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◆ 学院編 名前のない感情(後編)

 でも――今、幸いなことに、まだ彼はそれに気づいていない。

 自分の中に芽生えた想いが単なる敗北の苦さではないことも、これから先、何度俺に勝っても拭えない何かになることも。

 気づいていないまま、彼はなおも俺を見ていた。

 その視線に、俺はふっと微笑んでみせた。


「……ありがとう、アルチュール」

 彼は戸惑ったように目を瞬かせる。

「なんで、礼を……」

「俺のことをほめているようにしか聞こえなかったから。素直な気持ちを伝えるのは、強い証拠だと思う。君はちゃんと、自分に向き合っているよ」

 そう言うと、アルチュールは何か言いかけて、けれど飲み込むように目を逸らした。

 そして、ぽつりと小さく呟いた。

「……もう、ほんとに、見えな……だよ……セレスしか……」

 その声はかすれて、俺には全てを聞き取れなかった。

 だがきっと彼の心の中には――言葉にならない何かが芽吹いている。

 胸の奥に、温かなものと説明のつかないざわめきが同時に広がる。


 その瞬間、左前方から駆ける足音が近づいてきた。

「セレスさま! 二人とも、どうしたですか!?」息を切らしながらナタンが言う。「デュボア先生に鍵を返して振り向いたら、セレスさまとアルチュールの姿がなかったので、遅れてついて来ているのかと思えば、しばらく歩いて戻って来ても居なくて、もしかしたら、あんなに動いてセレスさまが倒れたんじゃないかと心配になって……」

 その言葉に、アルチュールが一瞬だけ俺を見た。

 俺は肩を軽く竦め、「大丈夫だよ。ただ、少しアルチュールと話していただけだ。過保護だな、ナタンは」と答えた。

 ナタンが安堵の息を吐き、胸を押さえながら「ならいいですけど……」と小さく呟く。

 リシャールは途中で歩みをゆるめると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。その目はわずかに細められ、俺たちを鋭く見据えている。彼は俺の肩に軽く手を置きつつ、アルチュールに向けて言った。

()()()――と言われただろう?」

 リシャールの声は低く穏やかで、けれど確かな芯を持っていた。まるで、オベール警備官の言葉をそのまま引き継ぐような響きだった。

 アルチュールが息を詰めたのがわかった。

 リシャールは彼を責めるような目はしていなかったが、その瞳にはすでに何かに勘づいたような色があった。

「……俺が、焦っている……?」

 アルチュールが眉を寄せる。

 だがリシャールは、それに答えず、ただ、笑った。

「それを知るのは君自身だろう」

 その含みを帯びた笑みは、王族のそれではなく友人としてのまなざしだった。けれどアルチュールは、そこで完全に口をつぐんだ。

 俺は肩越しに振り向き、軽く笑ってナタンに声をかけた。

「さて、明日の授業の準備もあるし……部屋に戻ろうか」

 ナタンが、ちらとポケットから小さなメモ帳を取り出しながら言った。

「明日の授業は、伝書使(クーリエ)を迎える準備と、奇石の作り方――これは私たちは既に問題ないですが、ボンシャン先生の魔道具の講義がありますね。みんなもう部屋で予習をしていることでしょう。私たちもそろそろ部屋に戻って準備しておかないと、『セレスさま日記』を書く時間が無くなってしまいます!」


 ……この男、顔だけならリシャールにも劣らないというのに、中身はどうしてこうなのか。


 俺は思わず、静かに息を吐いた。

 美形の無駄遣いという言葉は、きっとナタンのためにある。


「日記を書く必要はないが、明日の準備のため、部屋に戻る必要はあるな」

 俺の言葉に、リシャールは頷いたが、アルチュールはわずかにためらうような素振りを見せた。それでも結局、何も言わず踵を返して歩き出す。


 回廊から見える中庭はすでに闇に沈み、先ほどよりも風が涼しく頬を撫でた。灯りに照らされた小道を、リシャールとアルチュール、俺とナタンの二人二人に別れ、肩を並べて寮室へ向かう。

 その足音が、静まり返った空気にやわらかく溶けていく。

 今は微かに聞こえてくる生徒たちの声と足音が、夜の寮を満たしていた。


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