◆ 学院編 帰還 -8-
きっぱりとした主張に、ルクレールは一瞬だけ目を瞬かせ、それから破顔した。
「はは。まあ、固いこと言うな」
「言いたくもなりますよ。相手がヴァロアさんですから」
そう返しながらも、ジュールは観念したようにサイドボードへ向かいグラスを二つ手に取る。
足取りは渋々だが、動き自体はきびきびしたものだった。
そしてそのまま何のためらいもなくダンサーの隣へ腰を下ろすと、ジュールは手にした二つのグラスのうち、一つを自分の前に置き、もう一つを自然な所作でダンサーの前へ滑らせた。
ワインがグラスに注がれる音が、静かな部屋に柔らかく響く。
注いでいるのは、ルクレール。慣れた手つきで角度を調整し、落としていく。
深い紅が、ガラス越しに揺れた。
ダンサーは差し出されたグラスを一度見下ろし、縁へとそっと顔を寄せる。
小さく息を吸い、立ちのぼる香りを確かめてから、一口口に含んだ。
次の瞬間、羽がふわりと緩む。
目が限界まで見開かれ、嘴の端が、きゅっと持ち上がった。
それからジュールへと視線を移し、礼を示すように軽く首を傾ける。
「……ヴァロアさん」
ワインの色を確かめるように手にしたグラスを傾けたまま、ジュールがふと口を開いた。
「サイドボードの最奥に、蓋と鍵付きのパニエが入ってます。取ってきてください」
「おい……、なんで俺が?」
言い方は、露骨に「上司を雑用扱いする気か?」と訴えていた。
ジュールは肩をすくめ、いかにも何でもないことのように言った。
「行かなくてもいいんですか?」
「ああ?」
「中にですねえー、『ル・コルヴォ』の燻製ナッツとー、『ヴェルジェ・ドゥ』のドライフルーツ、それから……『ラ・ボワット・ブリュ』の夜光魚の卵の缶詰が入ってますけど」
一拍の間すら置かず、ルクレールは無言で立ち上がり、サイドボードへ直行した。
「はやっ」
思わず俺が呟く。
拘束と解除の練習の最中だったはずの俺たちも、自然とそちらに引き寄せられる。
俺とリシャールの視線が、ほんの一瞬だけ交わった。
言葉はない。だが次には、ほとんど同時に踵を返し、二人でルクレールの背中を追っていた。
「お、おい、待て、セレス!」
背後から、アルチュールの低い声が飛ぶ。
だがその身体は、俺の手によって腕だけでなく足までしっかりと縛られており、情けないほど身動きが取れなかった。
「ちょっ、待ってください、セレスさまっ! シャー!」
続いて、明らかに切羽詰まったナタンの声。
「ブリュのキャビアですよ!? 王都でも滅多に手に入らないやつじゃ……って、ちょっ、解けないっ! シャー! なんでこんなぐるぐる巻きにしたんですかー! シャー! これじゃ、拘束解除しても、縄が解けない。シャー!」
ルクレールはサイドボードを開け、奥を探り、すぐに目的のパニエを引きずり出した。
「これは……開かないな」
鍵穴を一瞥して、ルクレールが言う。
ジュールがにやりと笑った。
「そりゃそうですよ。俺が、心血注いで練った拘束魔法をかけてますから」
悪びれもせずに言い切る。
「ほら、ちょうどいいでしょう? 練習の成果発表に――」
言い切る前だった。
ルクレールが、わずかに手首を返す。
次の瞬間、パニエの表面を走っていた術式が浮かび上がり、まるで叩き潰されるように弾け飛んだ。
ぱちん、と乾いた音。
「……あ」
ジュールの声が間の抜けた音になる。
ルクレールは何事もなかったかのように蓋に手をかけ、軽く持ち上げた。
あっさりと、開く。
中を覗き込んだ瞬間、彼の目が、ほんのわずかに見開かれた。
「ああああ……!」
ジュールはワイングラスをテーブルに置いて頭を抱えた。
「ちょっと待ってくださいよ! “開かないな”って言ったじゃないですかー!」
だがルクレールは肩をすくめただけだった。
「ああ。言ったな」平然とした声で、続ける。「“俺以外だと、開かないな”の意味だ」
ジュールが、じっとりとした目でパニエとルクレールを交互に見つめている。
その視線を気にも留めず、ルクレールは中の品を一つ手に取って一瞥したあと、パニエに視線を戻す。
「これはいい“実演用の見本”になるな……、ジュール、あとでまた今の拘束魔法をかけ直してくれ。一人ずつ、順番に解かせたい」
「……分かりましたよ」
ジュールは短く息を吐き、渋々ながらも頷いた。
「分かりましたけど、その中身、俺の自腹ですからね。一応言っておきますけど、帰りの馬車で、みんなでつまむつもりで持ってきたやつなんです」
ルクレールはその言葉に、ふっと口角を上げた。
「なら、問題ないな。じゃあ、ダンサーも交え、昼食までの食前酒といこうじゃないか」
リシャールが自分の鞄から携帯用カトラリーセット取り出し、テーブルに置き始める。そして、いつの間にか拘束を解いていたアルチュールは、サイドボードからグラスを取り出し、人数分を腕に抱えて戻ってきた。
息が合い過ぎている。
キャビアとワインを前にしたこの完璧なチームワーク――。
……あれ?
ふと、違和感が胸をよぎる。
視線を巡らせ、人数を数えてようやく気づいた。
一人、足りない。
俺は背後へと目をやった。
そこには、床の上でぐるぐる巻きにされたままのナタンが横たわっていた。
だが先ほどとは違う。彼は無闇に暴れることもなく、眉間にしわを寄せ、何やらぶつぶつと呟きながら、縄に魔力を流している。
「……シャーの前菜が、すべて黒オリーブにすり替わりますように……黒オリーブだけが延々と供される食事会にシャーが招かれますように……夢の中でシャーが黒オリーブの群れに囲まれ、追いかけられますように……」
低く、呪詛めいた声。
恨み言を並べつつも、解除魔法はやけに丁寧だった。結び目を一つずつ確かめ、魔力の流れを断ち、絡まった術式をほどいていく。
その様子を横目で見ていたリシャール殿下が、ついに耐えきれなかったようで、「……ぶっ」と、短く噴き出しながら、テーブルの方を指で示した。
「ナタン、呪いはその辺にしておいてくれ。さすがに黒オリーブの夢は見たくない。それより早く解いてこっちへ来い。夜光魚の卵もちゃんと取り分けてあるから」
「……本当ですか?」
「そこからは見えないか? でも、嘘を言ってどうする」リシャールは肩をすくめた。「だから、呪詛は後回しだ」
「……」
一瞬の沈黙ののち、ナタンは深く息を吐き、今度は無言で解除の速度を一段上げた。
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