◆ 学院編 古代遺跡 -8-
ルクレールがヴァルカリオンの腹に軽く踵を当てた次の瞬間、巨体が砂を蹴り駆け出した。
視界が一気に開ける。来たとき同様、再び力強い蹄音が荒野に響き渡り、体ごと前へと押し出される感覚に、思わず息をのむ。
背後で低い声が囁いた。
「このまま砦までは駆け足だ。気を引き締めろよ」
「言われなくても……!」
強がって言い返すが、胸の奥は奇妙な高揚感に満たされていた。
しばらくして、ふと風を切る音の中、ナタンの言葉を思い出す。
――あの人、水属性なんですか?
気になって、つい口を開いた。
「なあ」
「ん? どうした?」
「あんたの属性って……何なんだ?」
一拍の沈黙。
「……赤き炎だ」
彼は告げる。答える声は低く抑えられているのに、妙に耳に残った。
「やっぱり、水じゃないのかよ……」
なんとなく、そんな予感はしていた。赤き炎だと? 似合いすぎていて、それもまたむかつく。
「なんだ?」
「なんだじゃねーだろー。だから、この隊は、水属性チームじゃないのか? ここに居る騎士も水属性だろ? なんで居るんだよ!?」
振り返ることはできなかったが、背中越しに笑みを含んだ気配を感じる。
「セレスの担当が、居ないんだから仕方ないだろう」
「あんたのせいでなあーーー!」
堪えきれず、俺は右手で肘鉄を食らわせた。だが、見事に胸甲に当たり、俺の肘に痛みが走る。
「っ……いってぇ!」
「くっ、ははははっ……!」背後でルクレールが盛大に笑い転げる。「セレス、お前はほんと退屈させないな」
からかうようで、どこか楽しげな声音。俺を弄ぶのが心底面白いらしい。
一、無許可、二、俺の担当に何か盛った、三、この隊の所属でもない、その上、四、火の属性。規律違反の役満かよ。呆れて果てて怒る気力も消え失せて行く。
「……で、それはそうと、あんた、さっき殿下と何を話していた?」
長い溜息を吐いたあと、ふいに気になって問いかける。
「どうして俺がここに居るのか、と聞かれた」
ルクレールは軽く肩を揺らし、笑いを引きずったまま答えた。
「……それで、なんて答えたんだ?」
問い返すと、ほんの一瞬、背後の気配が真剣味を帯びる。
耳に落ちた声は、妙に低く、そしてはっきりとしていた。
「セレス、お前に会いに来た」
胸の奥が、強く打ち鳴らされた。
「……はあ?」
「セレスに会いに来た!」
もう一度、今度は高らかに言い放つルクレール。
駄目だ、一瞬で顔が熱い。
同じ方向を向いて並んでいるこの状況が、今ほどありがたく思えたことはない。互いの表情を確かめることもできず、見せることもできない――それだけで救われている気がした。
不意に胸の奥で、別の感覚が芽を出す。
嫌だ。知りたくなかった。
俺は、こいつを嫌ってなんかいない。むしろ――気に入っている。
俺はそれから、沈黙を守った。
色恋沙汰に慣れきった男が、恋愛ごとに経験の乏しい俺の動揺を見抜けないはずがない。きっと、こいつは、今の俺の胸の内を読み取っているはずだ。
掌まで熱い。腹が立つ腹が立つ。だが、何か口にすれば、すべて知られてしまうような気がして……言葉を呑み込むしかなかった。
――やがて、荒野の先に薄暗い森林の縁が見えてくる。樹々の間を進むうちに、木漏れ日が揺らめき、視界が開ける。そして遠くに、陽光に照らされた石造りの砦の影が浮かび上がった。
ロクノール森林、第一研究塔の砦――魔物の住処との境界線に位置する重要拠点。つい最近、カナードが綻びの見えた魔力防壁の補修作業を行った場所だ。
王族の視察も年に数度行われるため、石壁は威厳を放ち、内部も魔法防御を兼ねた堅牢な構造になっている。今回の行程では、騎士たちはもちろん、学院の生徒たちもここに滞在することになる。
中庭でヴァルカリオンから降りると、先に地面に下りていたルクレールが手綱を引き、俺の体を支えてくれた。
その直後、背後からヴァルカリオンが俺の外套の裾を咥えて引っ張り、さらに鼻先で軽く肩を小突いてくる。
また「触れ」とせがんでいるのだろう。
「……本当にかわいいな、お前は」
思わず苦笑し、頬を撫でる。すると、ヴァルカリオンは満足げに短く鼻を鳴らした。
「この子に名前はあるのか?」
「ああ、パイパーだ」
「パイパー……、今日はありがとう。明日もまた世話になる」
言葉を口にした途端、昔、祖母の家にいた犬の姿が脳裏に蘇った。別れ際、よく額に口づけをしてやった。
同じように角に気をつけながら、俺はそっとパイパーの額へ唇を寄せた。
パイパーが目を細めて鼻を鳴らす。懐かしい仕草に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そんなやりとりを横目に見ながら、ルクレールが兜を脱ぐと前髪をかき上げながら距離を詰めてきた。
「かわいいのは、セレスのほうだ」
「……え?」
ルクレールの片腕が俺の腰をさらうように回り込む。半ば抱き上げられる形で体が持ち上がり、驚く間もなく彼の力で位置を移される。
そのまま馬の首筋の近くから腹のあたりへと押しやられ、背中がヴァルカリオンの逞しい胴と密着した。
「っ……おい、何をっ!」
反射的に身をよじろうとするが、逃げ場はない。パイパーが驚くほどの強さではなく、それでいて拒めない加減で、彼の掌が俺を留めていた。
壁ドンならぬ、『馬ドン』か……などと考えていると、間近に迫ったルクレールの影が、低い声とともに覆いかぶさる。
「セレスタン……」
顔が近い。
さらに、ルクレールがわずかに身を傾け、額と額が触れ合った。
熱を帯びた体温が伝わってきて、思考が一瞬止まる。
目を逸らそうにも、彼の視線に捕らえられて逃げられない。
「ルクレールっ、人が居るだろう!」
「やっと名前を呼んでくれたな」
「くそっ、兎に角、離れろっ」
「何のために、わざわざこの広い中庭の隅にヴァルカリオンを止めたと思っている」囁きは低く落ち着いていて、むしろ余裕すら漂わせている。「ここなら、誰にも見られやしない」
その言葉に背筋が震えた。嫌悪からではない、もっと別の熱に突き動かされるような震えだった。
少し離れた場所では、生徒たちが次々と馬から降りている。
オアシスのときと同様、疲労困憊の顔で地面にへたり込む者、ふらつきながら騎士に肩を貸してもらう者が続出していた。寮監と担当騎士が右へ左へと駆け回り、水を飲ませたり、倒れ込んだ生徒を支えたりと慌ただしい。
逃げ場のない距離で、彼の額がまだ俺の額に触れている。熱が伝わるたびに、心臓が喉までせり上がってくるのを抑えられなかった。
「……魔眼の力、を、使うな」
絞り出すように言うと、ルクレールはわずかに片眼を細め、それから大きく見開いた。
「力は使っていない」低い声が耳を打つ。「今こうして震えているなら――それはセレスの本心だ」
胸の奥を見透かされたようで、恥ずかしさと悔しさが入り混じり、耐えきれず目を閉じてしまう。
直後、額に感じていた重なりがふっと離れた。
恐る恐る瞼を持ち上げると、ルクレールは地面に片膝をつき頭を垂れ、俺の右手をそっと取っていた。
「……俺のことも労ってくれ」
真摯な声音に、喉の奥が熱くなる。
「今日は……ありがとう」
そのとき、ルクレールの唇が俺の手の甲に触れる。軽く口づけを落とすと、彼は何事もなかったように立ち上がり、外套の裾を払った。
「指導員と騎士には、狭いが個室が用意されている。……そっちは大部屋だろう? 寝苦しかったら、俺のところに来い」
「よっ、余計、寝れないわっ!」
反射的に言い返すと、ルクレールの口元が愉快そうに緩んだ。
からかい半分なのは分かっている。分かっていても、心臓の鼓動がやけに耳に残るのが悔しい。
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