美雪②
一樹が我が家の子として生まれたいと聞いたことがある。
井野家でどんな扱いを受けているのかを知っているから、その考えがあっても納得できる。だから私は否定的な言葉を言わなかった。しかし肯定もしなかった。
本当に私たちの家族になったとしても、悩みの種はそれで消えるわけじゃない。何より彼が家族になったら色々不都合な事もある。
だから私はその思いを否定する。口には絶対にしないけど。
時がに今に留まっていればいいと、時々思う。わたし達はまだ無邪気な子供だから、遠慮せず手を繋いで、一緒に遊んで、雨宿りの時に互いに寄り添っても、他人から見てもそれはおかしく思わないし、微笑ましいとさえ感じられる。それを堂々とする権利があるから、恥ずかしさを隠し通した甲斐があった。
その一方、早く大人になりたいとも思っていた。子供では手に入れない果実と、子供ではどうしても無力であることは沢山あるからだ。お母さんは何か大きな悩みを抱えていたけれど、それを子供達に知られたくないようで、一人抱え込んでいた。そんなお母さんをなんとか助けたかった。きっと大人になったら、お母さんのことも、歪な関係で成り立っているこの家のことも色々分かってしまうだろう。
縁側から部屋に戻っても、一樹との会話や一緒に見た景色はずっと頭から離れなかった。
静かな部屋の中で、早まった心臓の響きははっきり聞こえるような錯覚がして、体の中心から熱が広がっていく。
彼と一緒にいた時は気持ちが顔に出ないように必死に我慢していた。目が合った時に顔が赤くなっていないか、今更気にし始めた。その一瞬はキレイな星空すら忘れたぐらい、頭の中が真っ白だった。
彼と交わした言葉にどんな意味があるとか、彼はどんな気持ちで私と見つめ合っていたとか、色々考えてしまう。私と同じ気持ちであればいいなと、思わずそう願った。
色々考えたせいか、布団に入っても眠気が全然訪れなかった。無性に暑いと思った。火照りを冷まさせたくて窓を開けた。
窓を開けた途端、夜風は月明かりと共に部屋に入り込み、回りを銀色に染め上げた。いつの間にか、月が夜空の真ん中に登っていった。目が回るほどにいた星ぼしも今頃月の光で見えなくなった。ちょっとだけ残念だと思った。
窓の向こうは木造の柵で、さらに向こうは森だった。木々が風に揺らされて、葉っぱの摩擦音がどことなく波の音を想起させた。その音は遥か遠い場所からやってきたようだった。それを聞いているうちに落ち着くようになった。
月明かりに白く染められた木々を眺めているうち、何の前触れもなく「橋の彼方」を思い出した。
誰だって、その絵を見る度に惹かれるのだ。善し悪しはともかく、その絵は人の目を奪う不思議な力がある。
お母さんの部屋にいた時、わたしはいつも静かに絵を描いていたお母さんの側でその絵をじっと見つめていた。
見つめているうちに、その絵がだんだん近づいてくるような気がして、体と絵の距離はちっとも縮んでいないというのに、まるで魂が抜けてその絵に吸い込まれたようだった。そして知らないうちに自分は絵の中にいた。
そこはどこまでも真っ白な世界だった。世界は白い霧に覆われたようだった。ぐるりと見渡して、目に映るものは白以外の物はなかった。足元の古ぼけた灰色の石板のおかげで自分が虚無の中に立っているわけではないと知り、少々安心した。前へ歩いていくと、間もなく道はなくなった。前方は白い虚無だった。耳を澄ませば、下から水音が聞こえてきた。その時はじめて、自分は橋の上に立っていることに気付いた。
ここは橋の彼方。ふっとそう思った。
夢の中にいるような気がしたが、本物の夢とは何かが違う気もする。意識がはっきりある状態でその幻の空間へ飛び込んだことは何回も経験した。しかも必ず同じところにいて、同じ行動を取った。
しかし、何故か恐怖と思ったことが一度もなかった。あそこにいればとても穏やかな気持ちになる。そこに長くいれば自分もあの白い霧に溶け込み、その一部になってしまうと、一抹の不安が過ぎったが、何故かその不安もすぐになくなった。やり残したことがあるから、まだ消えない。形が保たれる。そういう確信があった。
やり残しって、何?ぼんやりと思っていたけど、はっきりと思い出せなかった。大事なことだけは覚えている。
我に返ると、自分はお母さんの部屋にいた。あの絵を見たまま、どこか別世界に行ってきたような奇妙な感じだった。
「帰ってきた?」
キャンバスに向けていたお母さんの声が背中越して聞こえた。
「うん」
「いつもじーっとあの絵を見ているのね。好きなの?」
「お母さんの絵、皆好き」
「あら、嬉しいわ。でもあの絵を見て、気持ち悪いと言い出す人もいたわよ」
「そうなの?」
「あなたなら大丈夫でしょう。きっと私がたどり着けなかったところへ行ける」
「どこに?」
「橋の彼方だよ」
私は再びその絵を見上げた。言葉の意味はあまり理解できていない。しかし何だか寂しい気持ちになっていた。