◆ 学院編 名前のない感情(中編)
彼の手はまだ俺の腕を掴んだままで、だがその指先には迷いの熱が籠っている。
その問いに俺は少しだけ目を細めた。
「俺は、リシャールも斬っていない」
淡々と答えると、アルチュールの喉が小さく上下した。だが、それで納得する様子はなかった。
「殿下と辺境貴族の俺は違う」
「違わない。君は王太子じゃなくても、知り合って間がなくても、十分に今の俺にとってリシャールやナタンと同じぐらい重要な相手だ」
その言葉をアルチュールはまるで飲み込むように、静かに目を伏せた。
眉間にしわが寄っている。いつも通り冷静に装っているようで、何かを抑え込んでいるのがはっきりと伝わってきた。
不意に俺の腕を離した彼が、わずかに後ろへ一歩下がる。
だが、去るでもなく、声はまたすぐに投げかけられた。
「……友達にみっともないところを見せてしまって、恥ずかしくて、自分に対して、悔しいんだ」
その声は低く、けれど確かな熱を持っていた。
「……アルチュール?」
「同年代の相手と、まともに剣を交えたのは初めてだった。辺境の領地で魔物を相手に実戦を重ね、鍛錬を欠かしたことは一度もない。剣術指導の大人にすら、ここ何年も負けたことがなかった。だから、学院の誰にも負けるつもりはなかった……なのに、俺は……負けた」
言葉の途中で、アルチュールの拳が小さく震えた。
それが敗北の無念からくるものだけではないと、俺は直感的に理解した。
「悔しい。情けなくて、まともに顔を合わせられない。それなのに……」
彼が顔を上げる。その瞳の奥には、感情の奔流があった。
怒りでも、羨望でも、尊敬でもない、もっと複雑で、もっと圧倒的な、名を持たない想い。
「なのに……セレス、お前のことを……どうしても目が追うんだ。この胸につかえているものはなんなんだ。俺は……分からない……」
分からない、というその言葉にどこか幼さすら滲んでいた。その純粋さが、痛いほどだった。
彼は今、感情に名前をつけられずにいる。
それは、間違いなく俺に向けられた深くて、個人的な想いの予兆だった。
――まずい。
自分でも思わず、そう結論づけてしまう。
アルチュールはまっすぐで、誠実で、正義感が強い。そんな彼が一度なにかを信じてしまえば、疑うことすらしない。本編での、王太子リシャールに対する彼がそうだったように。
その全力の想いが、もしも自分に向けられたとしたら。
……それは、嬉しくないわけじゃない。むしろ困るほどに、俺の中に響くだろう。
でも、それでも。
違うんだ。
この体は、俺のものじゃない。
セレスタン・ギレヌ・コルベール――その名も、血筋も、美貌も、すべては「俺」じゃない。
あまりに整った顔。整いすぎて、現実味がない。『銀の君』という呼び名が、これほど似合う者はいない。
日に何度か、ふとした瞬間に息を呑む。
髪を整えようと鏡の前に立っただけで、「こんな綺麗な人間が存在するのか」と、俺自身が目を奪われるくらいだ。
そこに映るのは、俺の知る俺ではない。笑えば艶やかに、黙れば威厳すら漂う。その仕草一つで、人の視線を絡め取ってしまう。
けれど、俺自身はこの姿には似つかわしくない気がして、ふと喉の奥で言葉が詰まる。微笑むたびに、頬の筋肉がぎこちなく感じられる。
アルチュールでなくとも誰だって惹かれてもおかしくない。むしろ、惹かれないほうが変だろう。
でも――それは俺に向けられたものじゃない。向けられているのは、この美貌、この血、この名にだ。
だからこそ、相手が違う。
この世界で、アルチュールが想いを寄せるにふさわしいのは、リシャールだ。リシャール・ドメーヌ・ル・ワンジェ王太子殿下なんだ。
いつも隣にいて、気づかないふりをして、でも確かに互いを気にしていて。
二人の間に流れているのは、もっと根深くて、信頼に裏打ちされた感情だ。
俺なんかが、割り込んでいいはずがない。
……惚れられたら、ヤバい。
本気で、ヤバい。
俺が彼の想いに気づいてしまった時点で、もう半分アウトなんだ。
受け入れることもできず、拒絶すれば傷つける。
そもそも、セレスタンじゃない俺が、そんなことを選べる立場じゃないのに!
リアクション、ありがとうございます!
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