◆ 学院編 古代遺跡 -12-
「あの閉ざされた塔の中で、彼にとっての救いは母と侍従の存在だったはずだ。母は常に傍らに寄り添い、侍従は武と知を惜しみなく与え、孤独に押し潰されそうな日々を支えていた。だが、その母を失ってから……ルクレールはずっと面影を追い続けている。だからこそ、女性の温もりに異様なまでに傾倒しているのだろう……と、私は思っていた」
リシャールはしばし口を閉ざし、深い沈黙が流れる。
次の瞬間、温かな掌がそっと俺の頬に触れた。思わず瞬きをした俺の瞳を、殿下は逸らさずに真っ直ぐ見つめてくる。
「これが、私がセレスに謝罪しなければならない理由だ」
「何も、謝ってもらうようなことでは……」
「では、私が後悔している理由だ。余計なことを言わなければよかった」リシャールが眉尻を下げ、口元に苦い笑みを浮かべる。「……セレスのことになると、私はどうにも弱いらしい。今、こんなに近くにいるのに、今日、ずっと離れていたときよりも不安になる」
「殿下……」
無意識に口をついて出た呼び方は、どこか一線を引く響きを帯びていた。リシャールの瞳に、かすかな寂しさが揺れる。
「リシャールと呼んでくれないのか」
その声音は、どこか縋るように響いていた。
彼の手を取り、名を呼びたい――一瞬、そんな衝動に胸を突かれた。
だが、それは許されない。
リシャールが想い続けてきたのは、俺が転生してくる前のセレスタンであり、俺の中にあるこの温かな彼に対する感情もまた、本来のセレスタンが抱いていたものだ。
「――突然、入学直後に現れたアルチュールの存在だけでも、私には十分すぎるほどの悩みの種だというのに………」
リシャールの口からその名が告げられた瞬間、俺の身体がわずかに強張る。
頬に触れてたリシャールの掌が、その微細な反応を逃すことなく感じ取っていた。
「セレス、私はナタンほど物わかりが良いわけではない」
「なんの……、ことでしょうか?」
「ナタンは、セレスが幸せであれば、セレスの横に、自分以外の誰か他の者が立つことも受け入れられるらしい」
「……ナタンが、そんなことを?」
思わず俺は問い返していた。
リシャールが小さくうなずく。
「頭の切れる男だ。多分、私たちの中で、一番セレスのことを想っている。……勝てる気がしない。アルチュールにも、ナタンにも、……ルクレールにも」
リシャールは視線を伏せかけて――すぐに俺を射抜くように見返した。
「だが、私はナタンのように潔くはなれない。……セレスが幸せであっても、その隣に他の誰かが立つことを、そう簡単に受け入れられる性格ではない」
その声音は静かだが、抑え込んだ熱を帯びていた。
掌がまだ頬に触れたまま。鼓動が妙に速くなる。
「セレス」
呼びかけとともに、わずかに指先に力がこもる。
「ひとつ、聞かねばならないことがある」
俺は、ごくりと唾を飲んだ。
「――アルチュールと、何があった?」
思わず心臓が跳ねる。
なんてストレートな質問だ。
「アルチュールが今、髪を結んでいるあの紐は、セレスのものだろう?」
夕食のとき、火属性の席と背中合わせに座っていたリシャールの目は、アルチュールの後ろ姿をとらえていたはずだ。俺が使っていた髪紐で、彼が髪を結んでいたことに気づかないはずがない。
殿下の視線がふと俺の髪に移る。
「そして……今、セレスが結んでいるその組紐は、見たことのないものだ。青と銀――贈り物か?」
言葉が出ない。否定すれば嘘になる。肯定すれば、リシャールの瞳の奥に燃えているものに、さらに火を注ぐことになる。
「濃い青……、アルチュールの瞳……、深い碧を帯びた黒だ。そして銀は……セレスの髪。互いの色を編み込んだものだろう。……ガーゴイル討伐のあと、アルチュールが剣の鍛錬に遅れて来た日があったな。学院には、定められた日に街の外商がやって来る。校内の納品所で注文を取り、後日そこへ品を届ける――あのとき、アルチュールは組紐を頼んだのではないか」低く落とされた声。「交換でもしたのか?」
殿下の眼差しが鋭さを増し、熱と不安が滲んでいた。
「――セレス、お前は、アルチュールをどう思っている?」
刃のように鋭い問い。
嘘はつけない。彼は包み隠さず心情を吐露してくれた。
喉の奥がひりつくように乾いて言葉がなかなか出てこないけれど、それでも、リシャールの真剣さに応えなければならないと思った。
「……惹かれていることは、確かです」
吐き出した声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。
胸の奥が痛んだのは、その瞬間、あの男の影が頭をかすめたからだ。
なんてやつだ。まだ出会って間もないというのに、人の中にこれほど鮮やかに爪痕を残しやがって。忘れたくても、意識したくなくても、勝手に思い出してしまう。それが苛立たしくて、苦しくて……それでも抗えない。
けれど、その名を口にすることはできなかった。
それを言ってしまえば、何か自分の中の大切なものを取り返しのつかないほど壊してしまう気がしたから。
殿下の掌が、わずかに強く頬を包み込む。
その熱が、心臓の鼓動と同じ速さで脈打っているように思えた――。
お越し下さりありがとうございます!
(* ᴗ ᴗ)⁾⁾. (♥ ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾
殿下のターンでした。




