◆ 学院編 想い(後編)
「……これが……、緩衝魔法? 複雑……、どころではないな。もはや、異常の域だ」
「……まったくだ」
思わず呟いた俺の言葉に、ネージュがすぐさま反応した。
彼は、鋭い目を細め、空を仰ぐようにして続けた。
「俺たち鳥の視覚は、人間の数倍――いや、十倍とも言われている。光の波長も幅広く捉えるし、細かな模様や色の違いも、お前ぇさんらよりずっと鮮明に見える」
「そうらしいな」
「そんな目で見ても、これは異常なほど緻密だ。複数の陣が三次元で絡み合い、幾層にも折り重なって、全体でひとつの術式を構成していて単なる図形じゃない。命を持って蠢く構造体みたいだ。線のひとつひとつが迷いなく、淀みなく、正確に引かれている。まるで、生きているみたいなんだ」そこで、ネージュは少し息をのんだ。「これを描いた者は……、まともじゃない。常人の神経で、こんなものを練り上げられるはずがない。けれど、狂気と紙一重の、限界すれすれの知性がなければ、ここまでは届かないだろう。――ジャン・ピエール・カナードは、本当に、魔術の鬼才だ。と、同時に……、この魔法陣は、とんでもなく美しい」
ネージュの目の奥にははっきりとした称賛の色があった。
「美しい?」
「そう。まるで音楽の譜面。旋律を感じる構造。規則と変化の調和」
「……すごいな、そんなふうに見えるのか」
「普通の人間は、訓練しないと目が追いつかない。訓練しても、見えないやつが殆どだろう」ネージュは羽根をわずかに震わせ、バスケットの縁に乗り上げるようにして陣を見下ろした。「これはな、“積み重ね”なんだよ。時間と努力と、勉強と鍛錬。――セレス」
「ん?」
「俺は、卵のときに、デュボアとボンシャンとカナード――三人の寮監たちの魔力の影響をいささか受けている」
――伝書使になるコルネイユの卵ってのは、配られる前、個体の差異が大きく出ないよう、こと細かに性別鑑定に至るまで事前に魔術で均一に管理されている。
レオが言っていたことを思い出す。
「だから三人の使う魔法の“感触”とか、“音色”とか、そういうのが分かるんだが、お前ぇさんみたいに、こっちに来て、光の属性や多大なる加護というチート能力を与えられた特異体質で最初から『できる』人間には、たぶん、こういう積み重ねの末にたどり着く仕事は、逆にキツい……」
「……ああ、うん。ネージュの言うことは分かる。その通りだな……」
「これはさ、きっと何もできなかった頃のカナードが、何年もかけて自分の限界を一つ一つ超えて、やっと辿り着いた精度だと思う」そう言ったネージュの瞳は、真剣だった。「今のお前ぇさんには、どれほど力があろうと、あの三人の誰一人にも敵わない」
「……だろうな」
俺は再びペンダントを見下ろす。そこに収まる漆黒の奇石。
「精進しろよ」
頷いてから、俺は手前のホルダーを手に取った。石が月光を吸い、かすかに光を返す。それを、胸元にそっと着けて下ろし、服の中へと滑り込ませると、しん、と冷たい感触が肌に落ちた。すぐに体温で馴染んで、まるで最初からそこにあったかのように収まる。
「カシェ」
もう一方のホルダーに手を伸ばし、呪文とともに蓋を閉じる。そしてそれを、そっとネージュの前へ差し出した。
ネージュは嬉しそうに羽根をふるわせながら、それを両の羽でそっと抱えバスケットの中へ入れた。まだ身に付けるには、ペンダントは大きすぎる。
「なあ、ネージュ。俺、……頑張らなきゃな」
「推しを救い、友人たちを守るんだろ?」
「ああ」
「俺にも手伝わせてくれ」
「……お前、生まれたてなのに本当にすごいな」
「フッ、まあな。だが――」ネージュは、羽根の先で自分の胸をとんと叩いた。「俺の……、というか、伝書使の基礎を作ったのは、寮監三人によるものだし……、孵化してからは、俺、個人のアイデンティティだ。でもな、俺の大半は、お前ぇさんの記憶と経験で出来ている。そういう意味では、俺の行動や言葉は――お前ぇさんが俺に教えたも同じだ」
俺は息を呑んだ。
ネージュは続ける。
「……誇っていいぞ、セレス。悪くない出来だろ?」
不意に胸の奥が熱くなる。
「……ありがとな。ネージュが俺のところに来てくれたことを心から感謝するよ」
「一晩中、腐談議も出来るしなぁー」
「それは、誇りたくない。授業があるから一晩中は無理。寝たい」
「いや、誇れよ。寝る間も惜しんで腐談議に付き合えよ」
そう言って、ネージュは首をひねりながら、ふっと吐息を漏らすように羽を膨らませた。
その声音には、仲間としての絆と、友としての祈りが、静かに、しかし確かに滲んでいた。




