◆ 学院編 加護の授与
「アンセートル・ベネトラクト・アコーデ」
「アンセートル・ベネトラクト・アコーデ……」
樹液の入った小瓶を手にした大司教たちの唱和が再び始まる。
さっきまでリシャール殿下やナタン、アルチュールのデピスタージュを傍から見ていただけだったから分からなかったが、体験してみると先ずは手に、そこから脳に、そして脊髄から足の先まで隙間なく力が漲るような感覚に圧倒された。
これが魔力の流れ――。この世界の言葉では、『サリトゥ』と呼ぶ。
まるで体中のあちこちに仕掛けられていた見えないリミッターが一つ残らず消失し、重力からも解放されたたかのようだ。いや、持っていた能力が底上げされたと言った方がいいのか? 兎に角、全身が軽い。
しばらくすると、俺の両掌に、ローリエの木を伴った見事な『ベネン』が浮かび上がった。外枠の細い円は、銀灰色で縁取られ、鈍い輝きを放っている。
なるほど、美しい。確かに、これは誰かに見せたくなるな。
ついさっき、アルチュールが上機嫌で自分のベネンを見せて来た顔を思い出す。濡れた宝石のような瞳が印象的な、原作ではお目にかかったことのないレアな推しショットだった。脳の記憶メモリーの最前列に保管しておこう。
一連の義が終わると、俺を取り囲んでいた幻影の柱が強風に攫われる浜辺の砂城のように崩れ、跡形もなく消えた。
中々、感慨深い。
ほんの一瞬、余韻に浸ったあと、直ぐ横で未だ尻もちをついていた少女漫画風の修道士に手を差し伸べる。
「ありがとうございます。ロード・コルベール」
修道士は遠慮がちに俺の手を取り、左足に体重をかけようとして眉根を寄せ、かばうようにして立ち上がった。
「痛めたのか?」
俺は腰を下ろし、床に片膝を付いてしゃがむと修道士の左足首に手を添えた。確実にベネンの働きだろう、サリトゥの流れに乱れがあることがありありと分かる――。というか、見える。それは実際に視認しているわけではないが、脳内にイメージとして浮かび上がって来る感覚。
「だ、大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないだろ」
回復魔法の呪文なら知っている。もしも魔法に関する事象が改変されず原作通りだとしたら、この世界で使われている呪文、全てを俺は覚えている。ファンサイトのホームページまで作って新刊が出る度にこつこつと用語集をまとめ上げたんだから。
先ずは、自らの左手首に右手を当て、微量の魔力を流してみた。いきなり他人で試すわけにはいかない。
「トゥレイト……」
温かい波動が伝わって来る。よし、これなら何も問題はなさそうだ。
「もしも違和感や不具合があれば直ぐに教えてくれ」そう言ってから、俺は再び修道士の足首に手を置いて治癒の呪文を唱えた。「トゥレイト」
修道士の膝から踝までのサリトゥの歪みが瞬く間に修正されていく。
あとは――「アレンテドゥラ」。 これで痛みも消えるはず……。
顔を上げると、口をぽかんと開けて硬直する修道士と目が合った。
「まだ痛いか?」
「い、いえ、全く! 痛みが嘘のように消えています!」
「それは良かった」
「ありがとうございます、『銀の君』、あっ、ロード・コルベール」
修道士の頬は微かに紅潮し、はにかんだような少し読み取りにくい笑みを唇に浮かべていた。
「凄いな、セレスは。もう回復魔法が使えるのか……?」
いつからそこにいたのか、背後に立つアルチュールが膝に両手を置いて腰をかがめながら俺の手元をのぞき込んでそう言った。
ぐるりと周囲を見渡すと、この場に居る全員の視線が俺に注がれている。
浄化系魔法は相手側に注ぎ込む自身のサリトゥの調整が難しく、ただ呪文を知っているだけでは的確に、尚且つ思う通りに扱えるわけではない。
それを例え傷を負った相手の状態が重症ではなく打ち身や捻挫であれ、加護の魔法陣が掌に付与された直後にやってしまった。
怪我をした相手を癒したいと思った気持ちが一番大きかったことは嘘偽りのない本心だが……、魔法への好奇心がそこに無かったかと聞かれれば――、
否定はできない。
「口伝や、いくらかの文献では、『リュミエール』は、それだけで能力を発するが、他の持っている能力を安定、増幅、躍進もさせるといわれている」
声がした方向を向いて立ち上がると、若い夏の香りがしそうな爽やかな笑みを浮かべたリシャール殿下がこちらに向かって歩いて来るところだった。ナタンも居る。
「殿下」
「リシャールと呼べ、セレス。でないと私もお前を『麗しき銀の君』とか、『憧れのロード・コルベール』と呼ぶぞ」
「やめて下さい!」
即座の俺の拒否反応に、いたずらっぽく片眉を上げて殿下がくすりと笑った。やんごとなき相手、しかも推しから恭しく扱われるだなんて、尻がこそばゆいにもほどがある。
ってゆーか、『麗しき』とか『憧れの』って何なんだよ?? それ、『金の君』こと、あなた様を表現する形容詞だろう!?
「『リュミエール』に属す者になんて、先ず、今まで会ったことがないどころか、我が王国に伝わる数多き文献にも記述は少なく、色々と分からない部分が多過ぎる。今後は常にセレスの側に居て観察させてもらおうかな」
いや、殿下にそんなことをする時間があるのなら、俺なんかほっといてアルチュールと行動を共にしててくれ、頼むから。間近でそれが見たいんだよ、お願いします。
「いいえ、側に居るのはこの私です。今までも、これからも。現在、侍従としては休職中ですが、なんといってもセレスさま……、セレスは私の主ですから」
口元を弓形にゆるませてナタンが言った。
「前々から思っていたが、セレスに友達が少ないのはナタン、お前のせいじゃないか? サロンでもセレスが私だけではなく他の誰かと話していると直ぐに間に入って来るし、「お時間ですセレスさま」とか言って、早々と帰宅を促すし」
「そうですか? でも殿下の場合は仕方がないと思いますよ。異国から来られた要人が目の前に居ても、ほったらかしにしてセレスさ……、セレスと二人で話し込もうとするからです」
「殿下じゃない。ここではリシャールと呼べと、……いや、お前だけ私のことをリシャールと呼び捨てにするのを許さん」
「なんでですか、リシャール、リシャール、リシャール!!」
何か……この二人、仲良いな……、と思って眺めていたら――、
「あの二人、仲良いな」
隣でアルチュールが同じ事を考えていた。
「うん。原作にはこんなシーンは無かったから、新鮮だわ……」
「……原作?」
「あ、いや、その……」
やばい。
どう誤魔化そうかと一瞬、頭を捻っていると、
「なあ、セレスは友達が少ないのか?」
どうやらアルチュールは俺が口を滑らせた『原作』という言葉に関して何も関心を持たなかったようだ。寧ろ、先ほど殿下が話した内容に興味を示している。
「まあ……、友達は多くはないかな」
「そんな風には見えないけど」
「そうか?」
「俺は……、セレスが初めての友達だと勝手に思っている」
えっ!?
俺が弾かれたかのように隣に視線を向けると、居心地が悪そうな子供のような顔をしたアルチュールがそこに居た。微かに耳が赤い。
彼がどうやって辺境のシルエット領で育ったか――勿論、俺はそれも知っている。
文武共に優秀な父と兄に憧れ、ずっとその背中を追い続け、物心ついたころには友達と遊ぶよりも数人の護衛とオオカミ犬を伴い、近年は護衛を伴わず、日々、人と魔族との境界地に現れる小物とはいえ魔物の退治をしながら鍛錬を続けて来た。
友達を作ろうにも、アルチュールと対等に『遊ぶ』ことが出来るような子供は家臣の家にも居なかった。領民の子なら猶更だ。ただでさえ普通の子供には魔力がない。駆けっこ、剣術ごっこ――大人顔負けの相手と遊ぶだなんて、負け続けるのは退屈な上に面白くない。下手したら怪我をすることになる。
「迷惑……、だよな? 俺、口が悪いし、なんといっても礼儀を知らないし」
不安を誤魔化すためか、頭を傾げてちらりとこちらを見たアルチュールに、それだけで胸が締め付けられるように痛くなった。
うーん、アルチュールは、女性がよく言う『守ってあげたくなるような男』……、というキャラではなかったはずなんだけどな。まあ、俺が萌えるから良いか。
「迷惑なわけないだろう」
たたみかけるように俺は言った。
推しから友達認定されるだなんて、嬉しすぎてプルプル震えるじゃないか。今、俺、チワワだぞ。
「本当に迷惑ではないのか?」
「迷惑なわけない! 殿下が言うように俺は友達が少ないんだ。アルチュールが友達になってくれたら嬉しいに決まってる!」
「じゃあ、俺もセレスの側に居れるってことだよな?」
「当たり前だ!」
と即答してから直ぐに我に返る。
殿下もアルチュールも、ついでにナタンも俺の側に居たら、どうやって俺は、アル×リシャの推しが二人っきりで人目をはばかりながら愛をはぐくんで行く行程をこっそりと観察すればいいんだ??
いや、マジこれどうすべきなんだよ!?