◆ 学院編 エクラ・ダシエの剣(余談)
午後の授業は、淡々と進んだ。
カナードは、迷いなく白墨を手に取る。あえて手で板書するのが彼のやり方だった。黒板には整然とした文字が並び、古代呪文の構文がひとつずつ、簡潔に綴られてゆく。流れるような筆致には、長年積み重ねてきた思考と技術が滲んでいた。
魔法に頼らず、自ら書き記すという一手間に、彼の矜持が宿っている。
線が黒板を滑るその音は、咳払いと混ざりながら、乾いた午後の空気をほんのわずかに震わせていた。
ネージュの言葉を思い出す。
――かつては“何もできなかった”カナードが、積み重ねの末に辿り着いた場所。書くという行為は、今もなお彼にとって、思考と技術を鍛え直すための訓練なのだ。
その手つきに、俺はどこか敬意に近い感情すら覚えていた。リシャールやアルチュールたちの天才的な煌めきとは、また違う光が彼にはある。
俺も、そうありたい――そんなことを、ふと思った。
やがてチャイムが鳴り、授業が終わる。
ざわめきが教室を満たし、椅子の脚が床をこする音が断続的に響いた。誰かの笑い声、誰かの欠伸。外では、風が木の葉を揺らしていた。
生徒たちは思い思いに席を立ち、廊下へと散っていく。
そして、リシャールが静かに立ち上がる。それに続いてアルチュールとナタンも席を離れ、俺もゆっくりと腰を上げた。
まるで決まっていたかのように、自然と足が揃う。
それから、俺たち四人は予定通り、職員寮二階のデュボアの部屋へと向かった――。
回廊を歩きながら、自然と会話が生まれる。
何気ない雑談をしながら、四人で歩く足取りはどこか軽やかだった。
部屋の前に着くと、リシャールが軽くノックした。
三拍ほど間を置いたあと、中からくぐもった声が返ってくる。
「どうぞ、入ってくれたまえ」
扉を開けると、デュボアは窓辺の机に向かって書き物をしていた。分厚い本が何冊も積まれ、その合間には乾きかけたインクと羽根ペン――。
そして、丸テーブルの上には飲み終えたばかりと思われるマグカップがひとつ、無造作に置かれていた。陶器の内側には、濃い茶渋のような跡がわずかに残っている。忙しさの合間に一息ついた痕跡のようだ。部屋の中には、古紙と焙煎豆の混ざったような、落ち着く香りが漂っていた。
「お忙しいところすみません」
リシャールが率先して頭を下げる。俺たちもそれにならった。
「いや、いいんだよ。……どうした? また一風変わった伝書使が孵化したか?」
口元に笑みを浮かべながらも、デュボアの目は冴えていた。
「デュボア先生、寮のホールを、夕方、貸していただけませんか」
リシャールの言葉に、デュボアは少し眉を上げた。意外そうな表情で、「ほう、それはまた……何に使うつもりだ?」と、興味混じりの声を返す。
俺たちはそれぞれうなずき合い、アルチュールが一歩、前に出た。
「剣の練習をしたいんです」
「それから……練習用の《エクラ・ダシエ》の剣も、お借りできないでしょうか」
リシャールが続けると、デュボアは小さく目を細めた。
「……流石、殿下。耳が早いな」
どこか愉快そうに笑って、椅子の背にもたれかかる。
「放課後の、空いている時間だけで構いません」ナタンがひと言、静かに言った。「ホール内部には、我々で魔法障壁を張ります。破損や音の問題も抑えられると思います」
「ほう。なるほど……ただの遊びではなさそうだな。うん。向上心があることはいいことだ」デュボアはふっと鼻を鳴らした。「今夜からか?」
「はい。出来れば」
アルチュールが言うと、デュボアは軽くうなずき、椅子を軋ませて立ち上がった。
「少々待ってくれ」
背後の棚へ向かい、鍵束が入った木箱を開ける。中から真鍮の鍵を一つ選び出すと、手のひらに転がしながら戻ってきた。
「これがホールの鍵だ。鍵穴にこれを入れて『アペリオセザム』、『カシェセザム』で開閉が出来る」
リシャールに手渡しながら、デュボアはもう片方の手で机の引き出しを開ける。そして、細長い紙片を取り出すと羽根ペンを走らせ、さらさらと何事かを書きつけて、インクが乾かぬうちにそのメモを破ってアルチュールに差し出した。
「装備された練習用の《エクラ・ダシエ》の剣だが……本校舎の南倉庫にある。このメモを――」一瞬だけ言葉を切って、目を細める。「倉庫に続く廊下の手前の管理室にいる“ガルディアン・デコール”の誰かに渡せば、すぐに案内してくれるはずだ」
メモを受け取ったアルチュールが、きちんと折って懐にしまう。
「ありがとうございます。助かります」
「礼を言うのは、何か成果が出てからにしてくれ。あと、使っていいのは二本だけだぞ」
デュボアは手をひらひらと振りながら、それでもどこか楽しげに笑った。
そして、立ち去ろうとする俺たちにもうひと言。
「終わったら、剣はホールに置いて、しっかりと扉に鍵をかけること。そのあと、鍵はこの部屋まで返却しに来るように。俺がいないときは、扉のポストに入れておけ。ホールの使用時間は九時までだ。いいな?」
そのポストは、見た目こそ小さな投函口だが、実は魔法で拡張されたアイテムボックスの一種で、容量は見た目以上に広い。学生たちは課題のレポートや書類を入れて提出するのによく使っている。
「はい。気をつけます」
四人揃って頭を下げると、デュボアは軽く手を振って机に戻っていった。
俺たちは鍵を受け取り、静かに部屋をあとにした。




