◆ 学院編 ストーン・ホルダー(前編)
「ここは俺が――」そう言ったデュボアのベネンが、確かな意志を宿すように淡く光る。「フェルマ・ヴォカ」
呪文を唱えると、直ぐに反応が返って来た。
《おうヴィクター、何か用か? 俺の出番か?》
軽快な声は、デュボアの伝書使、ノクス。
「ノクス、ジャンの伝書使は、どこに?」
《カナードの? カリュストならここに居るぞ?》
デュボアは小さく息を吐く。
「ローズ・デヴォン」
その言葉とともに、彼が手に持っていた奇石が、ベネンと共鳴するように淡い光を放った。そして、細い光線が空中に走り、座標を定めるための小さな複数の同心円と幾何線が浮かび上がる――羅針図だ。
円周には古代文字。中心には十字の紋様――。その中に、赤い光点が脈打っている。
「ノクス、お前、今、時計塔の小屋だな?」
《そうだ。カリュストは、さっきからずっと窓際で一羽、『知将の盤』を指している。相手もいねぇのにな。何が楽しいんだか》
ノクスは呆れたように言った。精密な戦術盤の駒を、黙々と動かすだけの孤独な遊戯。彼にはその面白さがさっぱり理解できなかったのだ。
《で、何かあったのか?》
デュボアはわずかに頷き、短く答えた。
「急ぎだ。カリュストをこちらに回してくれ」
《ローズ・デヴォン――ヴィクター、お前は職員寮だな。自室か?》
「そうだ。頼む」
《了解》
「フィネ」
通話が切れ、羅針図が静かに消滅していく。静寂の中に、わずかな緊張感だけが残った。
༺ ༒ ༻
ほどなくして、窓の外から羽ばたきの音が聞こえた。
デュボアが掌を掲げ、魔力の流れを解き放つ。
「アペリオ」
呪文に応じて、窓の錠前が外れ、静かに開く。風が流れ込み、夜の香りと共に、二羽の伝書使が舞い降りてきた。
「待たせたな。ちゃんと連れて来たぞ」
窓枠にとまり、そう口にしたのは、ヴィクター・デュボアの伝書使――ノクス。黒い体躯に青みがかった光沢のある羽根を持つ。首元には、厚手の革で仕立てられた重厚なネックギアが巻かれていて、深い焦げ茶色のそれは、単なる装飾品ではなく、細工された銀の金具と鎖が絡むように配置され、中央に燃えるように赤い奇石がはめ込まれていた。
「ノクス、お前も来たのか」
デュボアがそう言うと、ノクスは軽く羽ばたいて目の前のデスクへ移動した。
「お前が「急ぎ」と口にしただろう? 通信から漂う気配も妙だった。丁度、退屈していたところだ。興味をかきたてられたんだよ」
どこかふてぶてしいその言い草に、デュボアが静かにため息をつく。
「……本当にお前というやつは。自由すぎる」
続けて窓枠にとまったもう一羽の姿に、室内の空気が少しだけ変わった。
ジャン・ピエール・カナードの伝書使――カリュスト。
オニキスのような漆黒の羽根。瞳は鋭く、片目には一風変わった片眼鏡が嵌められている。
それは金属と革で精巧に組まれた極小の工学装置であり、眼窩に合わせて特注された湾曲フレームが、黒く艶のある羽毛にぴたりと寄り添っていた。頭部をぐるりと巻く細い革バンドによって、風を受けても微動だにしない。幅広のつるの部分には、精緻な刻印と装飾があり、深い緑色の奇石と大小の歯車が幾つか埋め込まれ、視線の動きに合わせ、カチリ……、と小さな音を立ててわずかに焦点を調整していた。
「……あの伝書使が、カナード先生の……」ナタンが低く呟いた。「以前から噂を耳にしてはいましたが、直接、見るのは初めてです。実に個性的ですね」
「ああ……」
短くそう応えたアルチュールの声には、わずかに緊張が滲んでいた。何の情報もなく、初見でこの測れない威圧感を帯びたコルネイユを前にすれば、誰だって息をのむ。
尚、俺は会ったことはなかったが、知っているから、驚きはない。寧ろ、厨二病をくすぐる彼の見た目を、二次元ではなく、生で拝見出来たことに、今、深く感動している。……感動しているのだが、周囲が俺とネージュの為に動いてくれているこの場面で、テンションをひとり爆上げしている自分が少しばかり申し訳なくもあり、罪悪感的なモノが、胸の片隅にチクリと刺さった。ほんと、ゴメン。
ナタンの横で、リシャールが一歩前へと出た。
「久しぶりだな、ノクス、カリュストも」
冷静かつ簡潔なその言葉に、カリュストが、片翼を胸に当て深々と頭を垂れる。
「王子殿下。入学、誠におめでとうございます。新たな学びの地に、実り多き時があらんことを」
その仕草は、まるで廷臣のように洗練されていて、風格を帯びていた。
ノクスが羽をふわりと揺らし、にやりと笑うような声色で返す。
「おや、リシャール殿下。入学したんだってな? そりゃまた、おめでとう」
カリュストが一礼を終えるのとほぼ同時に、ノクスの顔がふとレオの肩のあたりに向いた。
「……ん?」黒いクチバシがピクリと動き、瞳が細まる。その背で、わずかに羽が逆立った。「おい、カリュスト。あれ、見えるか……?」
カチリ、と音を立てながら、静かなカリュストの視線がネージュへと向けられる。
「これは、珍しい……」
ネージュが、二羽をじっと見返す。無言のまま、しかし深い関心を宿した赤い眼差しで。
そして――ノクスが叫んだ。
「ヴィクター! 何で教えてくれなかったんだよ!? あれ、伝書使だろ!? お前、どれだけ面白いことを隠してんだ!? 俺たち、仲間だよな?」
デュボアは溜息をついた。
「現在、あの白いコルネイユに関して知る者は、ここに居る顔ぶれと、ジャン、あとは教職員でも上層部のみ。お前たちは、口が軽い。嬉々として学寮中に吹聴しそうだからな」
「ぐ……、そ、それは否定できねぇ……」
ノクスはしゅんと肩をすくめるように項垂れた。
「心外ですね。私は吹聴したりしませんよ」
静かにそう言ったカリュストに、今まで沈黙していたボンシャンが、穏やかな声で言葉を添えた。
「分かっていますよ、君が軽率な真似をしないことも、責任ある判断をすることも。私たちは、よく理解していますし信頼もしています」その一言に、カリュストの片眼鏡が微かに光を反射した。「しかし――」ボンシャンは、慎重に言葉を選ぶように続けた。「あなた達の立場上、特定の個体だけにこのような情報を流せば、他との不均衡が生じます。だからこそ、私は自分の伝書使にも伝えていないのです。今回の件に関しては、必要最低限の者だけが知るべきことでした」
それは配慮と配分の問題であり、偏りを避けるための措置。ボンシャンの瞳は真っ直ぐだった。
「……了解しました」カリュストは深く首肯する。「慎重なご判断、納得いたしました」
その姿はまるで、軍の高官に応じる副官のように、整然としていて静謐だった。
……すごいな、これがジャン・ピエール・カナード寮監の相棒か。
言葉遣い、礼節、振る舞い、姿勢。どれを取っても隙がない。あまりの完成度に、思わず舌を巻く。やはり、真面目な人の伝書使は、格が違う。
俺は、ちらりと、レオの肩に乗っているネージュを見た。
小さな彼の初めて発した言葉、「――うっ……、ん゛ん゛ん゛尊い……」、その一言である。
二次元に溺れ、日々、腐界で魂を昇天させていた俺が、うっかり召喚してしまった心の同類。
……うん、似たんだな、やっぱり、主に……。ってやつか。
遠い目をしながら、改めて窓辺を見やる。
「ところで、デュボア先生、ボンシャン先生、……いかなるご用件で、私がここに呼ばれたのでしょう?」
カリュストが、細く滑らかな声で言葉を発した。
まっすぐに立つその姿は、気負いも媚びもなく、ただ知るべき義務を果たすかのようだ。
その問いに、すぐさま応じたのはボンシャンだった。




