◆ 学院編 名前のない感情(前編)
俺は肩の力を抜き、リシャールの手から彼が使っていたエクラ・ダシエの剣を丁寧に引き取る。
まだわずかに熱の残る柄を握ったまま、鞘に戻しに行こうと一歩踏み出した――そのときだった。アルチュールが無言のまま俺の前に立ち、軽く手を差し出してくる。
目が合う。押しつけがましさのない、けれど確かな意志を宿した視線。拒む理由もなく、俺は持っていた剣をそのまま彼に預けた。
アルチュールは受け取ったそれを一度手のひらで支え直し、確かな所作で鞘に納めると布で丁寧に包み、デュボアに言われた通り、ホールの隅へと運んでそこへそっと置いた。
その間にナタンが、さっき俺が床の布の上に置いた剣を拾い上げ、同じように丁寧に布で包み、ホールの隅へと静かに移す。
その様子を見届けてリシャールが息をひとつ吐くと、軽く片手を上げ障壁の解除呪文を唱えた。
「フィニスバリエ」
淡く張り詰めていた空気の層が揺れ、一気にほどけて消えていく。
それを合図に、俺たちは最後にホールを一瞥してから、リシャールが鍵を手にして先導する形で、廊下へと出た。
「カシェセザム」
扉が閉まりかけたところで、ナタンが一歩前に出て、口を開いた。
「では、私が鍵を返却してきましょう」
右手を差し出し当然のように言うその姿に、俺はすぐに首を横に振った。
「ナタン、ここでは同じ学生だ。鍵の返却くらい、俺がやる」
「いえ、セレスさまの手を煩わせるわけには――」
「ナタン」言葉を遮るようにして、俺は目線を合わせる。「君はここでは使用人じゃないだろう。だから、雑用を率先してこなす必要はない」
ナタンはほんの一瞬だけ黙り込む。だがその表情に、納得の色は薄い。
俺は肩をすくめて笑ってみせた。
「全く。強情者だな。……じゃあ、俺も一緒に行く」
そう言って俺がリシャールに手を伸ばすと、彼は軽く眉を上げながらも、素直に鍵を渡してくれた。
その鍵を、俺はすぐにナタンの方へ差し出す。
「ほら」
「……承知しました。では、ご一緒に」
すると、後ろで立っていたアルチュールが小さく息を吸って名乗り出た。
「セレスが行くなら、俺も行く」
その声はどこか硬い。先ほどの稽古での敗北を、まだ引きずっているのだろう。瞳の奥がわずかに陰っていた。
俺が返す言葉を探すより先に、リシャールが愉快そうに肩を揺らし、笑いながら言った。
「ならば、私も行こう。今さら一人増えようと何人増えようと、変わらんからな」
「いや、鍵を返却しに行くだけですから」
俺の静かな抗議は、結局、あっさりと流されることとなる。
気がつけば、ホールの前にいた全員が、ぞろぞろと一本の鍵返却のためだけにデュボアの部屋を目指し歩き出していた。
あー……、まーた「何とか教授の総回診」かよ……。
༺ ༒ ༻
廊下を進むうちに、しばらくするとナタンとリシャールが少し先を歩くようになっていた。
二人は、先ほどナタンが口にしたナタン・トレモイユ著『〜セレスタン・ギレヌ・コルベール様の日々〜日記』の話題で盛り上がっている。
「セレスさまがエクラ・ダシエの剣を止めた瞬間、あれは慈愛の証ですね。身体に当たっても剣のほうが霧散するのに、わざわざぴたりと止めたのです。それは、やさしさ以外のなにものでもない……。今日の日記は、長編になりそうです」
「それで、毎日、タイトルを付けているのか、ナタン?」
「もちろんです」
「よし、では、今日は特別に私がそのタイトルを考えてやろう」
「いえ、いりません」
「……私がタイトルを」
「必要ありません。これは私のライフワークです」
「ナタン? 君は私を誰だと思っている?」
「リシャールです」
「殿下と呼べ」
「るーるるるるるるるる」
「"リッッシャー"、どこ行ったーー!?」
誰か、あのふたりを止めてくれ……。
そのときだった。背後から、不意に俺の腕が掴まれる。
反射的に身を引きかけた俺の耳元へ、振り返るより早く低い声が落ちてきた。
「……どうして、剣を首元で止めた?」
耳に唇が触れそうになる距離。
その声は硬く、戸惑いと苛立ちを含み掠れていた。普段なら決して揺らがないはずの芯が、どこかで崩れているような――そんな声音だった。
「なぜ、俺を斬らなかった、セレス?」
振り返ると、目と鼻の先にアルチュールの顔があった。




