◆ 学院編 帰還 -25-
実体を伴わない、輪郭だけの存在。
それでも、疑いようもない威厳を帯びている。
「……まさか……本当に……シオン、いや、イスファルドなのか?」
フェンリルは、ゆっくりと頭を持ち上げると、俺の問いを肯定するかのように、嬉しそうに遠吠えをした。
澄んだ咆哮が、冥界の境界を震わせる。
同時に周囲の闇が、まるで鏡が砕けるようにひび割れ、崩れ落ちていった。
残ったのは、ほのかに白く発光する空間と、俺たちが、ここへ至るまでに通ってきた“道”。
足元には、点々と淡く輝く氷の線が続いている。扉へと繋がる、小さな軌跡。
白銀の影が、こちらを振り返る。
その視線だけで、空間の温度が、わずかに下がった気がした。
『――我が名は』
意識に落ちてきた声は、ただ、揺るぎのない響きだった。
『イスファルド・ルーメン――』
名が紡がれるたび、白い空間に細かな氷晶が生まれ、瞬く。
『エテルニタス・グラシエルム』
名そのものが、この場の理を確定させていくようだった。
『――アウロラシオン』
名乗り終えたあと、わずかな間が置かれる。
白銀の影は、俺とネージュを、測るように見下ろしていた。
『真なる名を呼ばれれば、籠は解かれる。だが、冥界という“死の淵”の境界に触れ、なお折れずに在る者の力は素晴らしいな。特に……リュミエールの力だ』
「どういうことだ?」
『龍脈に呑まれ、ほとんど持っていかれていたはずの私の魔力が……多少だが、戻っている。この短い時間で、それを呼び戻したか……』
その声音には、評価とも、感嘆とも取れる余韻が滲んでいた。
俺は、胸の内でひとつ、腑に落ちる。
「魔力をほとんど失っていたから、ペルル・ノワールを介した意思疎通ができなかったのか……」
『いや。それは、少し違う』
即座に否定が返ってくる。
『原因は、お前たちが持つペルル・ノワールの暴走を抑えるために施されたと思われるその“器”……ペンダントのケースだ』
「ノルデュミールの籠?」
『実に見事だ。奇石の性質を殺さず、なおかつ冥界側の干渉を遮断している。こちらからの呼びかけが届かなくて当然だ。相当緻密な魔法陣が刻まれているはず。力を封じるのではなく、“隔てる”発想……作り手は、冥界の理をよく理解している』
ネージュが、小さく口笛を吹いた。
「へぇ……寮監殿、やっぱ化け物だな」
『おかげで、お前たちに名乗るのは無理でも、頭を下げて“お願いする“こともできなかった』
そして、ほんの少しだけ、声の調子が和らいだ。
『勝手に呼び出して悪かったな』
「……やっぱり、ネージュとの会話を聞いていたな」
俺は、苦笑する。
『ああ、聞かせてもらっていた』
「だろうな」
『粉々にしてやると言われて、少し手が震えた。この空間で一人待ちながら、“待って、手が震えてる“案件になっていた』
一瞬、間が空いた。
それから、ネージュが耐えきれなかったように、喉の奥で小さく吹き出す。
「……あー、くそ。フェンリルがそれ言うかよ」
俺も、思わず肩の力が抜けた。
「威厳どこ行ったんだよ」
『戻したほうがいいか?』
「いや……今のままでいい」
笑いが、白い空間にほどけていく。
張り詰めていた空気が、ようやく人の温度を帯びた。
『ここへ呼んだ詫びだ』シオンは、静かに続けた。『トキヤ……、いや、今はセレスか。お前の知りたいことを、教えてやる』
「……俺の、知りたいこと?」
『ああ』
「俺自身、何が知りたいのか分からないのに……あんたには、それが分かるって言うのか?」
『知っている』
静かな断言だった。
『今現在のセレスタン・ギレヌ・コルベール。いや、伊丹トキヤが、どうなっているか、だ』
「……っ」
喉が、わずかに鳴る。言葉が出てこない。
シオンが、ゆっくりと首を巡らせた。
白い空間が、微かに揺らぐ。
『見るがいい』
その言葉と同時に、淡い白の背景が、波紋のように歪んだ。
やがてそこに、輪郭が浮かび上がる。
――病院の、廊下。
白い壁。消毒薬の匂いまで、想像できてしまうほど現実的な光景。
その中央に、車椅子に座った青年がいた。
「えっ……俺……?」
声が、震える。
そこにいるのは、間違いなく伊丹トキヤだった。
痩せた肩。少し伸びた髪。
「俺は……生きていた……?」
見慣れたはずの自分の顔が、どこか他人のように見える。
「セレス……じゃねえ……トキヤ……」
ネージュが、絞り出すように呟く。
トキヤの傍らに立つ女性――見覚えのありすぎる横顔。
「……綾、ちゃん……」
妹だ。
俺が最後に見た、あの悲痛な表情ではない。
心配はしている。だが、絶望してはいない顔。
お越し下さりありがとうございます!
(* ᴗ ᴗ)⁾⁾. (♥ ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾
ようやく、フェンリルを出すことができました。




