『異世界交流に翻弄された街』というタイトルが付けられていた。
ピックは、初期に見つかった異世界の中でも、健渡たちが住む世界によく似た世界だと言われていた。それは『モンサンミシェル』があるからということではなくて、生活習慣や文化などが違和感なく受け入れられるものだったということだ。それはこの世界にいわゆる魔法らしい魔法が存在しないせいだろう。
しかし健渡たちの世界にはいない動物や、健渡たちの世界にはない宝石や、食べ物や、祭りや、季節という物珍しいものがあって、観光をするにはちょうどよかった。同じ世界の他の国に行くことに飽きていた人たちにはちょうどよかったのだ。
「それで『観光地』にするために、よく似た俺たちの世界の、よく似たモンサンミシェルをお手本にしたら、そっくりそのままのものになったってことか」
「橋を作ったりインフラを整えるくらいだったら影響は少なかったんだろうけどねー」
「誰かさんみたいに『あれはやだ、これはやだ』って言う奴がいるからな」
新介はこの辺の名物である果実酒を飲んでいた。種や皮のえぐみを感じたり、ガツンとアルコールが強かったりと洗練されていない感じが異世界らしくていいな、と喜んでいたが、『異世界らしい』の言葉に引っかかってしまう。深矢子の方を見てみれば、深矢子も同じように思ったらしく呆れたような顔をしていた。
「だからって、俺は何もかも作りかえろなんて言わないよ。こんなつまらないことはないもの」
「たしかに。トイレとかベッドとかが私たちの世界っぽいと有り難いけど、名物とかまで似てくると、それはさすがに何だかなあって思っちゃうよねー」
「そう言いながら、『オムレツ、ふわふわ』とか『サブレー、サックサクー』とか言って、しっかり目輝かせてなかったか?」
だいぶ誇張はあるがそういえばそうだと、健渡は頷いてしまった。
「ひどい。新介はともかく、健渡くんまで、ひどいよ」
ひょいと深矢子のフォークが越境してきて、健渡のデザートの皿からケーキを一口分さらっていった。ご満悦の表情でもごもごしながら「お仕置き」か「仕返し」と言ったようだが聞き取れなかった。
健渡は半分になったケーキを見ながら
「異世界に関わるとき、どこまでがいいことで、どこまでがよくないことなのか。そういうことをまず、この世界を見て判断しろってことなのかな」
と吐き捨てた。
「ちなみにこちらはどこまで?」
深矢子の視線が引き続きケーキを狙ってる。
「いくらでもどうぞ」
健渡は皿を深矢子の方に寄せた。実は甘すぎて持て余していたところだった。
「ありがとう!」
と満面の笑みの深矢子に、
「太るぞ」
と水を差す新介。「なんだとお?」と深矢子がジャケットの袖をまくれば、どうしようもない言い合いが始まる。
困った大人たちだなと呆れながら、お茶を飲む。こちらは『異世界の人』に合わせてくれたのか、健渡にも飲みやすく感じられる、紅茶のような風味のお茶だった。
あらためてガイドブックをめくっていると、周囲がざわざわと賑やかになってきた。
英語が聞こえる。
日本とは違って渡航の条件がそれほど厳しくないようで、大人ばかりのグループが離れた席で食事をしていたのだが、彼らは島の方を指差して何やら口々に言っていた。
みんな期待たっぷりの顔だ。
スリー、一人が声を上げた。
次からは十人ほどが声をそろえツー、ワン、と発する。
「ああ、そうだった」
と深矢子が申し訳なさそうに言ったのと、「ゼロ!」のカウントが重なった。
わあっ、と歓声があがった。
何事かと見てみれば、宵闇に『英雄の丘』が照らし出されている。
それは街に灯されたあかりがそう見せているのではない。
「ライトアップ、だよね、あれ」
健渡はぽかんと口を開けたまま、まじまじと見つめた。
暗がりを映した遠浅の海がぬらりと揺れる。そのただなかに光り輝く島が浮かんで見えた。
神殿や巻き貝の街並みをあおるような向きで照明が設置されているようで、余った光が宵の空までをも照らしていた。
それはランタンや薪の明るさではないように見えた。
「今、試験点灯の期間中なの。電気の照明だよ」
深矢子はさらっと言った。少し離れたところに小規模な発電所がつくられたのだという。
そんなものまでこの世界に持ち込んだのかと思うと、島を照らす光はギラギラとして見えて強欲なものに感じてしまう。
健渡は複雑な気持ちでそれを見ていた。ガイドブックの文言が頭を過る。同じような心持ちで光り輝く島をみているものがどれくらいいるだろう。
店内を見渡してみれば、健渡と同じ世界から来たらしい人々も、見慣れぬ衣装をまとった人も、誰しもうっとりと見とれているようで、不思議なものだと健渡は思った。
しかしもっと不思議だったのは、幸福そうにさえ見える顔たちの中に、店の人たちが混じっていたことだ。
彼らもまた、笑顔だった。
客のために用意した笑顔などではない。闇夜に浮かび上がった島に目を向けるそのときだけは、彼らは、島のすぐそばに住むものとして、微笑みをたたえているようだった。
ウェイターと目が合った。
向こうはにこりと微笑んだのに、健渡はすぐには反応できなかった。
彼はテーブルに来て何か話しかける。
「って、ええと……」とりあえず、ぎこちない笑顔で誤魔化して、深矢子に助けを求めた。
「何て言ってるんですか?」
こっそり尋ねたのに、
「あー。今のはね、『何かご用ですか?』って。…………健渡くんと目が合ったから、用事があって呼ばれたのかと思ったみたい」
本人にしっかり確認して健渡に答えた。
「『用はないです、すみません』って伝えてください」
「伝えたよー」
「でもまだ俺のこと見てますよ?」
ウェイターの彼は健渡の顔を見つめたまま。きゅっと眉間に皺を寄せたかと思うと、そのままの表情で深矢子に何か伝えた。
深矢子は笑顔で対応している。
彼の視線は健渡の方に向いた。深矢子も、何かを話しながらときどき健渡の方を示す。
話が一段落すると、彼は健渡を見て声をあげた。――怒りや不満をぶつけるようなそんな様子ではなかった。
やや興奮気味に健渡を見ている。
「この橋の建設に関わった人の中に、毎年子どもを連れて様子を見に来ていた人がいたんだって。最近来なくなって、どうしたんだろうって店の人と言ってたんだけど――っていう話みたい」
「まさか、人違い、されてます?」
「そうみたい。たぶん違うって言ったんだけど、その子と顔が似てるって言うのよね」
ウェイターは他の店員に声をかけて何かを持ってこさせた。健渡には写真に見えたが、彼らは「魔法を使ったかのように忠実に描かれた絵だ」と、異世界あるあるのような反応を見せた。
「どれどれ」
それをひょいと横取りしたのは新介だ。
言葉も通じないのにジェスチャーだけで会話して、どの子のことを言っているのかと確認している。
「この子だってさ」
テーブルに置かれた『絵』。
家族写真のようで、両親と、男の子が二人描かれていた。そのうちの一人、年上の方がそうだという。
「いや、これは日本人ではあるけど……」
「どう見ても別人よね。健渡くん、小さいころはこんな感じだったの?」
「小さいころっていうか、この写真の子、たぶん俺とそんなにかわらない年齢のような」
「外国人はみんな同じ顔に見えるみたいな感じで、見分けついてないんじゃないか?」
新介が言う。ためしに写真に写っている父親は自分だと言ってみたが、ウェイターは渋い顔で首を横に振った。
結局どうして間違われたか、その理由ははっきりしなかったが、どうしてこの一家のことを気にかけているのかと問うと、
「自分たちの世界のために尽力してくれた恩人が今どうしているかって気にすることは、君たちの世界では当たり前ではないのかい」
という言葉が返ってきた。




