十、右手を挙げてみた
次はこれだと新介が手に取ったのは、草原の色をした風鈴だった。盛夏のころのむせるような濃い緑ではなく、積雪を割り姿を見せた初々しい緑の色の風鈴だ。
異世界の街中には、健渡たちのような旅人のためにちょうどいい枠が置かれている。
上部にはもちろん風鈴を掛けられるような金具が取りつけてあって、誰でも自由に使えるようになっていた。
そこに新介が風鈴を提げた。
音が鳴らないように押さえる役目は今回は健渡が任された。その間に新介は自分の荷物を整える。
「健渡、ちゃんとつかんでろよ」
「大丈夫だよ。俺、おじさんとは違うから」
「お前ってやつは、どうしてそう一言多いんだ」
新介は言いながら桐の箱を仕舞っている。リュックにしっかりと固定すると健渡の隣に立った。
「次はどんなところ? ガイドブックの順番通りに行くの?」
「いや。その辺は俺のチョイスだ」
「おじさんの?」
「何だよ、その嫌そうな顔は」
新介が機嫌を損ねる。
「どうしてそこで自己主張するかな。こういうときはプロに任せた方がいいんじゃない?」
健渡が言うと、深矢子がウンウンと頷いて同意した。
「私もそう言ったんだけどねー」
「金出してるのは俺なんだから、順番くらい決めたっていいだろ」
「これだもん。健渡くんのおこぼれで異世界旅行に来られたくせにねえ」
ねえ、ともう一度言って深矢子は健渡に笑いかける。
「まあ、おじさんはそういう人だから」
健渡はそう言ってわざとらしくため息をついた。
新介は悔しそうに何か言おうとしていたが、
「俺は大人だからな。気持ち良く折れてやるよ」
そう言って澄ました顔をした。折れてやるというのは、やっぱりプロに任せるとかそういうことではなくて、「この無益な言い争いを終わらせるために悪者になってやってもいいぜ!」ということらしかった。
そもそも争いにもなっていないし、そう言いかけて健渡は飲み込んだ。音が鳴らないように風鈴を固定していた右腕がそろそろ限界を迎えようとしていたから、それこそこの無益な言い合いをさっさと終わらせてしまいたかったのだ。
「早く行こうよ」
健渡は言った。
「何だ、やる気になってきたか?」
新介がウザい返しをしてきたが拾ってやらない。
「準備はいい? 鳴らすよ」
健渡は風鈴から手を離した。
はかったようなタイミングで風が吹く。海からの風は潮の香と湿気をたっぷり含んでいた。さっき見た無垢なる獣と大きな波を思い出して、健渡はぶるっと体を震わせた。次はどんな世界だろうと考えると、口もとが緩みそうになった。それを新介に悟られたくなくて、わざと厳しい表情をする。嫌いな先生の顔を思い浮かべれば、それは容易いことだった。
風鈴が鳴った。
短冊が風を受け舌を揺らす。切子細工の外身がりぃんと涼しげな音を響かせた。
枠の中の景色が変わった。
まず見えたのは、風鈴の色に似たやわらかな緑の色だった。芝生の広場のような空間に見えた。背の低い草が生え、その奥には花壇も見える。さらに奥には高い山のようなものが見えたが、枠の形に切り取られた景色だったから、そこがどんな場所であるかはまだよくわからなかった。
「お前から行くか?」
「いいよ、おじさんに譲ってあげるよ」
「お。いいのか?」
新介がにやにやしながら、すでに一歩目を踏み出している。
最初からそうするつもりだったくせにと、健渡は呆れた顔であとに続いた。
二つ目の風鈴で訪れた異世界は『ゾルダート』と呼ばれる世界だった。
「まず最初に基本的な説明をしておくと、この世界には魔法があります。あるけど、そんなに一般的ではないかなあ。ごく一部の人が使える感じね。それから世界情勢とかは――まあ置いておくとして。文化とか技術レベルとかについては、いわゆる『中世ヨーロッパ風ファンタジー』を思い浮かべてもらえば、理解が早いんじゃないかなあと」
「ずいぶんざっくり説明しやがったな、売れっ子添乗員さんよぉ」
「指名料いただけてないもので。説明は最低限にとどめさせていただきましたー」
噛みついた新介をあっさりといなす深矢子。
「中世ヨーロッパ風ファンタジーって言ったって、モノによって全然違うだろうが。たとえばゲームで言えば、青いぷるぷるしたのが出てくる方の路線なのか、それとも黄色くてフサフサした鳥みたいのが出てくる方の路線なのか、とか」
なあ、と新介が同意を求めてきたが
「俺、どっちもちゃんとやったことないから」
健渡はそんな返答で新介をガッカリさせた。
「どっちもって、お前、正気か?」
「今どき珍しくないでしょ」
ケロッと言うと、新介は「嘆かわしい。ああ嘆かわしい」と念仏のようにしばらく繰り返していた。健渡はそれに構わず、周囲をぐるっと見渡した。
健渡たちがいる場所は異世界『ゾルダート』の『音の鳴り響く谷』と呼ばれている地域だ。
こちらの世界に足を踏み入れて最初に目についたのは街を挟むようにそびえる断崖だった。
ガイドブックによると『音の鳴り響く谷』と呼ばれるこの地域は、U字谷の底にいくつかの街や集落が点在する場所だということだった。
崖から崖までの距離、つまりU字谷の底部分の幅は広いところでも一キロメートルに満たず、限られた平らな土地を使って穀物や野菜などを栽培しているのだという。
その谷の、比較的下流に近いところにあるウスレンデルという街がこの地域を訪れる人の観光拠点となっていた。
街並みは、深矢子が言った通りいわゆる『中世ヨーロッパ風ファンタジー』と言った具合だった。漫画やアニメで見るような、剣と魔法と冒険の世界に出てくる小さな街みたいで、木組みの家がゆったりとした間隔で建ち並んでいた。骨組みの木材はしっかりと黒く、その間を埋める漆喰壁の白は実に鮮やかで、谷底に注ぐ貴重な陽光を浴びて美しく輝いていた。
その家々のまわりにはたっぷりと緑があった。風鈴を鳴らしてすぐに見えていた緑だ。芝生のような広場に見えていたものは、民家の庭や単なる空き地だったようだ。特別手入れされていないような草地がそこかしこにあって、ともすれば暗くなりがちな谷底の街に活き活きとした色合いを加えていた。
健渡は両脇にそびえる断崖を眺めた。
高さと言うべきか、深さと表現すべきか。それは三百メートル近くあるという。
その深い谷にやさしい風が吹き抜けた。
緑の匂いを連れて、健渡の鼻をくすぐる。
風は少しひんやりとしていた。
「谷の底ではあるけれど、ここはそれなりに標高の高い場所だからねー。大丈夫? 寒くはない?」
健渡の半袖シャツの袖を指して深矢子が言う。
「涼しくていいです。日本の暑さにうんざりしていたからちょうどいいかも――って、そういえば、異世界って季節とかそういうのはどうなってるんですか?」
ふと疑問に思って尋ねた。
さっきまでいた世界では暑くもなく寒くもなくといった具合だったからあまり気にかけていなかった。
「異世界にも季節はあるよ」
深矢子は言った。しかし間髪を開けずに「あるところにはね」と付け足す。
「ずっと寒いところとかもあるし、ずっと暑いところとかもあるし、あとは、暑いとか寒いとか感じない、不思議な体感を味わえるところもあるの」
添乗員として仕事で行ったことのある異世界はそんな感じだったと深矢子は言う。
「でも今回健渡くんが参加してる『夏休みの自由研究におすすめ! 七つの世界を巡る、異世界旅行記制作コース』で選べるのは、私たちの世界に似た世界ばかりになってるのよ」
「俺たちの世界に似てるって、それは季節がってこと?」
「程度の差はあるけれど、暑くなったり寒くなったりするってことね。中には常夏の国とかもあるけれど、それは私たちの世界にもあるでしょ?」
「ありますね」
「ちなみに今回行く異世界はみんな一日の長さも一年の長さも、私たちの世界とほぼ同じなんだって」
「え! そんなことってあるんですか?」
「ねー。偶然にしてはできすぎよね。だから、地球が重ね着してるんじゃないかって説があるらしいわよ」
「重ね着?」
「そう。地球が、いろんな世界を」
深矢子は地球をイメージしながら宙に円を描く。その円の外周にさらに円を重ねていった。
そこに新介が割り込む。
「それでも『なんで異世界なのに月があるんですかー』とか『普通に太陽が東から昇って西に落ちるとか、設定考えるの放棄してるんですか?』とか『異世界なのに一日二十四時間とか笑止』って言ってくる奴がいるんだぜ。あとジャガイモがどうとか――」
「それ、何の話だよ。っていうか、今ジャガイモは関係なくない?」
途中から話に加わって激しい剣幕で怒り出す。健渡の言葉で我に返ったようで、新介は「ああ、こっちの話だ」とバツが悪そうにした。健渡と深矢子は顔を見合わせて「やれやれ」と声を揃えた。
「そういうわけで、この世界も私たちの世界と一緒で一年の後半に入ったところよ」
「それなのにこんなに涼しいなんてうらやましい」
健渡は全身で風を感じながら深呼吸した。
草の匂いが心地良い。
ミント味のタブレットを噛んだあとのような爽快感があった。自分が住んでいる場所で同じことをしたならば、きっと肺の中がサウナになってしまうだろう。健渡はそう考えながらもう一度大きく空気を吸い込んだ。
人々の賑やかな声に交じって鳥のさえずりが聞こえた。その鳴き声もまた心地良い。
「……ん? そういえばこの辺って『音が鳴り響く谷』っていうんですよね? そんな風には感じないというか」
それなりに人がいるところだから、それなりに音が溢れてはいる。だが『鳴り響く』という表現が相応しいような音は今のところ健渡の耳には届いていなかった。
「なんだ、健渡お前、ガイドブック読んでないのか?」
新介が口を挟む。
「予習しすぎるとつまらないかと思ったんだよ」
悪い? と続きそうな口調で健渡は言い返した。
「おじさんは読んだの」
尋ねると
「いいや。読んでない。でも知ってるぜ」
得意げな顔で言う。
その表情がまた実に腹立たしくて何か言い返したくなるのだが、それをやってしまうと、それだけで一日が終わってしまいそうだ。
それを察知したらしい深矢子が二人の間に割って入った。
「それを見るのが今日のハイライトだから。さっそく行きましょう」
添乗員の顔で二人に笑顔を振りまいた。
「そうそう。その前に、はいこれ」
そう言って深矢子が健渡の手に何かを握らせた。
「……ワイヤレスイヤホン?」
健渡の手の平には、ワイヤレスイヤホンによく似たものが乗っていた。それも片耳分だけがだ。
「それ、翻訳機。耳に付けたらいちいち私が通訳しなくてもよくなるから」
笑顔を崩さずあまりにさらっと言い放つものだから、健渡は自分の反応の方が間違っているのではないかと思った。
しかし反芻してみても、深矢子の発言はやはりおかしい。
「どうして『今』なんですか」
「『今』だとおかしい?」
「こんなのがあるんなら昨日から渡してくれればよかったんじゃないですか」
言うと深矢子は考える素振りを見せた。
かかった時間はほんのわずか。
視線を漂わせたり首を傾げたりしていたが、たいして頭を働かせていなかったような間で
「言葉が通じない方が異世界に来てるって感じがしていいかなって思って。でも七日間も続くと大変でしょ? だからよ」
当然のように言って早く装着するようにと促す。
健渡は大きなため息をついた。新介とは違ってきっとまともな大人だと、そう信じようとした自分の考えが愚かしく思えてきた。
深矢子の言うことに渋々従って翻訳機を耳に着ける。イヤホンの形をしたそれは、耳にしっかり固定させるためのフックがついたタイプのものだった。
「上の方にスイッチがあってそれを押すと起動するから、正常に翻訳してくれるか動作チェックしてみて」
「スイッチって、どこですか?」
指で探ってみてもいまいちわからず慌てる健渡。
「わかりやすいところにあるだろ」
新介がいとも簡単に見つけたのを見て余計に焦る。
「スイッチ……」
見つけられずにいるのだから、まだ聞こえるはずがない。
しかし声が聞こえた。
『聞こえる人間はいるか?』
確かにそう聞こえた。
しかし自分の耳で聞く正常な音声とは異なる声だった。それは鼓膜を通ってくるのではなく、まるで頭に直接響いたようなそんな声だった。
『聞こえる人間はいるか?』
もう一度響いたその声は、新介や深矢子には聞こえていないようだ。
翻訳機からではない。
『聞こえている人間がいたなら、その場で手を挙げてくれないか?』
呼びかける声。どうやら若い女性の声らしい。
健渡は周囲を見回した。
他に『声』が聞こえたような素振りをしている人間は見当たらない。
自分だけに聞こえているのか。
健渡は困惑しながらも、すっと右手を挙げてみた。




