3. 雹冬レインのはかりごと
――入学式から一か月ちょっと――
俺は天道先輩のいるバスケ部にもなじみ、なかなか楽しい高校生活を送っていた。
「ふー……」
時刻は午後七時。放課後練習を終えて帰るところだ。いつもならもう少し残るが、今日はあまり体の調子がよくない。
それはおそらく――『今日が満月だから』だ。なぜかは自分でも分からないのだが、満月の日には決まって体調が優れない。前日に絶好調でもこうなるし、逆に翌日にはケロッと快復する。俺はそういう不思議な体質を持っていた。
「おーい律季」
「ん……?」
「こっちじゃこっち。ちょっと話したいことがある」
駐車場からレイン先生が呼んだ。俺も素直にそちらへ歩く。
出会いこそ訳の分からないものだったが、今では彼女も、わりと普通に話す仲になっていた。保健室でケガを手当てしてもらった事も何度かある。人を食ったような態度こそ相変わらずだが、突拍子もない事を言われたことは、あの初対面以来なかった。
そう……あの「エロい事をさせてやるから炎夏を彼女にしろ」発言。あれが嘘だったかのように、ここ一か月彼女はまともな態度を取り続けていた。
「むぎゅーじゃ♡」
「うぐっ」
運転席からいきなり立ったレイン先生が、不意打ちで俺を抱きしめる。そのままたっぷり十秒ほど、おっぱいをこすり付けられてむぎゅむぎゅされた。これも含めて彼女は平常運転だ。フランクな出会いの挨拶とかではなく、本当にランダムなタイミングでこういう事をやってくる。他の男子生徒にはこうではない――なぜか俺にだけ異常に甘いのだ。
「……もう、やめてくださいよ」
「そっけないのー。ホントはうれしいくせに」
「だから困るんですよ。毎回好きになりかけちゃうから」
嬉しくないわけがなかった。こんな美女にベタベタと構ってもらえて喜ばない男はいない。
平静を装っているが、俺はいま死ぬほど興奮している。なにせこの美貌でこのプロポーション、ミステリアスなのに親しみやすい雰囲気。
レイン先生はレイン先生で、すごく魅力的な女性だ。「のじゃのじゃー」って言う変な口癖も、慣れた今では可愛くてしょうがない。
しゃべるだけでも割と心を引っ張られるのに、ハグなんかされた日にはたまらない。脳内でヤバイ物質が、自覚できるほどものすごい勢いで放出される。『なにか悪いことを企んでいるのではないか』という警戒心でバリアを張らないと、確実に惚れてしまう。
「――で、おぬし、最近炎夏とはどうじゃ?」
「どう……とは?」
「うまくやっておるのか? 恋人関係になるために」
「――久しぶりですね。それ言うの」
「ああ。わしとおぬしの契約じゃからな」
「押し付けたくせに」
「おっぱいもな。そんな事言いながらも、なんだかんだ付き合ってくれるよな。わし、おぬしのそういうとこ好きじゃぞ」
……あ、いかんいかんいかん。またクラッときた。
真顔でこういうこと言うんだよなーこの人……間一髪で心にバリアを張らなかったらやばかったぞ。
「わしの頭にあるのは、いつもそればかりじゃ……寝ても覚めても、おぬしが彼女を作れることだけを願っておる」
「なんなんですかそれ? じゃあ先生が俺と付き合ってくれればいいでしょ」
「――! い……いや、おぬしは炎夏と付き合わねばダメじゃ。わしでは未成年淫行になるし」
先生はなぜか、痛い所を突かれたような顔で一瞬黙った。
まあこの人の様子がおかしいのはいつものことだ。俺も気に留めない。――つーか『報酬』とやらの話はアウトじゃないのか。なんならこのエロ教師、まだ高校生未満だった俺に、白昼堂々逆セクハラしてたよな?
「で、どうなんじゃ。うまくやっとるのか?」
「うーん……うまくって言われてもなぁ。普通に、部活の先輩後輩ってだけですよ。……あーでも、胸が大きくて毎日困ってるとかの悩みを打ち明けてもらえるぐらいには、距離は縮まりましたね」
「……そりゃあ、ちとまずいのう。おぬし多分、炎夏に男として見られておらんぞ」
「そうなんですよねー……はぁ。
距離は縮まってはいるけど、近づけば近づくほど山の高さに絶望しますよ」
「あ……それ、巨乳にかけたシャレか?」
「違いますよ!?」
先輩があの話を振ってきたとき、俺は正直ショックだった。異性として意識している相手に、「おっぱいが大きすぎてつらい」なんて話せるわけがない。
俺を相談相手に選んでいるあたり、信頼してもらえてはいるのだろうが……それは要するに、俺の『無害さ』を信頼しているに過ぎない。
話をしていて分かったのだが、告白して来る男=体目当て、と先輩は無意識下で認識している。下俺がこの先告白してこないことを、先輩は無意識に期待しているだろう。
「ま、先輩と話ができるだけでも幸せだと思ってますけどね。俺以上の優良物件なんて、二年三年に山ほどいるでしょうし……先輩にとって、わざわざ俺を選ぶ理由もないでしょ」
「……己の気持ちはどうなんじゃ。炎夏のことが好きなんじゃろう?」
「大好きですよ。もう会うたびに可愛いです」
天道炎夏先輩には、奉納の舞を見た時点ですでに一目ぼれしていたが、入学してから実際に話してからはさらに憧れるようになった。
いろんな意味で変化球すぎるレイン先生に対して、先輩はド直球に魅力的だ。明るくて行動的で面倒見が良くて、ちょっとポンコツなところもあって、男ならだれでも惚れる性格をしている。
友達がとにかく多くて、学校の中で一人でいるところをほとんど見たことが無い。あれだけの美人が異性だけでなく同性にまで慕われるのは、よっぽど本人の性格が良くないとありえないことだ。マネージャーとしても説明がわかりやすくて優しいし、部活じゃない時に会っても、勉強やバスケを気前よく教えてくれる。あれだけ華がある人なのにすごく親しみやすい。陽キャを通り越して『光』って感じの人だ。
まあ……普段の苦労が苦労なので、時々泣き上戸のよっぱらいみたいになって俺に絡んでくることもあるが、そんな面倒くさいところも可愛いと思う。
美人でおっぱいがでかい外見はもちろん魅力的だが、個人的には中身のほうがずっと惹かれる。地元住民に崇拝される退魔の巫女という立場、式典で見せる神秘的な雰囲気に反して、素はちょっとポンコツで面倒見がいい普通の女の子なのだ。このギャップにやられない男はいないだろう。
――だから俺にとって、先輩のグチはすごく共感できる。
先輩のことを好きだと軽はずみに言う奴らは、明らかに何も分かっていない。いかに先輩が裏で苦労しているかも、めんどくさくて可愛いところも、何ひとつ見ようとしていない。
正直とてもムカつくのだ――相手の気持ちも考えずに、先輩に告白しに行く男子などは。
「つまりこう言いたいのか。――自分は炎夏のことをわかっているから、他の男どもよりあやつの彼氏にふさわしい、と?」
「重要なのは本人の気持ちです。そんなみっともない事言えますか」
「ははは……よい。そう考えられるだけでおぬしは、そこいらの男には勝っておるよ。
考えてみよ律季――二年三年に優良物件の男子がいると言いながら、結局炎夏は誰とも付き合っておらんではないか。その気になれば選り好みし放題だというのに、誰一人として彼氏にしたことがない。それが現状じゃ。
――つまりこれはもう、相手のスペックがどうとかいう問題ではない。優等生なだけでは炎夏とは付き合えぬ。学力とか運動神経とか顔とかいう基準で、あやつは男を選ばんのじゃ」
「……だったらもう、誰でも無理なんじゃないですか?」
「――いいや。律季ならきっと大丈夫じゃ」
また根拠のないことを言う。
この人の自信満々の口調はなんなんだろうか? 何もかも見透かしたような顔をして……。
「先生、実は俺を玉砕させて笑いたいだけじゃないんですか? レイン先生にからかわれるのは、正直まんざらでもないんですけど――天道先輩に迷惑がかかる遊びなら、さすがに乗れませんよ」
「そういう真面目なところも好きじゃぞ。……安心するがよい。わしも律季のため――炎夏のためを思って言っておるのじゃ」
「……先輩のため?」
「ああ、そうじゃぞ。見かけはまともを装っておるが、あやつはあやつでかなりこじらせておるからなー。しかも殻が厚いだけで、根っこはチョロッチョロもいいとこじゃし……いつか悪い男にひっかかってしまわないかと心配なんじゃよ。
炎夏には、ちゃんと立派な男と一緒になってほしい。おぬしなら炎夏に幸せを教えてやれる」
「……もう、まだそんなこと言ってんですか。――じゃあ聞きますけど。もし仮に俺が先輩と付き合えたら、先生はあの『約束』通りにするんですか?」
「――あれか。ああ、むろん忘れておらんぞ」
俺はその話を持ち出すのに相当な覚悟が要ったが、先生は動じない。
『天道先輩と付き合えたら、レイン先生がエロい事してくれる』約束――あんなもの冗談だと言われれば、それまで。いや、むしろ冗談であってほしい。
「あの時は炎夏と付き合うご褒美と言ったが、おぬしが炎夏の彼氏を続けていくためにも必要な事じゃしの。――誰かがおっぱい揉ませてやらんと、炎夏とまともな交際などやっておれん」
「……は?」
「想像してみよ。炎夏と彼氏彼女の距離感になった時のことを。お互い高校生なんじゃからハグやキスぐらいするじゃろうし、家に二人っきりになることもありえる――そのたんびに、あの爆乳が寄って来るのだぞ♡ それもこれから夏場じゃから、私服は今よりずっと薄着。汗で服がくっついた姿や、透けたブラを間近で見せつけられることになる。
――毎日毎日そんな感じで、紳士的な態度など続けられると思うか? いつか我慢できなくなるに決まっておるわ」
グウの音も出なかった。想像するだけでヤバイ。
部屋着の天道先輩と二人きり? それでハグしたりチューしたりする? ――もし本当にそんなことになったら、正気を保てる自信は全くない。どんな行動に出てしまうか自分でもおっかないぐらいだ。
だが彼女は、性欲をむき出しにする男が嫌いである。襲ったりするのは論外だが、無防備な姿をエロい目で見るだけでも幻滅されてしまう可能性がある。ちょっと理不尽だが仕方ない。
「じゃから、わしがおるんじゃよ。爆乳の女でため込んだ欲望は、別な爆乳の女が発散させてやるしかない♡
――炎夏にヤりたくなったことを、代わりにわしにヤればいいのじゃ♡ 炎夏と付き合ってムラムラしたら、わしのところへ来るがよい♡」
「――ッ……!! め、めちゃくちゃ魅力的ではありますけど。でもそれじゃ完全な浮気……」
「なにが浮気なものか。彼女と清純なお付き合いを保っていくために、わしのカラダを利用するだけじゃぞ? わしという存在は、いわば律季の性欲処理係♡ おぬしらの関係を保つためなら、わしはなんでもしてやるぞ♡」
「なっ……『なんでも』っ!!?」
「ああ、なんでもじゃぞ♡ おぬしの言うことなんでも聞く♡ ……いやホント、マジでなんでもしてやるぞ♡ リクエストすればそれこそ、きもちい~行為だってなぁ♡♡
――でもそれは浮気ではなくて、あくまでも自慰じゃ♡ わしの乳を揉もうが、舌をからめるちゅーをしようが、それ以上のことをしようが、律季が自分の右手で性欲を処理するのと同じこと♡ 右手ばっかりじゃなくて、たまに左手でしようかな~って思う時、律季にもあるじゃろ? わしはそういう存在だと思えばよい……♡」
「思った以上に生々しい!! というかそんなこと、バレたらもっと大変なことに……」
「まあ、自慰を彼女に見られるのは確かに恥ずかしいことじゃ。じゃが、それを浮気扱いするほど炎夏は狭量ではなかろうよ。――しかも、つかうのがわしのカラダというだけで、オカズはあくまで炎夏じゃ♡ 炎夏の乳を思いながらわしの乳を揉むだけ♡ 炎夏のケツのかわりに、わしのケツにほおずりするだけ♡
彼女に性欲を向けないために自慰をするのは、男としてむしろ尊いこと……♡ その自慰のネタまで彼女というのは、ある意味では純愛の究極と言える♡ 炎夏は軽蔑するどころか、惚れ直してしかるべきじゃ……♡」
――いやいやいやいや。ありえない。今までもおかしかったが、さすがにこれは度を過ぎている。
俺はさっきまで『契約』とやらが、先輩を彼女にした時に一度だけレイン先生におっぱい揉ませてもらって、それで終わる話だと思っていた。いやまあそれでもアウトだろうが――これはもはや、悪魔のささやきだ。どんな薬物をキメたらこんな発想になるのだろう?
いや、確かに興奮はする。昼は天道先輩とお付き合いする裏で、夜にレイン先生とエロいこと三昧――最低どころか鬼畜の所業だが、男としてはたまらないほど幸せだろう。
「炎夏をモノにしたら、当日からその天国が始まるぞ♡ 炎夏が彼女で、わしが都合のいい女♡ ……世界一幸せなハーレム高校生活じゃ……♡
学校トップの二大美女を、新入生のおぬしがかっさらって独り占め♡ ……くくくっ♡ そんなの、死んじゃってもいいぐらいの優越感じゃろうなー♡」
だが――レイン先生のニヤつきから、これがからかいなことぐらいわかる。先輩が俺に気があるというのも、十中八九俺をうろたえさせるハッタリだろう。いや、『そうでなくてはおかしい』。
この人は俺の事を、しょせん子供だと舐めきっているのだ。実際そうなのだが、正直ここまで弄ばれるのは悔しい。なんとかして一矢報いたい気持ちがあった。
それに、本人がいないところで天道先輩の事を好き勝手言っているのも腹が立つ。
ただでさえレイン先生には鬱屈した欲望がずっと溜まっているのだ。初めて会った時におっぱいを顔面に押し付けられたことが、今でも忘れられない。あの日は悶々として寝られなかったし、やっと寝られたと思ったらいやらしい夢を見てしまって惨めな思いをした。
もう一回でいいから胸を触ってやりたい――いや、実際に触れなくても構わないから、もっと危機感を持たせたい。男として、ここまで舐められるのはさすがに悔しかった。
「言っときますけど……先輩はともかくレイン先生のことは、遠慮なくエロい目で見てますからね。ホントにメチャクチャするかもしれませんよ。いいんですか?」
「構わんよ。――もとはといえばエロい事が目当てで、炎夏に近づいたんじゃからなー♡ いまさら全部無しなど考えたくもなかろう?」
「ええ。こうなりゃ意地でもおっぱい揉んでやりますよ」
「きゃー、律季こわ~い♡ だったらせいぜいがんばるのじゃな♡ もし本当にあやつをモノにできたら、毎日わしのおっぱい揉み放題♡ おしりも触り放題じゃぞー♡」
(――ん……? なんだ?)
その時俺は異変に気付く。
――レイン先生が俺を見ていない。目をそらすとかではなく、別の所を凝視している。視線が向いているのは、俺のすぐ後ろ――おかしいと思った時には、もうすでに遅かった。
「――み・か・が・み、くん……?」
(――なぁっ!!??)
見たことがないほどキレた天道先輩が、すぐそこに立っていた。いつもニコニコしているか拗ねているかの表情豊かな彼女が、この無表情ぶり。半端な怒り方ではない。
――聞かれていたのは仕方がない。どこから聞いていたかが問題だ。タイミングによっては最悪の誤解を招いている可能性が――というかレイン先生はなんで止めなかった? 真正面にいる先生はとっくに――なんなら話を聞かれるより先に、天道先輩に気づいていたはずだ。
「……ありゃりゃ、聞かれてしもうたのう。なにか言い訳をしたらどうだ、律季よ」
「え゛ッ……!!!!」(フォローなし!?)
「そうよ。今のはいったいどういうこと?」
「……」
――嘘だろ? マジで何考えてんだこの先生。
いやそれもとりあえずいい。先輩にどう答えるんだ? もともとトチ狂った話なのでどう説明していいか分からないし、どういう誤解をされたかもまだ不明――つまりどう答えてもヤブヘビになる恐れがある。
黙っているのが一番ダメなのは分かっているが、あまりの事態に舌が動かない。ぐるぐると考えを巡らせていると、『じわ……』と先輩が涙をにじませた。
「わああああッ! ご、ごめんなさい先輩!」
「つーん!!」
――ヤバイ。マジでヤバイ。本気で傷つけてしまった……!
嫌われるぐらいならまだしも、今の顔は『裏切られた』と思った顔……よくて絶交、下手をすれば先輩にトラウマを植え付けたかもしれない。そうしたら俺が一人でとれるレベルの責任ではなくなってしまう。
……こ、これ、修復できるのか……?
先輩の泣いたところなんて初めて見た。なんならショックすぎて退行まで起こしている。だって「つーん」って言ったもん。普通高校三年生が「つーん」って言うか?
「わかりました!! 一から説明しますから!!」
「つーん!!」
人生で一番ぐらい冷や汗を出しながら、俺は必死で先輩を追った。謝ってすむような軽い責任ではないが、ここで追わないと取り返しがつかなくなる。
空は快晴。俺をあざ笑うかのように綺麗な満月が浮かんでいる。
「――よし。あとは今夜しだいじゃな……」
◆
「ははは……マジかそれ?」
「笑いごとじゃないわよ、もう……」
「悪い悪い。そりゃへこむよな」
時刻は午後十時。
私はパジャマを着てベッドに寝転がり、窓から伸びる『糸電話』に話しかけていた。これがつながる先は螢視の部屋だ。丘の上の住宅街に立った螢視の家と、神社の境内にある私の家は、補強された崖を挟んで隣り合っていた。
距離は近いが高さがあるので、会おうとすると結構な回り道をしなければならない。いつでも話せるようにと子供の頃に作ったおもちゃの糸電話を、私と螢視は今でも使い続けていた。もちろんスマホはお互い持っているが、家にいる時は愛着のある糸電話の方を使ってしまう。
「あんな子だなんて思わなかった。しばらく口きかないわ」
「やっぱりショックか?」
「……うん。だいぶ」
泣きつくように相談したのは律季くんのことだ。
彼に好かれるなら別に不快ではない。しかし「おっぱい揉むのが目当てで近づいた」ときたものだ。マネージャーとしても期待しており、個人的にも優しい子だと思っていた分、あの発言はかなり傷ついた。
「……でも、マジで下心があったなら、そんなこと口に出して言えるかな? なんかの誤解じゃないかなーっておれは思うよ」
「私もそう思いたいけど……」
「だって炎夏に告ってくる奴は、みんな下心をひた隠しにしてくるだろ。でもお前は経験豊富だから、『隠そうとする奴』はいつも見え見えだ。……でも律季にはそんなそぶりが今までなかったんだろ? 最初からエロい目的で近づいてたなら、一回もボロを出さないなんてありえるか?」
――確かに、その通りだ。
いや、正確には水鏡くんも、私の胸に視線がいくことは時々あった。そのたびに露骨に「ハッ!」となって、天井に視線を固定させて自制していたのだ。性欲がなさそうだからではなく、そういう真面目なところに好感があった。
「話聞いただけだから断定はできないけどさ、状況がなんか変じゃないか? なんで律季が雹冬先生にそんなこと言うんだよ。……同じ男として考えると、『おっぱい揉みたい』なんてまず女性には言えない言葉だぞ。もし本気ならなおさら無理だ。
軽い冗談のつもりだったんじゃないか? そういう会話の流れってあるだろ」
「……そっか。そうかもね。まぁ、それならそれで叱らなきゃダメだけど」
たとえ本人のいない所でもそういう冗談はよくない。私は許せるが、他の女性はどうか分からない。
本人は単なる冗談のつもりでも、関係ない他人に聞かれた時点でそれは『失言』になる。しょせん人の口に戸は立てられないが、そういう悪い話をするのなら、人目に気を付けるぐらいのことは最低限するべきだ。
ちゃんと怒ってあげるのが、水鏡くんの今後のためだろう。
「わかったわ。無視するのはやめる」
「どうせ部活で顔を合わせるんだしな。――まぁ、大丈夫だと思うぞ。あいつはそんな悪い奴じゃないって」
「……? なによ? 螢視、水鏡くんと面識あるの?」
「あるよ。中学の放送部で一緒だった」
「えっ!? 私以外に友達いたの!?」
「普通にいるわ! 律季よりお前の冗談の方がひどいぞ」
「ごめんごめん」
これも悪い冗談である。
しかし……中学の放送部、だと?
螢視と私は幼稚園からずっと一緒だ。中学も当然同じ。水鏡くんも同じ中学にいたのなら、その時に一回ぐらい顔を合わせていてもおかしくないはずなのに……?
「けっこう仲良かったんだけど、六月のはじめぐらいの時にいきなりいなくなったんだ。転校したと聞かされた」
「……それって螢視が中三の時よね? 水鏡くんは、入学からたった二か月でいなくなっちゃったってこと?」
「ああ。おれもおかしいと思ってたんだが、新聞を読んだ時になんとなく察したよ。
――律季は、両親を交通事故で亡くしている。それで田舎の親類に引き取られたらしい」
「――えっ!?」
信じられなかった。あんなにも明るい水鏡くんが、中一で両親を失っていた?
しかし、確かに中三の六月……三年前の梅雨といえば、すぐ隣の町で大事故が起きた記憶がある。なんでも逆走して突っ込んできたバイクと正面衝突したとか……出かける時によく通る道路だから、現場に花が供えられているのを何度か見かけた。
「テレビのニュースでは、被害者は一般人夫婦としか報道されてなかったが……新聞の方の記事に、『水鏡』っていう名前が載ってたんだ」
「別人かもしれないけど……確かに、珍しい苗字だよね」
「時期も一致しすぎるから、律季の両親でほぼ間違いないと思う。新聞しか実名報道しなかったのと、学校の先生が律季の転校について詳しい事は言わなかったのは、多分本人の希望だろうな」
「……そう……」
「だから、律季がバスケ部に入ったって聞いた時はびっくりしたよ。こう言っちゃなんだけど、今度の話を聞いておれは正直ホッとした部分があるんだ。ともかく元気そうだなって」
「寂しいからおっぱい揉ませろとか言ったら、遠慮なくひっぱたくけどね……じゃあもしかして、ずっと心配してた感じ?」
「まぁな。炎夏の言う通り、おれにとって数少ない友達だったから」
基本ドライなうちの親友が、妙に水鏡くんの肩を持つ理由がこれでわかった。
しかし部活が同じとはいえ、たった二か月で螢視と友達になってしまうなんて……水鏡くんは、やっぱり悪い人じゃなさそうだ。両親が亡くなったと聞いてしまうと、冷たくするのもなんとなく罪悪感がある。
「……だが、その辺はひとまず置いておけ。律季のことは明日でいい――炎夏には、今夜の問題がある」
「大丈夫。ありがとね、付き合ってくれて」
「気をつけてな」
螢視は私の幼馴染で親友だ。
私にとってあらゆる悩みを相談できる相手であり――家族にも明かしていない私のとある秘密を、知っている人でもある。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って糸電話を置き、部屋の灯りを消して、ベッドに横たわった。
十時に寝るのはただの早寝ではない。私はこれから『仕事』があるのだ。
「悪夢よ。我を招きたまえ」
『魔法の杖』を額に向けてそう唱える。
その瞬間、体が動かなくなり、ぬるい液体に沈んでいくような感触とともに意識が現実世界を離れた。
「――よし。はじめよう」
意識が戻った時には、私は自分の部屋にいなかった。
広がる光景は、不気味な無人のプールだ。薄暗く、わずかに塩素の香りがする。現実ならぬ精神世界――『悪夢の領域』だ。
螢視が知っているもう一つの秘密――それは、私が『魔女』である事。
魔法の力を以て、この世界にはびこる魔物たちを狩る、『悪夢の狩人』である事――
「烈日の聖槍」
魔力を槍に変えて走り出した。
まずは目につく魔物を片っ端から焼き尽くす――今夜は、朝まで休めない。