◆ 学院編 帰還 -10-
空き地の中央では、アルチュールがシルエット家から持たされたランチセットを広げていた。
量も内容も申し分ない。
「ナタン、よかったらこっちに来て手伝ってくれ」
「はい」
ナタンは一歩踏み出した拍子に足元を取られ、覚えず、たたらを踏んだ。
反射的に両腕を大きく広げ、片足で立ちながら踊るような格好で体勢を立て直す。
いつもなら完璧な動きなのに、今日は明らかに危なっかしい。
「……珍しいな。しかし、まさかナタンがこんなにアルコールに弱かったなんて」
アルチュールが苦笑する。
「すびません……少し、頭が……ふわっと……ですねぇ……ふふふふ」
「酔ってるね。無理しないで座ってて。俺が手伝うから」
横からジュールにそう言われ、ナタンは素直にフラードとリシャールのそばに腰を下ろした。
その間に俺は木桶を手に取り、ルクレールと並んで馬の方へ向かった。
立ち止まって桶に水属性の魔法を流し込むと、澄んだ水が音もなく満ちていく。
それを地面に置くと、馬は一度、俺の腕に頬を軽く擦り付けてから、安心したように喉を鳴らして水を飲み始めた。
「……ルクレール」
ぽつりと声をかける。
「あん?」
「今回、一緒に来てくれて……ありがとうな」
桶の中で揺れる水面に、木々の影が落ちるのを眺めながら俺は言った。
「殿下のことだよ。普通の学生みたいに、俺たちと一緒に旅をさせたくて付いて来てくれたんだろ?」
すぐには返事が返ってこなかった。
ルクレールは馬の首筋をゆっくりと撫で、たてがみの間に指を沈める。
「俺をこの旅行に巻き込んだのは、お前の婚約者だ。礼を言うなら、アルチュールに言え。俺が参加すると言ったら、たまたま殿下の遠出の許可が通った」
馬が小さく鼻を鳴らし、ルクレールはその額に軽く触れた。
「条件が揃った、それだけだ。俺が来たのも、殿下が来られたのも」
視線の先では、リシャールがフラードと会話を交わし、すぐ横でナタンが寝転がり、ダンサーがその足元でちょこんと座っている。
「……優しいな、ルクレール。さっきの防御の判断も、御者と馬への配慮も……さすがだ、と思ったよ」
「なんだ? 惚れ直したか?」
ルクレールは馬の首を撫でながら口角を持ち上げ、ちらりとこちらを見た。
「いや、まず前提として惚れてない。でも、カッコ良かった。ロジェみたいで」
「……」
「なに?」
「お前さ……、俺に比べてロジェの評価、高過ぎないか?」
「そりゃ、仕方ないだろう」
「なにが仕方ないんだ? ああん?」
「理想のお兄ちゃんじゃないか、ロジェは」
「じゃあ、俺はなんなんだよ」
「うーん、……手のかかる弟?」
「俺のほうがセレスより年上だろうがっ」
手綱を整える動きが、ぴたりと止まる。
次の瞬間、ルクレールがこちらを睨んだ。
「納得いかないんだが?」
「寝る時に頭を撫でてくれ、なんて言う男が、お兄ちゃんなわけないだろう」
そんなやり取りをしていると、すぐ後ろで気配が動いた。
「……何を楽しそうにやっている?」
言うより早く、アルチュールが背中から俺を抱き寄せた。
肩口に顎が軽く乗り、逃げ場を塞ぐような距離感。
「ルクレール」
穏やかなのに、妙に圧があるアルチュールの声。
「俺の恋人を、俺の目の前で口説かないでくれ」
「影で口説けばいいのか?」
ルクレールが、目だけで笑った。
獲物をからかう肉食獣みたいな、余裕と挑発が滲む笑みだった。
「そういう問題じゃない」
アルチュールも負けじと視線を返す。
二人の間に、ぴんと張った糸のような空気が生まれる。剣呑……だが、どこか楽しそうだ。
互いに睨み合いながら、口角だけは僅かに上がっている。
「よし」
先に動いたのはルクレールだった。馬から少し離れ、肩をゆっくり回す。
その動きには、日常の優雅さと、戦いの間合いを瞬時に見極める力が同居していた。
「食前に少し身体を動かすか。この旅の間、まともに手合わせしてなかったな」
「いいですよ」
アルチュールもあっさり応じ、俺を抱いていた腕を解く。
「え……ちょっと、何をする気なんだ?」
俺の声など意にも介さず、二人は空き地の中央へ歩み出る。その佇まいだけで、空気が締まった。
距離感、呼吸のリズム、間合いの取り方……見ているだけで息を呑む。
……あれ?
この世界の貴族の護身術はリュットと呼ばれるものと、ショソン・マルセイエーズと呼ばれるものの二種。これは、学院でも教わる。
リュットは、本格的レスリング。そして、ショソン・マルセイエーズは、足技主体の蹴拳術。
だが、今、目の前の二人のこの構えは完全に――、
「サバット……?」
そう口にした瞬間、
「身体強化、展開!」と、低く無駄のない声でルクレールが告げた。
合図というより、戦場で使う命令に近い。
「了解」
アルチュールは即座に応じる。魔力の気配が、二人の輪郭に薄く重なった。
サバットとは――、
庶民の武闘、足技を多用して体の強化も同時に行う格闘術。
だが、リュットは、抱きつきや投げで相手を制する。ショソンは、舞踏的運動として体系化され、姿勢と所作の美しさを重んじる。
今、目の前で繰り広げられるのは、紛れもなくサバットの立ち姿と足捌き。
実に、荒々しい。
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