◆ 学院編 グラン・フレール ~学院の『兄』~
寮監ヴィクター・デュボアの言葉に、一年生たちの表情が徐々に緩んでいく。張り詰めていた空気がふっと和らぎ、緊張の糸がほぐれたのが目に見えて分かる。
「ゾンブル閣下からも話があったと思うが、夕食までは各自、自室で待機すること。部屋までは君たちのグラン・フレールが案内する」
低く落ち着いた声でそう付け加えると、デュボアは軽く頷き、ゆっくりと半歩下がった。それと同時に、背後で控えていた二年生たちが、まるで呼吸を合わせたかのように足並みも乱さず音もなく前へ進み出る。ぴたりと横一列に並んだ彼らには微塵の歪みもない。その見事な整列に、新入生たちは思わず息を呑んだ。
場に静けさが満ちたそのとき、グラン・フレールたちは、今度はそれぞれのプティ・フレールの前へと一人一人、無駄のない動きで歩み出た。足取りは軽やかでありながら、どこか儀式めいた厳かさがある。
「セレスタン・ギレヌ・コルベール殿」
目の前に立ち止まった相手から落ち着いた声で名を呼ばれた。彼の顔には、セレスタンの記憶の中で見覚えがある。
「……レオ・ド・ヴィルヌーヴ殿」
ヴィルヌーヴ伯爵家の次男。
王城での他国要人歓迎晩餐会、各家の子弟が集う舞踏会やサロン――そのどれかしらの場で彼の姿は視界の端に映っていた。正装姿で談笑する様子、微笑みを絶やさず貴婦人と踊るときの流れるような優雅な身のこなし。礼儀と品位を綺麗に身に纏った好青年としての姿が記憶に残っている。
だが、実際にセレスタンと言葉を交わしたことは、数える程度。挨拶や形式的な短いやりとりだけだ。
今、俺の目の前に立つレオは、あの記憶の中の『よそ行き』の彼とは、どこか雰囲気が違っていた。
真っ直ぐな黒髪は軽く前に流され、目元をかすかに隠している。手入れされた髪だが、どこかラフな印象も与えていた。鋭くも涼やかな深い紫色の瞳がこちらを見つめているが、決して敵意や威圧感はない。むしろ、探るような、少しだけ面白がっているような光が宿っている気がした。
整った顔立ちには貴族らしい品があるが、それ以上に目を引くのは、その内に潜む『何か』だった。整然とした場でも浮かないだけの礼儀を身に着けつつ、いざとなれば、安全を保障する柵を軽々と越えてしまいそうな自由さと奔放さ、そして独特の貫禄を持つ――。それは、まるで鷹揚な猛禽が羽根をたたんで人に化けているのではないかと思える、そんな印象だった。
そもそも原作には、この場面は存在しない。セレスタンは、この第一寮『サヴォワール』所属ではなく、第三寮の『ソルスティス』所属、そして、本来のグラン・フレールは、別の伯爵家の子息で至極真面目な青年だったからだ。
この予定外の配役変更に、思わず息を飲む。
今後の展開が全くもって分からない。知っているはずの物語が、形を変えていく。次に何が起こるのか――?
「本日よりあなたのグラン・フレールを務めることになった、レオ・ド・ヴィルヌーヴです。どうぞよろしく――ロード・コルベール」
折目高い立ち居振る舞いで軽く頭を下げたレオの声は落ち着いていて丁重な印象だったが、その奥底には、どこか掴みどころのない色気と、不意に弾けそうな荒々しさが潜んでいた。まるで、きちんと整えた髪の下で、バラガキがひそかに火花を散らしているような――そんな気配がほんのわずかに漂っている。
なんでだろう……。出るキャラ出るキャラの背後に、片っ端から悉く攻めのオーラが見える気がする。こいつも胸板が厚い。
「荷物はすでに俺が部屋に運んだ。案内いたしますよ、ロード・コルベール」
そう言ったレオに俺は軽く片眉を上げて見せた。丁寧過ぎる呼び方は、やはり違和感がある。
「ただの新入生として接してくれませんか。肩書きは、学院では抜きにして欲しい」
言い切る俺に、彼はほんの僅かに驚いた顔をして間を置いてから口角を持ち上げ、軽く含みのある笑みを浮かべた。
「分かった。君がそう望むなら、そうしよう」
レオと並んで歩き出すと、俺の周囲でも他の新入生たちが、それぞれのグラン・フレールとペアになって動き始めていた。
緊張で顔をこわばらせていた一年生たちが、少しずつ表情を解いている。
話しかけるグラン・フレールの語り口が柔らかいのか、肩をすくめながらも小さく笑う者、頷きながら歩調を合わせる者――反応はそれぞれだったが、いずれもこの瞬間から始まる『寮生活』に心を揺らしているのが分かった。
俺の隣を歩くレオは、そんなことをよそに悠然としていた。背筋はまっすぐ、歩幅も無理がなく、要所で俺に気を配る。まるで他人に見せるための所作を体に叩き込まれたような歩き方だった。
だが、そんな空気の中でも、背後から――というより、少し離れた数方向から妙な熱の籠った視線が突き刺さってくるのを、俺はしっかりと感じていた。
刺すような鋭さを帯びた目線。振り返らなくても分かる。これはアルチュールだ。どうやら彼も、グラン・フレールと共に寮室へ向かっている最中のようだったが、その足をほんの一瞬だけ止め、こちらを見ていた気配がした。
続いて、ずっしりと重たい視線。堂々としていながら、妙に棘を含んでいる。これは殿下――リシャール王太子。王族特有の気配に気付かないふりをしてやるのも、正直、ちょっと疲れる。目を合わせなくても伝わってくる不機嫌さに、俺はこっそり溜息を吐きたくなった。
極めつけは、じんわり胸に残るような、感情の混ざった視線。ナタン。彼もまた、自分のグラン・フレールと一緒にいるはずだが、ふとした瞬間にこちらを見たのだろう。目が合ったわけでもないのに、それはやけに刺さる。
俺は顔を向けることなく、気配だけで三人の居場所を探りながら、表情には一切出さないよう努めた。周囲の新入生たちは、そんなこと気付きもしないまま、自分のグラン・フレールとの会話に一生懸命だ。
レオがふと、こちらに目を向ける。
「どうかしたか?」
「いや……、何でもありません」
軽く首を振り、そのまま歩を進める。視線なんかに気を取られていられない。――俺の部屋は、もうすぐそこだ。
リアクション、評価を頂き、ありがとうございます。小躍りしてます♪