◆ 学院編 相談(前編)
階段を上りきると、寮の三階はしんと静まり返っていた。
――きっと、みんなもう自室にこもっているのだろう。明日のボンシャンの授業に備えて、予習に余念がないに違いない。
彼の「正しい怖さ」は、卒業生たちの間で語り草だ。本当に厳しいのは第二寮『レスポワール』の寮監ジャン・ピエール・カナードではない。それは、セレスタンも入学前からサロンで何度も耳にしたし、むしろ教え込まれたことのひとつだった。辺境から来た貴族や、右も左も分からない留学生には、必ずグラン・フレールが基礎知識として伝える。それは、この学院で生き残るための礼儀作法の一部ですらある。
オベールからあんな話を聞かされた今なら、なおさら、彼――ボンシャンのことを畏怖する。
ルシアン・ボンシャンは、ただの優秀な教師でも、学院きっての魔法の達人でもなく、命を削ってでも他人を生かす覚悟を、迷いなく実行に移せる人間だった。
そして、それを声高に語るでもなく、功績として誇るでもなく、ただ当たり前のように背負っている。腕前の問題じゃない。生き方そのものが、常人の尺度を超えているのだ。
デュボアやカナード、二人の寮監ですら、彼に対しては一目置いている――それは、ただ年上だからという理由だけではなかった。
だからこそ、俺は彼の授業で気を抜くことなどできない。勿論、ボンシャン以外の授業でも手を抜くつもりは毛頭ないが――彼の前では、緊張感の質そのものが違う。その「正しい怖さ」に、抗いようもなく身が引き締まる。
他の生徒は、この背景を知らない。だが、それでもみな、ボンシャンの前では無意識に背筋を伸ばす。教壇に立つその姿だけで、空気が変わるのだ。理由はわからなくても、触れてはいけない領域を本能で察する――それはきっと、俺が今知っていることの影の、ほんの一端にすぎないけれど。
……しかし、これからその準備をしなければならないというのに、なんてことだ。
今、俺の頭の中は、アルチュールが俺に向けてくる好意への、対処方法のない問題でいっぱいだ――。
廊下を見渡すと、壁の灯りが淡く床を照らし窓の外では風が樹を揺らしていた。
ナタンが反対方向へ歩き出す前に、俺は「おやすみ」と短く声をかける。彼は微笑み、軽く手を振って「おやすみなさい、セレスさま、みなさん」と答え、そのままくるりと背を向け、足早に自室へ消えていく。余程、『日記』を書く時間を作りたいのだろうか……。
残ったのは、リシャールとアルチュール、それに俺。俺たち三人は無言のまま廊下を並んで歩き、隣同士の部屋の前に順に立ち止まる。
「おやすみ、セレス、アルチュール。今日は流石に疲れた。よく眠れそうだ」
「おやすみなさい、リシャール、アルチュール」
リシャールが微笑んで部屋に入る。
アルチュールは視線を落としたまま、わずかに唇を動かしたが、それ以上は何も言わずに部屋に入り扉を閉めた。
ひとり残った廊下で俺は深く息を吐き、自分の部屋の扉を押し開けた。
――その瞬間。
白い羽毛の塊がデスクの上から身を乗り出し、真っ赤な瞳をぎらりと光らせた。ネージュだ。くちばしには木の実をくわえたまま、足を組んで机の縁に腰をかけている。
「ただいま」
そう言って俺が眉尻を下げベッドに腰を下ろすと、黙っていたネージュが待っていましたとばかり口を開いた。
「おかえり。さあ――聞かせてもらおうか、セレスタンの今の“気持ち”とやらを」
ネージュは木の実を飲み込んでから、わざとらしく低い声で言い、俺をじろりと見つめる。
その仕草があまりにも芝居がかっていて、俺は思わず顔をしかめた。
「……全部聞いてたくせに」
奇石の通信は、常にオープンの状態だった。
「もちろん。逐一聞いていた。アルチュールに本当に勝ってしまうとは……、さらにできるようになったな、セレス。見事だったよ、フッ、いやぁ、青春ってやつは――」
「いや、誰だよ、お前」
「その顔。羞恥と苛立ちが半々といったところか」
「……あのなあ」俺は額に手を当てる。言い返せばきっと倍になって返ってくるのは分かっているのに、反論したくなるのが悔しい。「こっちは今、いっぱいいっぱいなの。分かれよ」
「分かってるって」ネージュは羽をぱたつかせ、妙に上機嫌な声で続けた。「お前ぇさんって元の伊丹トキヤのとき、剣道とオタ活に全振りで"恋愛経験"ゼロだったもんな。こういうことに疎いというのはよく分かっている」
「っゼロじゃない!」
「彼女いない歴、年齢」
「居たもん! 彼女、居たもん!」
「一緒に同人誌を作る相手を彼女とは言わない。それは、アンソロジーの主宰者と参加者だ」
言葉に詰まる。あの時の彼女は、確かに原稿の締切日しか会わなかった。
「社会人一年目は仕事漬けで、帰って寝るだけ。土日も疲れて引きこもって出会いなんて皆無。で、気づけば童貞更新記録を着々と――」
「焼き鳥にすんぞ!」
「しかも顔はシュッとしてスポーツ万能なのに、だ。見た目だけならそこそこモテただろ? ぜーんぶ自分でチャンス潰してきた」
「一度、卵に魔力を流しただけで、よくもそこまで俺の過去を……」
ネージュはにやりと嘴を歪め、少し声を落とす。
「アルチュールに勝ちたかったのは、あれだろ? お前ひとりじゃないって叩き込むためだろ」
「……ただの興味だよ。一応、剣術ヲタクとして、どれほどの腕前か実際に戦って確かめたかったんだ」
ネージュはくちばしを鳴らし、ふわりと羽を震わせた。
「強がりめ。セレス、俺はお前ぇさんの相棒だが、分身でもあるんだぞ? 幸運なのか残念なのかは分からないが、兎に角、考えている事は手に取るように分かっちまう。何も隠すことはないだろう。アルチュールのために本気を出した。それは、なかなか悪くなかったけどな」
「別にそんな殊勝なもんじゃない」
「この場合、殊勝じゃなくてお節介だな。……まあ、実にお前ぇさんらしい。いい男だよ、セレス、いや、トキヤは」
「……ありがとう」
「素直で宜しい」
「でも、それでこんなことになるとは思ってなかった」
俺は深く息を吐いた。
好意――しかもあのアルチュールから向けられるなんて、まったくの想定外だ。唯一の救いは、本人がまだその感情の正体に気づいていないこと。
「毎朝、学校に行こうとセレスを迎えに来るアルチュールを見ていたが、お前ぇさんのことずっと目で追っていたぞ?」
ネージュは何でもない調子で言う。その声に、どうしようもなく動揺してしまった。
「……俺は、彼の同年代の初めての友達だ。見ていたとしても、今までのはただの友情だろう」
自分でも驚くほど、声が硬くなっていた。
俺はこの世界の基になった小説の設定――アルチュールとリシャールが結ばれる未来――を壊すわけにはいかない。
この体はセレスタンのものであって、そこに転生して入り込んだ俺――トキヤが、己の感情のまま好き勝手に突っ走るわけにはいかないのだ。
ネージュは肩をすくめて、面倒そうに俺を見る。
「けどよ、この世界、もう元の小説からけっこう外れてんだぜ? 先ず、受け殿下が攻め殿下だ。結構おかしな現象起きてるだろ? そもそも、俺みたいな美の集大成みたいなコルネイユだって元の小説には出てこねぇし」
「おいおい」
「レオだって、お前ぇさんのグラン・フレールじゃなかっただろ? ここは、本当にアルチュールとリシャールがくっつく世界なのか? 怪しいもんだ」
その一言に、胸の奥がざわめいた。
ネージュは、じっと俺を見据えたまま続ける。
「それと……セレス、この先ずっと、元のセレスタンのために、自分の気持ちを全部犠牲にするつもりか?」
何も言い返せなかった。




