◆ 学院編 帰還 -9-
༺ ༒ ༻
「おっ、森に入っらみらいですよー」
少しだけ開いていた馬車のカーテンを、ナタンが勢いよく引き払った。
ワインのせいで舌はだいぶ怪しく、言葉の端がやわらかく溶けている。頬には熱が差し、いつもより幾分――いや、明らかに上機嫌な色合いだ。
開け放たれた車窓の向こうには、濃淡の異なる緑が幾重にも折り重なっている。
「森か。じゃあ……」
そう言って、ルクレールが軽く指先を鳴らした。
すでに張られていた防御の上に、もう一段、魔力が重ねられる。空気が一瞬だけ引き締まり、次の瞬間には、膜の厚みが増したような感覚が馬車を包み込んだ。
手慣れた強化。その所作を、アルチュールは目を丸くして見つめる。
最近の彼は、どこかでルクレールの動きを手本にしようとしている節がある。
「ありらろうごらいます。これれ、御者のフラードの身も、馬も、安心れす」
「王都と辺境地との街道は点在する結界と巡回によって管理されている。そうそう厄介なものは近寄らないが、さすがに森までは手が行き届かない。その分、馬車の防御も強化しておいて損はないだろう。御者にも馬にも、余計な緊張は背負わせたくないからな」
なるほど。この男……。
ロジェも気配りの人だけど、ルクレールも中々のものだ。周囲から信頼を集めないはずがない。
まあ、学院時代、ロジェのプティ・フレールだったもんな。
あの人のすぐそばで、兄役の背中を見ながら過ごしてきたんだ。人の動きや空気を読む癖が、自然と身につくのも無理はない。
そりゃモテるわ。
高い木々が陽射しを受け止め、揺れる枝葉の影が馬車の側面を滑るように流れていく。
ナタンは窓の外を眺めたまま、少し首を傾げた。
「……この辺り、いい具合に木が開げてまずねえ」
車内は水魔法による空調で比較的まだ快適に保たれ、夏の熱をそこそこ遠ざけるちょうどいい涼しさだ。
その風は御者台にも背後から送られていて、理屈の上では、暑さは随分と和らいでいるはずなのだが――、
「この辺れ、休憩しませんか?」
ナタンは、ふっと視線を前方へ向けた。
仕切りのガラス小窓越しに見えるフラードの手綱を握る背中は変わらず安定しているが、夏の陽射しは容赦ない。
「一度止まるか」ルクレールが即座に応じた。「馬にも水をやりたいし」
その言葉を待っていたかのように、ナタンが仕切りの小窓へ身を寄せた。留め金を外し、ガラスを少しだけ押し開く。
「フラード、少し先れ休憩をお願いします。木陰れ昼食にしましょう」
御者台から、落ち着いた返答がすぐに返ってきた。
「承知しました」
馬車の速度が緩やかに落ちていく。
ほどなくして森の連なりがふっと途切れ、視界がひらける。周囲を囲む木々が陽射しを和らげ、風の通りもいい。
フラードが手綱を締めて、馬車が静かに停止した。
周囲を囲む木々は少し距離を置き、陽射しは遮られすぎることなく、やわらかく地面に落ちている。風も通り、休憩には申し分のない場所だ。
「ここなら、ちょうろいいれすねー」
ナタンが、ほっとしたように言う。
それからダンサーの方を見て、少し目を細めた。
「ダンサーも……お昼ご飯れすよー。一緒に食べましょうれー」
ダンサーは小さく羽を鳴らし、返事ともつかない音を立てた。
外へ出ると、空気が一段軽く感じられた。
木陰と草の匂いが混じり、胸の奥まで自然の涼しさが染み込んでくる。
「さて……」
ジュールが中型のバッグを一つ開けた。
「まずは、腰を落ち着ける場所を作りましょうか」
中から取り出したのは、丁寧に畳まれていた薄手のタピス――。芝生の上へ手早く広げ、端を軽く整える。皺ひとつ残さない手際の良さ。
さすが旅慣れた手つきで、動作は無駄なく滑らかだ。
「……さすが」
思わずそう言うと、ジュールはこちらを向いてにこりと笑った。
「フラードは、あっちに座って休んれれくらさい」
ナタンがトレモイユ家の御者に声をかける。
御者台から降りたフラードは、休む間もなく馬の方へ向かい、鞍や手綱の様子を確かめようとしていた。
「しかし、ナタン様……」
「大丈夫れすから。ここは……。あ、そうら。シャー、フラードを見れれもらえますか?」
少し舌の回らないナタンの言葉に、リシャールは即座に意図を察しすぐ頷いた。
「分かった」
「フラード、もしあなたが何か手伝らっらら、シャーも一緒に手伝らいますよー。これ、一応ですけどねー、第一王子なんれす」
「そう、これは一応、王子だ。王位継承権、第一位の王子だ。セレスと結婚したら、さっさと弟に譲ってコルベール家に入ろうと思ってたが、叶わなかった」
おい……。
「今はせめて、御者を働かせすぎない立派な王子でいようと思ってる」
シャーまで酔ってきてるな。
「え……、そんな……」
「行くぞ」
「……いや、殿下」
フラードが困ったように視線を泳がせる。
「あなたが馬の面倒を見るなら、私も一緒だ」
リシャールは淡々と言った。
「殿下に御者仕事をさせるわけには……」
「なら、行くぞ」
そう言ってリシャールは踵を返す。
フラードは一瞬だけ逡巡し、観念したように肩を落とした。
「……失礼します」
そのまま二人は並んでその場を離れる。
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