十一、ムシュテル
得体の知れない声に応じて右手を挙げてみた。
ほぼ同じタイミングで左手が翻訳機のスイッチを探し当てる。機械が作動すると、今までガヤガヤと響いているだけだった群衆の声が言葉となって耳に入ってきた。
それらの言葉とは明らかに違う音色で例の声は聞こえてくる。
声の主がこちらを見つけたような気配はなかった。変わらぬ調子で『聞こえる人間はいるか?』と呼びかけていた。
「お前、何やってんだ?」
代わりというわけではないが、新介が不思議そうに声を上げる。
「手を挙げろって言われたから」
「はあ?」
新介は深矢子に視線を遣った。「そんなもの、聞こえてないよな?」と確認しようとしたらしかったが、予想外に深矢子は「ああ、それはたぶん」と心当たりがあるような反応を見せた。
「そっか。健渡くん聞こえたのね」
「深矢子さん、何か知ってるんですね」
「それ、女の子の声だったでしょ?」
「女の子、というか。女の人なのは確かだけど」
子というのには少し抵抗を感じる、どっしりと落ち着いた声のように健渡には聞こえた。
「他の子が使えるようになったなんて話はこの深矢子さんのところにも届いてないから、まあ、間違いないわね」
深矢子は自分の言葉にウンと頷いた。それから何かを説明するでもなく周囲を見渡して誰かを探す。「今日はそんなに人多くないしねー」などと言いながら一周目では見つけられず、二周目に入ったところで声の主に呼びかけた。
「ムシュテル! 近くにいる?」
周囲にいた人間のうち何人かが深矢子に注目した。みんな似たような服装だったから、きっとこの世界の住人なのだろうと健渡は思った。
彼らにとっては『ムシュテル』という響きは耳馴染んだもののようで、あちこちから「あっちにいるよ」というような声が返ってきた。
そのすべてが指差した方向をたどると、そこに一人の女が立っていた。
指差した人々と同じような出で立ちの女だった。腿にかかるくらいの丈の外套を和服のように体の正面で重ねて合わせ、ロープのような形状の腹帯で留め、右腕を袖から抜く。初めは左肩から右の腰へと流すような肩掛けを身に着けているのかと思ったがそうではなかった。腰帯に付けた飾りのように見えていたものは空の右袖がだらっと垂れていただけだった。これがこの辺りの民族の伝統的な着こなしらしい。
大抵は外套の前立ての辺りに色鮮やかな刺繍を施すようだがその女のは違う。銀糸のように美しく輝く獣の毛皮が縫い付けてあって、中に身に着けた朱色の着物をさらに派手に見せた。
袖のない着物からのびる右腕には、肩から指先に至るまで、墨色の紋様がびっしりと刻まれていた。これもまた、周囲の人々には見られない彼女だけの特徴のようだった。
「あ! ムシュテル! こっちこっち」
深矢子が大きく手を振った。
ムシュテルと呼ばれた女はどこから声がしているかと見回していたが、深矢子の姿をようやく見つけるとすぐに駆けつけた。彼女がたどり着く前に「あの子が声の主だよ」と深矢子が耳打ちをする。
「ああ、ミヤコ。来ていたのか」
目の前に来たところで印象は少し変わった。
深矢子の言うとおり女の子なのかもしれないと健渡は思った。
若々しい見た目からそう思ったということもあったが、『女の子かもしれない』と思ったのは、目の前の彼女から発せられた声のせいだった。健渡の頭に直接届くように響いた声とは少し異なり、耳に届いた彼女の肉声ははつらつとしていた。それでいて少女らしい甘さを含む声だった。
ムシュテルは深矢子と軽く挨拶を交わすと新介と健渡に目を遣った。新介に会釈して、健渡にも同じように――しようとしてぴたりと動きを止めた。
所在なげにしている健渡の右手を見つけて「あっ!」と声を上げた。
「それは手を挙げているのか? もしかして声が聞こえたのか?」
ぐいと距離を詰める。
「ああ、は、はい」
後退りするもその分だけムシュテルが前進してくる。頭の高い位置でくくった真っ赤な髪の毛が元気に揺れていた。
「良かった! ミヤコの連れであれば話も早い! さっそく村に来てくれるな?」
ムシュテルは健渡の右腕を掴んで下ろさせると、そのまま握手をする形で手を握った。
「ちょっと待って、何のことだか話が――」
困惑する健渡だが
「ミヤコ、構わないな? もとより村に来るつもりだったのだろ」
「もちろん。健渡くんが聞こえた場合を考えてタイムスケジュールはゆったり設定してあるから、思う存分使ったげて」
「流石ミヤコだ。恩に着る。それでは遠慮なく頼らせてもらうぞ」
本人の承諾など得る必要はないとばかりに深矢子とムシュテルの間で話が進められる。
「まあ簡単に言うと『人助け』ね。難しいことじゃないから心配しなくて大丈夫よ」
深矢子がさらっと言った。健渡の頭の中では「思う存分使う」だとか「遠慮なく頼る」だとかそんな言葉がリフレインしている。そんな状態では「心配しなくて大丈夫よ」という言葉はどうも胡散臭く聞こえた。
「クエストみたいでいいじゃねえか! これぞ異世界って感じだな!」
健渡の不安を払おうとしたのか、それともただ純粋に興奮しただけだったのか。新介が健渡の背中をバンバン叩きながらそう言った。
「おじさんって、ほんと単純だよね」
「何だよ、浮かない顔して。まさか断る気じゃないだろうな」
「まさか。この状況で断れるとか思わないから」
二人の会話を聞いた上で自分の意思が尊重されるなんてことは考えたりしない。
「まあ、添乗員が付いてるんだから、命の危険はないんだろうけど」
「そうだそうだ。だから腹括って楽しむ方向にシフトすればいいぜ。なにせ『選ばれし者』にしかできないことっぽいしな。……ちくしょう、なんで俺には聞こえないんだ!」
悔しさを滲ませながら足した一言に、健渡はため息で答える。
「そんなに羨ましがること? 選ばれたって言ったって、俺だけが特別ってわけじゃないんでしょ? これが初めてってわけじゃなさそうだったし」
「それでも選ばれたことには変わりないだろ。それとも何か? お前は『伝説の勇者さま』とか代わりがいないような存在でないとイヤだとか言うのか?」
「そんなこと最初から期待してないよ。お金払って参加してる旅行だよ?」
「じゃあどんな要素があればお前は楽しんでクエスト引き受けるって言うんだよ」
「そうだなあ、報酬とかあるなら、まあヤブサカではないかな。お金とかアイテムとか、何かのポイントだとか、そういうの?」
「気にするとこ、そこか?」
「クエスト受けるときに真っ先に気にするところだと思うけど。まあギルドとかを介したものじゃないから、もしかしたらストーリーを進めるために必要なメインクエストなのかもしれないけど。そうだとしたら報酬はあまり期待できないか。いや、でもレアアイテムとかがもらえる可能性はあるか」
「……お前やっぱり異世界好きだろ」
「全然」
「本当にか?」
「本当だってば」
健渡は言った。それ以上受け付けないとばかりにバッサリ言い放って、視線を深矢子へと転じる。
「クエストの詳細、教えてもらってもいいですか?」
大真面目にそう問うと、深矢子は「できるだけそれっぽく説明するね」と言って困ったような笑みを見せた。




