三、日本国政府公認異世界旅行添乗員
風鈴を吊した扉状のものは、異世界への入り口へと変る。
風鈴の音が鳴ったかと思うと、鴨居の下に見えていた風景――つまりリビングの隣の和室の風景は、見知らぬ景色へと変ってしまった。言うなれば、鴨居下に大きなスクリーンを張って、そこへ異世界の映像を投影したような見栄えだ。
しかしこれはスクリーンではないし、映像でもない。
そちらの地面に靴を下ろして足を入れた。ソール越しに、引き締まった土の感触があった。
足だけでなく全身がそちら側に入ると、風や匂いといった、世界そのものを感じられるようになった。風はさわやかで、土の匂いと青い草の匂いが肺に流れてくる。
その奥にかすかに潮の香が薫ったような気がした。
「海、みたいなものがあるってこと?」
『みたいな』という言葉を足したのは、ここが異世界であるということを加味した結果だ。
「海だろうな。成分や成り立ちがまったく一緒かどうかまでは知らんが、海でいいんじゃねえか?」
「おじさんは、ここがどんな世界なのか知ってるんだろ」
「まあな」
新介は健渡の問いかけに答えながら、鴨居から風鈴をはずした。一度鳴らしてしまったら速やかに異世界の側に移動してしまわなければならないらしく、なんとも慌ただしい出立となった。
こちらからは健渡の家のリビングが見えていたわけだが、風鈴をはずしたことでそれはまったく消えてしまった。
景色がすっと消えるのと同じような動きで、健渡の背中に冷ややかなものが駆け抜ける。それはまるでジェットコースターの、落ちる瞬間のあの感覚のようで。
「……帰れるんだよね?」
消えてしまったリビングを見つめながら健渡は言った。
新介はザックのてっぺんに木箱を器用にくくりつけているところだったが、健渡の不安そうな声を聞いて顔を上げた。意外そうな顔をして健渡と向き合う。
大人らしく頼りになるようなことを言ってくれるのだと思ったのだが、
「お前もそんな弱気なこと言ったりするんだな。いやあ、なんかいいもの見た気分だわ」
そう言ってニヤニヤと気持ち悪い笑い方をしただけだった。
健渡は腹が立って、新介のすねの辺りを軽く蹴った。いてっ、とやや大袈裟な反応。
「それくらい、痛くもなんともないだろ」
呆れたように言うと同時、背後に気配を感じた。
右後方から忍び寄った影は、健渡の肩越しにのぞき込むようにして新介と目を合わせたようだ。新介が「お」と短く声を上げる。
「ね。ホント、新介は痛いときとか大袈裟に言うよね」
耳のすぐそばで女の人の声がした。
反射的に、飛び退けるようにしてその声の主と距離をとる。何か刺激を加えられたというわけでもないのに、健渡はドギマギしながら右耳を押さえた。
「あ、君も大袈裟なカンジ?」
そこにはすらっと背の高い細身の女性が立っていた。着ているものは膝が見えるくらいのハーフパンツにジャケット、首もとにはスカーフという、どう見ても健渡たちと同じ世界の人間の出で立ちで、頭の上にはバスガイドみたいな小ぶりな帽子が載っていた。そして、香水のいい匂いが嫌味なく香った。
メイクにも前髪のゆるめの巻き具合にも抜かりはない、世に言う『デキる女子』という感じの女性だった。
「し、知り合い?」
右耳はまだ押さえたまま。健渡は言いながら、じりじりと、さらに女性との距離をとっていく。
「はじめまして! 新介の知り合いで、日本国政府公認異世界旅行添乗員で、今回の旅行のお世話をさせていただきます、若槻深矢子です。よろしくね、ええと」
「浜尾健渡です」
「ああ、そうだった。健渡くんね。よろしく。私のことは『深矢子さん』って呼んでね」
ニコリと笑う愛嬌たっぷりの顔は、新介の方を向くと一変した。
「ちょっと、集合時間過ぎてるんだけど。何してたの!」
腰に手を当て眉をつり上げ、先程まで笑顔を作っていた口もとは、真一文字に結ばれている。
「悪い悪い。出がけにこいつがごねたせいでさあ――」
「どうだか。新介のことだから、どうせ何の説明もなしに突然押しかけたんでしょ? 『健渡、異世界行くぞ!』とか言って」
あの光景を見ていたかのように再現する。
「腐れ縁だもの」
深矢子は健渡に話すときにはきっちり笑顔に切り替える。
「いい? 私は見ての通り優秀な添乗員で売れっ子なの。ご指名、予約でびっちりなのを、新介がどうしてもって言うから来てやったんだから、時間を守るとかそういう基本的なことはしっかりしてくれないと困るわよ。……もう。先が思いやられるわ」
頭を抱えた深矢子は、そうしながらも腕時計を確認していた。こちらの世界でも同じように時間が流れているのだろうかと不思議に思ったが、見せてもらうと、深矢子の腕時計は健渡が知っている時計とは文字盤に書かれているものや針の数が違っていた。
「異世界ガイド七つ道具のひとつなのよ」
と言う。他の六つはそのうちね、と言いながら背負っていたリュックから冊子を取り出した。やはり新介と同じような、山登りでもしそうなリュックだった。
深矢子は取り出した冊子を健渡と新介に手渡す。
健渡は受け取ってすぐにパラパラとめくってみた。ガイドブックのようだった。異世界旅行にもこういうものがあるのだろう。
しかし表紙に戻ってみると、気になる一文がある。
『夏休みの自由研究におすすめ! 七つの世界を巡る、異世界旅行記制作コース』
とはどういうことか。
「あら。聞いてないの?」
営業スマイルは健渡の返答を聞いて一変する。
「新介! 君というやつは、もしかして健渡くんを騙して連れて来たんじゃないでしょうね?」
わかりやすくギクッと新介の肩が動く。
「ええと、『騙した』とは?」
恐る恐る尋ねると、深矢子は深いため息のあと、今回の旅がどういう旅であるのか、本当のことを教えてくれた。
「ええと、つまり、本来は異世界旅行というのはおじさんの稼ぎでは行けなくて、」
「せいぜい一カ所、しかも日帰りが関の山だろうねー」
「それが、『夏休みの自由研究として異世界に行った旅行記を提出するという条件付きで、旅行代金が格安になる』という?」
「そういうプランでお申し込みいただきました」
ありがとうございまーす、と深矢子は深々お辞儀する。
健渡は新介の方を見た。
新介は一度顔を逸らしたが逃げ切れぬと思ったのか、申し訳なさそうな顔をして健渡と視線を合わせた。
「誰が旅行記書くって?」
「いやあ、そりゃ、小中学生が対象だからお前が……な?」
「俺、そんな面倒なことやらないよ」
「何言ってんだよ。他にやりたいことあるのか、自由研究? ないだろ? ここで快諾すれば、自由研究のネタ探さなくてもいいし、破格の料金で異世界旅行楽しむことができるんだぞ?」
まるで最高の条件のように言うが、
「俺の学校、そういうのないし」
「は?」
「だから、俺の学校、夏休みに自由研究やれとかそういうのないよ。市のコンクールに参加したいやつはやってるみたいだけど。っていうか、小学校のときから『やりたいやつだけ』って感じだったよ」
「そうだね。最近は任意提出のところ、多いみたいね」
うんうんと深矢子が頷きながら聞いている。
「おじさんは独身で子どももいないから、そういうの知らないんでしょ」
「いや、それを言ったらあいつだっていい年して独身で――」
どこかからイワシの缶詰が飛んできて新介の顔に当たった。
「私はこの仕事で子どもたちと触れ合ってるから知ってるわ。新介は社会と触れ合うことなく生きてるから、いつまで経っても情報が更新されないの。っていうか、健渡くんは年齢がどうとか、独身であることがどうとか言ってないから。君の世間知らずっぷりを指摘してるだけだから。いい? 大事なことだからもう一回言うけど、問題なのは、年齢とか独身だとかそういうことじゃないんだからね」
何かが彼女の逆鱗に触れたようだった。
不機嫌の名残を消しきれず、苦い表情のまま健渡に言う。
「当プランをご利用の場合、旅行開始後のキャンセルには違約金が発生しますのでご注意ください――ってパンフレットにも申込書にも書いてあるんだよね」
「でもそれ払うのは新介おじさんなんで」
健渡は食い気味に言った。
「健渡ぉぉ」と情けない声が響く。
「私もそこは気にしてない。問題はその下にちっちゃく書かれてることで」
いつも持ち歩いているのか、申込書を取り出して健渡に見せた。
「この旅行プランは文科省公式のプログラムなので、旅行に関して得た情報を各自治体の教育委員会に提供する場合がありますっていうような文言」
「俺に何か影響あるんですか?」
「まあ、正確なところはわからないけど、もう夏休みの自由研究で旅行記を提出するって登録してしまっているから、もちろん学校側にも伝わってるだろうし、」
「それはつまり?」
「もしかしたらよ、もしかしたら。最悪、学校の成績に影響したりとか、そういうことがあるかもしれないよー、っていう話?」
なんとも歯切れの悪い物言いだ。
その横で、新介は期待たっぷりの顔で健渡に目配せをしている。「言うとおりにしろ」「腹をくくれ」とでも言っているのか。
むすっと膨れた健渡に、深矢子は例の営業スマイルを見せる。
「旅行記のテンプレートとか種類も豊富だし、とりあえず写真たくさん貼っとけば形にはなるし、それでもダメなら最後は新介に書かせればいいよ」
「いやいや、自由研究を家族が助けるのは、俺は反対派だ」
新介が口を挟む。しかし深矢子に睨まれては黙るしかない。
「せっかくだから異世界を楽しもう? ね?」
深矢子は健渡には優しく言った。
その様子を見て、新介がまた余計なことを口にする。
「そんな熱心に勧めるなんて、さては、キャンセルの場合はお前にもペナルティがあるんだろう?」
またしても何かが新介の顔に当たった。今度は焼き鳥・塩味の缶詰だった。
「誰のためだと思って――健渡くん、このどうしようもない奴は置いていこう。さあ! このナンバーワン添乗員の深矢子さんが、異世界の魅力をたっぷり見せてあげるからね!」
深矢子は健渡の腕を掴んで歩き出した。
「この人たち、俺の意見を聞く気まったくないよね」
健渡はそう呟いてため息をこぼした。
なし崩し的に『夏休みの自由研究におすすめ! 七つの世界を巡る、異世界旅行記制作コース』という旅行プランの催行が決まった瞬間だった。




