四、剣と魔法だけが異世界じゃないんだぜ
異世界の魅力をたっぷり見せてあげるからね、とは言われたが、今日のメインイベントと言われる場所に連れてこられて健渡は言葉を失った。
圧倒されたとか、そういうことではない。
「これ、まんま『モンサンミシェル』じゃん」
ガッカリしたのだ。
風鈴でつながった異世界の、こちら側の玄関口から少し歩くと大きな川に当たった。その川に沿ってさらに歩く。すれ違う人たちの服装や髪型は、教科書で見たような昔のヨーロッパの人に似ていた。その中に、健渡たちと同じように異世界旅行に来たらしい西洋人の姿が混じっている。
地面はアスファルトや石畳で舗装されてはおらず、土を踏み固めただけの道だった。
その道をしばらく行くと、前方が開け遠浅の海が広がった。その海の、やや沖に行ったところに大きな岩山のような、小島のようなものがぽつんと見えた。
それが健渡にはかの有名なフランスの『モンサンミシェル』に見えたのだ。
いや、それにしか見えなかった。
「ここ、本当に異世界なの?」
呆れたように言うと、新介も深矢子も取り繕うように笑った。
「便宜上『ピック』って呼ばれている、俺たちの世界とは別の世界だ」
「ブタ?」
「それは『ピッグ』な。ピックっていうのはこっちの世界の言葉で『降り注ぐ』って意味らしい。この世界がまっさらな大地だったころ、百日間雨が降り続いて、それがやんで最初に地中から芽を出したのが、今世界を支えている大樹――っていう創世の神話がある世界だ」
「ここは異世界旅行の始めの地にちょうどいいんだよ」
深矢子が言うと「そうらしいな」と新介が相づちを打つ。
「ここが? どうして?」
健渡は『モンサンミシェル』を見て言った。
出鼻をくじかれたとはまさにこのことだと思った。こんなものを見て、どうして異世界旅行に期待を持つことができようか。
何もモンサンミシェルが悪いわけではない。
ここにモンサンミシェル然としたものがあるのが悪いのだ。
異世界だからといって人の形や動植物の形、街並みなどが大きく変るのが当然というわけではないのだから、似たような場所があったっておかしなことではないと新介は言う。
「でも、そういう次元の話じゃないよね?」
岩山に見えたものの表面には小さな街が貼り付いていて、その街の中が観光地となっていた。
「あちらに見えますのが、『英雄の丘』と呼ばれる、この世界で最も有名な場所のひとつでございます。周囲およそ一キロメートル、建物を除いての高さ八十メートルほどの島に、頂上の大神殿をはじめ、多くの建物がぎっしりと建ち並んでいます。かつてはこの島は『死者の山』と呼ばれまして――」
たまたま居合わせた日本人のツアー客が、添乗員からそんな説明を受けていた。夏休みの小中学生限定であるはずなのに大人の姿が多いように見えるのは、きっと何かしらの抜け道があるのだろう。そういうことをしないところは新介のいいところだと健渡は思う。ただそれを叶えられるだけの力がないだけかもしれないが。
健渡はツアー客の方を指差して「ああいうの、やらないの?」と深矢子に尋ねた。
「聞きたいならやるけど、数字的なものって右から左に流れてくでしょ? だいたいガイドブックに書いてるし」
深矢子はケロッと言った。
「そうそう。こういうのは歩きながら、その場その場に合った説明を聞くのがいちばんだって。ほら、この橋とかさあ」
「どうせあれだろ、昔は引き潮のときにしか島に渡れなくてたくさんの犠牲者が出たから、橋を作って渡りやすくしたっていう」
「いや、それはモンサンミシェルの話だろ」
「見た目同じなんだもん、謂れとかも同じなんだろ?」
「だいたい合ってるけど、ちょっと違うかなー。この橋は異世界交流によって作られた橋だから」
「異世界交流によって?」
健渡は眉をひそめた。このタイミングで聞くと、なんとなく嫌な響きに感じられた。
「そ。この世界の人たちにとって潮の満ち干というのは神様のなさることで神聖なものだから『不便』という考えにはリンクしてなかったの。でもそこへ異世界から進んだ技術を持ち込んだ人たちがいて、『橋を架けたら楽になるし、もっとたくさん人を呼べますよ。……え、それなら地続きの道路でもいいだろって? それは駄目です。潮流を堰き止めてしまって、後々いろんな問題が生じるんです。即、橋にしましょう。そういう手順踏むのとか必要ないですから。私たちの世界がすでに体験済みなので、この世界では最善、最短だけ拾っていきましょう。とにかく橋です。任せてください!』って、なかば強引にね。自分たちは何百年もかけて体験した歴史みたいなものを、こっちの世界では、こう、ぐるっと針をすすめてしまったというかなんというか」
深矢子は宙に思い描いた時計の針を指で無理矢理動かすような仕草を見せた。
深矢子の説明を聞けばなおさら眉間の皺は深くなる。
「それは……いいことなんですかね」
「さあ、どうだろう」
深矢子は笑顔だった。
「ちなみに日本の企業も技術協力してるよー」
あの辺に〇〇建設と書かれた記念プレートがあるよなどと言われたが、そういう情報はむしろ欲しくないし、今はそんな話をしているのではない。
「大人ってのは、すぐにそうやって誤魔化すんだからさ」
健渡がボソッと言うと、新介が健渡の肩を叩いた。
「自分の目で見て確かめろってことよ」
そのための旅行でもあるんだからと新介が言う。
「おじさんは、そういう旅行がしたかったの? 異世界で?」
言うと一瞬黙った。
しかしすぐに口もとを緩ませて、橋の終着にある岩山に目を遣った。
「知ってるか? 剣と魔法だけが異世界じゃないんだぜ」
格好つけて言ったようだが、健渡にはその言葉の意味はよくわからなかった。隣りに立って橋の先を眺めてみても、新介のように目を輝かせることはなかった。
むしろ、島に近づくほどに、健渡の気持ちは暗く重くなっていった。
「それじゃあ島の中を歩くよ。まず入ってすぐにあるのが、超有名なレストランで、ここで食べられるオムレツが絶品なの! もう、ふわっふわで――」
「モンサンミシェルだよね」
「あ、あっち! あっちのお土産屋さんのお菓子が美味しくて。私たちの世界で言うサブレなんだけど」
「モンサンミシェルだよね? しかもオムレツのお店もサブレのお店も、同じ一族が経営してるんでしょ」
「観光客は普通、表通りのいわゆる参道を歩いて頂上の神殿まで行くんだけど、この狭い、建物と建物の間の道に入ると迷路みたいに入り組んだ島の生活道路に入れて楽しいという――」
「だから、それもモンサンミシェルだよね」
深矢子がいろいろと説明してくれるが、聞けば聞くほどモンサンミシェルで、健渡は仏頂面のまま観光客の間を縫うように進んだ。
「それにしても、お前、モンサンミシェルに詳しいな」
新介らしく変なところに食いつく。
「母さんが行きたいらしくて、テレビの録画を何度も見せられたから」
健渡は新介に言って、隙間なく建ち並ぶ建物の肌を見た。使われている石の種類が違うのか、何遍も見せられたモンサンミシェルの街並みとは色合いが少し違っていたが、だいたいは一緒で、まるで間違い探しをしている気分だった。
巻き貝の貝殻の様な形の街には、人がゆったりと生活できるような平らな土地はまずなくて、貝殻の螺旋に沿って参道と家々とがのびている。大人二人が手をのばして並んで立てば、それで向かいの建物に届くような道が『メインストリート』と呼ばれていた。
所狭しと掲げられた看板は、古いものもあるがだいたいは最近出来たようなもので、中には健渡たちが住む世界の言葉、つまりこの街に住む人たちが普段使うことのない文字で書かれたものもある。そんなところまでモンサンミシェルだった。
「ここに来て喜ぶ人は、異世界に何を求めてるんだろうね」
健渡は建物と建物の間に隠された細い階段を進んだ。登り始めは深矢子が先頭にいたが、いつのまにか追い越していた。「若いねー」と深矢子が笑う。そのさらに後ろで新介が膝に手をつきひぃひぃと情けない声を出していた。
もう少し登れば、たしかオムレツの一族の墓があるはずだ。そこを過ぎてさらに登るとまた参道と合流し神殿の入り口に出るだろう。
異世界を歩いているというのに、健渡の頭の中に浮かんでいるのは、家のテレビで見た、同じ世界のよその国の情報だった。
どこからか、日本語が聞こえてきた。
何を言っているかまではわからないが、聞き取れる範囲では、英語の他にドイツ語やフランス語、中国語らしき言葉も聞こえてくる。ここはもう、健渡が住む世界の観光地と何も変らなかった。
どこもかしこも、侵食されてしまっていた。




