◆ 学院編 ストーン・ホルダー(余談1)
それから、そう時間はかからなかった。
暫くして、デュボアの部屋の窓の外を長く鋭い影がひとつ、夜気を切り裂くように走った。
四月の夜はまだ肌寒く、塔の石壁には淡い月明かりが薄く滲んでいる。その光の上に、青竹色の鱗が一瞬だけ滑るように映り込み、すぐに消えた。羽音はなく、ただ、閉じた硝子越しに、微かな風のうねりが伝わってきたような気がした。
……あれがジャン・ピエール・カナードの使い魔、風蛇ザイロン。
静かに羽を畳み、寮塔の玄関前、――おそらくは、彼の自室からなるべく近い場所付近に降りたのだろう。
数分後、廊下から軽い足音が響き、扉が二度叩かれた。
「どうぞ」
デュボアの声に応じて入ってきたのは、第二寮『レスポワール』の寮監、ジャン・ピエール・カナード――。
細縁の眼鏡が、室内の灯に一瞬きらりと光る。黒いローブの下、襟元にザイロンがアスコットタイに姿を変えて巻きついていた。
「戻りました」
無駄のない声だった。挨拶すら、細やかに刈り込まれた文章の一節のようだ。
もしも妹のアヤちゃんがここにいたなら、「あの人の爪の垢を煎じて、兄ちゃんに飲ませたいよ」なんて言ったかもしれない。――あの呆れたような笑い声と一緒に。
そんなカナードは後ろ手に戸を閉めると、視線を一度だけゆるやかにこちらへ流した。
そして、その途中、レオの肩にとまっていたネージュを見付けた瞬間、ふっと僅かに眉を上げた。
意外、というよりは、興味深いものを見つけたという反応だったが、静かな眼差しには、冷静な観察者の光が宿っていて、すぐに表情を整えると、何事もなかったかのように微笑みをひとつ浮かべた。
それから、まっすぐデュボアの前へと歩み寄り、ローブの内側からペンダント型のストーン・ホルダーを二つ、静かに取り出す。
「《ノルデュミールの籠》です。これが現段階で最も安定して魔力制御できる構造かと」そう前置きして、カナードは手にした一つを軽く傾けた。「形状は球体を中央で半分に割ったもの。外装は高密度黒鋼。透かし彫りは通気と視認性を兼ねています。内側には振動と熱に対する緩衝魔法を。外側には磁力と結界による多重固定を施しました。開閉には所定の魔力操作が必要です。目立たず、それでいて用途を損なわない。機能と意匠の両立を図ったものとご理解ください。――仕様は以上です。ご確認を」
そう言い添え、カナードは手のひらに並べた二つのペンダントをそのままデュボアに差し出した。
彼の説明は、あまりにも端的で、まるで講義の一節のように、また、こちらの疑問を予測するかのように整えられていて、それでいてどこにも感情の起伏がないのが逆に印象的だった。
デュボアは無言で受け取り、片方を手に取る。
外装に指先を滑らせ、透かし彫りの奥にわずかに覗く空洞を確認すると、留め金の接合部をそっと押して磁力と魔力による固定の具合を丁寧に試した。
「アペリオ」小さく乾いた音を立てて開いた蓋の内側には、緩衝魔法の陣が極めて繊細に刻まれていた。「……問題ないですね。ありがとう。相変わらずお見事。申し分ない仕事だ」
もう一方のペンダントにも目を通し同様の操作を終えると、デュボアは軽く頷き、視線だけでボンシャンに合図を送った。それを受け取ったボンシャンが、箱の中から瓶を取り出す。無色透明なガラスの中に、漆黒の光を宿した球体――奇石ペルル・ノワールがふたつ、静かに沈んでいる。
その瞬間、カナードの瞳が初めて揺れた。
感情というより、正確には「観測」の視線。まるで目の前の現象を理知の奥底で解き明かそうとするような、ごく僅かな間。
だが次の瞬間には、彼の表情はいつも通りの静けさへと戻っていた。
「……これが」
ほんの微かに息を呑む気配。だがそれ以上は何も言わず、再び黙して見守る姿勢に徹している。
デュボアは蓋が開いたペンダントの一つを左手に持ち、右手でボンシャンから奇石を受け取る。奇石は光を吸い込むような漆黒の輝きを放ちながら透かし彫りの奥にゆっくりと収まった。
一瞬、ストーン・ホルダー全体に淡い光が走り、それがぴたりと定まったところで、
「カシェ」
デュボアは留め金を封印するように閉じた。カチ、と小さく音が鳴る。
もう一つの奇石も同様に移し替えられ、二つのノルデュミールの籠が完成した。
デュボアは仕上がったそれらを掌に収めると、くるりと身を転じ、俺の前へと歩み寄って来た。
「ネージュ、コルベール君のところまで飛べますか?」
ボンシャンがやわらかく問いかけると、ネージュは小さく「きゅっ」と鳴いた。
そして、レオの肩を蹴って小さく羽ばたき、ふわりと浮かび上がる。軽やかな弧を描きながら、俺の肩へと降り立った。
「セレスタン・ギレヌ・コルベール、ネージュ、お前たちの奇石だ」
デュボアがそう言って、ペンダントをふたつ、そっと俺の手の中へ乗せた。
伝わる重みと、輝き。
デュボアの言葉に続くように、カナードが一歩前に出て、静かに口を開いた。
「白い君には、まだこのペンダントは大きすぎます。成鳥になり、身に着けられるようになるまでは、コルベール君が預かっていてください」 彼の声音は変わらず淡々としていたが、わずかに目を細めたその表情には、確かに温度があった。「これは、一人と一羽の絆の証です。どうか、大切に――」
言葉の最後は、すっと余韻の中へ溶けていった。
俺は手の中のペンダントを見下ろし、肩に止まったネージュへと視線を移す。小さな翼を揺らしたネージュが、じっとこちらを見返していた。
……ああ、わかってる。
大切にする。必ず。




